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盗られたくなかったもの

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「モルダー、ここまでで十分だ。ありがとう」

 しばらく馬を走らせていると、ヒルはモルダーの肩を叩いた。


「馬の負担になる。気の毒だ」

「ああ、そう?まあこの子はそんなにやわじゃないけどな」


 モルダーが軽く手綱を引くと馬はゆっくりと止まり、すぐにヒルも飛び降りる。

 林の中はすっかり暗くなり、馬の胸元に取り付けられた魔道具のカンテラが淡く地面を照らしていた。


「それに俺は館には戻らない。人目につく前に別れよう」

 同じく下馬したモルダーは首をかしげる。


「こんな中途半端な場所でどうするんだ? 俺の部屋に来いよ。義妹も歓迎するさ」


「いや……。なるべく早くここを離れた方が無難だろう。実は俺にはこれがあって」


 いきなり地面に膝をつくと右側のブーツの紐を解いて裸足になった。


「お前、俺の右足首に何かあるかとか、わかるか」

「んん? あれ? 意識してみろと言われれば……? もしかして視覚阻害があるのかな」


「正解」


 足首に手をかけると何もないはずのところから、するりとハンカチが現れる。


「思い付きでやってみたんだが、アタリだったな」

「うん? 術のかけられた足輪かなんかがそこにあるんだね?」


「ああ。これだけは盗られたくなかったからとっさに上から巻いてみたんだが、一緒に隠れてくれたみたいだな」


 すっかりしわだらけになったハンカチをヒルは手のひらでゆっくり伸ばし、綺麗にたたみ直してズボンのポケットに入れた。


「ふうん。魔道具がそこにあったのか。効力は何?」


 ハンカチの残像を目で追いながら、モルダーは顎に手を当てて首を傾ける。

 ヒルは紐を結び直すと、立ち上がり背筋を伸ばす。


「たしか……。防御と攻撃の身体強化、あと軽度の治癒魔法、そして転移魔法が付与されているらしい。だからそれでここから帝都へ飛ぶ」


「え?身体強化、使っていたの?」


 ぱちくりと目を見開くモルダーにヒルは肩をすくめ首を振った。


「いや。そういや使わず仕舞だな……。殺してしまったらまずいと思って、とりあえず何もかけないままで動いたが、あいつらには必要なかった」


「だよな。クロスボウの腕もあの程度だもんなあ」


 彼らは予想以上にポンコツだった。


 狩猟会でそれなりに獲物を捕まえていたが、それらは全てアビゲイルがあらかじめ用意した『人馴れした獣』ばかり。


 それらは野生で生きていた割にはあまりにも毛艶がよく、栄養をたっぷり摂っていた証拠に柔らかな身体ばかりで、招待客を喜ばせるために開会直前に解き放たれたであろうと容易に想像がつく。

 何より人間に飼いならされ懐いていたため警戒心がまるでなく、あっさりと捕まった。

 気の毒な獣たちは、なぜ突然自分が追い回され殺されるのかわからぬまま死んでいっただろう。


 戦場へ出た経験はなく、型通りの試合と狩猟会程度でしか腕を磨けなかった者ばかりだからこそ、素足の蹴り程度であっさり地面に沈んでしまった。


「いやもう、ホランドが珍しく俺に頼み事してくるから来てみたけど、余計なお世話だったよな」


「ああ。やっぱりライアンが知らせに行ったんだな。すまなかった」


 義妹の件は口実で、ヒルのためにモルダーは滞在期間を伸ばした。



「いや? そもそも、リチャードの配下が今どういう感じか知りたかったからちょうど良かったよ。不在の間にちょっとずつ動いて今は総入れ替えになってしまったらしいって噂は聞いていたから」


「ようはあの歌、あいつらが歌ったのは俺が初めてじゃないってことだな」


 責任感の強い、良い騎士たちが留守を預かっていた筈だった。

 しかし帰国した時にはもうすでにノーザンが団長代理として出迎え、孔雀ばかり集めたようなお飾りの騎士団になっていた。


「だな。それもあってちょっと潜伏調査的な? うまい具合にお前がやられることになったから仕事が進む進む。証拠もばっちり取れて、こっちこそありがとって感じだよ。で、なんでここまで悲惨な状況になってるの?」


「帰着した時にはもう、最高責任者のバーナード・コールが老衰……いや、廃人同然になっていた。そのせいで事務処理が混乱している。二年間の書類の整理と確認のためにウィリアム、ヴァン、ライアンの三人で手を尽くしているところだが、重要書類がほとんど見つからない」


「…………あ。もしかして今回、コールたちが同行しなかった理由は……」


「今頃必死になって屋敷中を探していると思う。バーナード氏はゴドリー侯爵に対する忠誠心が強かった。策を講じない筈はない」


「うん。そしたらなるべくここで足止めさせた方が良いのかなあ。その辺、ちょっと俺やっとくよ」

 唇を吊り上げてモルダーは暗い笑みを浮かべる。

「お手柔らかに頼む……」



「さてね。ところでお前、解雇されたんだから、うちへ転職な。で、とりあえずさ。ここに署名くれよ」


 胸元から紙を取り出すと、馬の横っ腹に広げる。

「ほら、ペンはこれ」

 もう一度胸元を探ると携帯用のペンが出て、それをヒルに差し出した。


「は?」


「もう一つの任務がさ。お前の引き抜きだったんだよね。もうそろそろゴドリーへの奉仕は終わりにしていいだろうって王妃様が」


 ぱんぱんと書類を叩いて記入を催促される。


 この書類は見飽きているので、遠目にも何なのかわかってしまう。

 近衛騎士団入団承諾書。

 三年前からずっとことあるごとに署名を迫られ、断り続けていた。


 しかし、もう。


「わかった」

 あっさり頷くとペンを受け取り書類にさっと目を通した後、さらさらと署名した。


「うわ、どうしよう。本当にサイン貰えた! ずっとずっとつれなかったのに! これって、俺は感謝のキスをすべき?」


 横で見ていたモルダーが大げさに両手を頬に当てて、乙女のようにはしゃぐ。

 実際のところ、モルダーは出会った時から帝国騎士団への入団を口説いていたため、感無量だった。


「……。実は署名しない方が良いのか?」

 両手を書類と馬に当てたまま、ヒルが眉間にしわを寄せて振り返ると、慌ててそれをひったくる。


「年上を苛めるの禁止。成功報酬で妻とデートさせてくれよ」

 全てを収納した胸元をぽんぽんと叩いて笑った。


「そういやお前。さっきの魔道具って、あれはリド・ハーン絡みか。結婚式にも出ていたって義妹が言っていたのを今思いだした」

「ああ。そういや、そっちこそあのカラス絡みで魔導士庁とはズブズブのくせに、見かけなかったな」

 騎士団の弓の弦を切るような能力のあるカラスなんて、魔導士庁特製魔改造生物以外の何物でもない。

「あの日は末っ子たちがはしかに罹っていたから看病で欠席したんだよ。じゃあ、お前が連れていた小さな女の子ってカタリナ・ストラザーン伯爵夫人の姪か」

「……本当に察しの良いことだな」


「お前がまともになったのは、どう考えてもその女の子のおかげだろう? 今のリチャード・ゴドリーは宝の持ち腐ればっかりだな」 

「ヘレナ様のことについては心からそう思う」

 ヒルは深くため息をついた。


「じゃあ俺はとりあえず、ここから魔導士庁へいったん飛んで、ウィリアムたちと連絡を取る。解雇されているからしばらく帝都のどこか安宿住まいになるだろう。連絡先はラッセル商会で頼む」

「わかった。俺は帰ったらリチャードとちょっと話をするよ。転職の件はさすがに元主の耳に入れとくべきだろうから」


「それと、騎士団にあいつらの捜索を頼んでくれないか。一人だけ少し治癒魔法が出来るやつがいたけど、あいつには全員の治療は無理だ」

「あんな奴ら、野生の獣に食われちまえばいいのに、お前はほんとに優しいね」

「……生きている方が、獣の腹に収まるより過酷かもしれないさ」

「言えてる」

 ふっとモルダーは笑う。


「ああ、そうだ。もう一つ頼む」

「ん? なになに?」

 ヒルはポケットから何かを取り出し、モルダーへ投げた。


「……金貨?」

 手のひらで受けたそれをつまみ上げて首をかしげる。


「ライアンへ返してくれ。それのおかげで良い感じに反撃できたと伝えてくれるとありがたい」


「ふうん。わかった」

「では、先に行く」

「ああ」


 モルダーの返事に軽く頭を下げた後、ヒルは空を見上げ口の中で何か小さく呟く。

 ふわっと淡い光が彼を包んだかに見えたが、一瞬にして消え、モルダーと馬だけが取り残された。


「あっさり行ったな……。あいつ、早く帝都へ帰りたかったくちか」

 モルダーは、男が大事そうにたたみ直して仕舞ったハンカチの細やかな刺繍を思い浮かべる。



「さて。そんなわけで、ライアン坊ちゃんも少しはイイコになってきたのかな」


 預けられた金貨をカンテラの灯りにかざす。

 傷だらけのそれは、きらきらと、とても美しい光を放った。






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