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喧嘩を売るのはやめて
しおりを挟む片側の頬が痛い。
ヘレナは目を見開き、表情筋を精一杯使って淑女の微笑みを浮かべてゴドリー侯爵夫妻と和やかに歓談するカタリナの方へ顔を向けていた。
そうすると、正面に座っている戸籍上の夫の視線がちくちくと刺さるのだ。
ずっと沈黙しているだけに、痛みは増す。
なんせ、彼とは結婚式以来の対面。
天と地の開きのあるお値段の衣装はもちろん、身長が十センチ以上も伸びたらさすがに印象が変わる。
しかし、せっかく侍女たちが腕によりをかけて磨き上げてくれたこの姿も、どんなに化粧を頑張ったところで本物の美形たちが並ぶなか所詮ヘレナの地味顔じたいはそう変わらない。
いや地味であることが逆目立ちしているかもしれないが、そのアンバランスさに混乱し、『こいつは誰だ』と思っているに違いない。
そもそも。
国の頂点である王妃殿下のお茶会へ招かれていると連れてこられた先で、並み居る高位貴族の中で最も活躍しており、有能かつ人徳者として名高いゴドリー侯爵夫妻及びその息子との面談があるとは聞いていないですよ、叔母さ…いや、お母さま!
ヘレナの心の悲鳴を聞き取ったのか、カタリナはふと視線をヘレナたちへ巡らせた。
そして、にこりと美しい顔に大輪の花を咲かせる。
「あら、ゴドリー伯爵。そんなに娘をまじまじと見ないでくださいな。いくら会うのが婚姻手続きを終えた夜時以来だとしても、間違いなくこの子はヘレナ・リー・ストラザーンですわ」
朗らかな口調で暴露するカタリナに、夫妻の表情がさっと変わった。
彼らが把握していなかったことをカタリナが把握していたということで。
笑いながら爆弾を投下するのはやめてほしい。
叔母、いや母は国王の信頼が最も篤い家門に喧嘩を売りに来たのか。
ほっそりと首と足の長い水鳥のような姿をして好戦的なカタリナを止めてほしくてユースタスを見るが、彼はちらりとヘレナに流し目をしたのち、妖艶に唇を持ち上げた。
駄目だ。
従兄はこの場をとても楽しんでいる。
素早くクリスを振り返ると無表情に見えて彼の瞳にはめらめらと闘志の炎が燃えていた。
「この子もまだ十七歳。成長期ですからいきなり見た目が変わることもありますわ。それにご存じの通りろくでもない父親とその友人たちのせいで、貴族とは名ばかりの極貧生活でしたから。弟のクリスも我がストラザーンの屋敷へ移ってから、まるで魔法のかかったかのようにぐんぐん身長が伸びましたのよ」
こてりと頭を傾けて笑って見せるカタリナの意図をここでようやく理解した。
ヘレナの急激な成長は誰の眼にも異常に映るだろう。
これに関わる様々な件についてリチャードの後ろに立っている側近たちにはミカが口止めをしたはずだ。
ゴドリー夫妻はもちろん、リチャード自身も騎士団の要として清廉潔白と世間では言われている。
それでも。
愛する人が絡むとそれは変わってしまうこともあるだろう。
だから、カタリナは『食生活とストレスからの解放により、年相応に成長している』と押し切るつもりなのだ。
ここは、自分からも少し言うべきか。
意を決して顔と身体を正面に向け、坐したまま深く頭を下げた。
「お久しぶりです、ゴドリー伯爵。どうか母カタリナの失礼な言葉の数々をどうぞお許しください。母はブライトンを早くに出た身ではありますが、常に私たち姉弟のことを気にかけておりまして…」
「…ああ。それはよくわかっている」
一拍置いてリチャードのくぐもった声がヘレナの頭の上に振ってくる。
「しかしブライトン家なき今、ゴドリー伯爵があの別邸に住まわせてくださったおかげで、私もゆっくりと安心して生活ができており、こうして少しは背も伸びました。ありがとうございます。感謝を述べるのが遅くなり、申し訳ありません」
「いや…。こちらは住む場所を指示しただけで何もしていない。どうか頭を上げてくれ」
「はい」
背筋を伸ばすと、リチャードのアクアマリンの瞳がまず目に入った。
艶やかなプラチナブロンドを後ろに流し、相変わらず古代に作られた大理石の彫像の若者のように整った顔立ちをしている。
ただ、前は退廃的な空気が全身を取り巻いていたが、いま、目の前にいる彼からはそのようなものはほとんど感じられない。
全くないわけではない。
でも、ずいぶんと違う。
何が、と問われて明確に答えられるわけではないが。
「…君は。前は枯れていく木のような感じだったが」
上座の方から冷気が漂ってくる。
ヘレナの指先から血の気が引いていく。
「はい」
「…健康になって何よりだ」
なぜか、目をそらしてぼそりと言葉を落とした。
「はい。ありがとうございます」
貴方さまも。
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