上 下
126 / 311

爆ぜて!! ※襲われる場面があります。ご注意ください。

しおりを挟む

 暗闇を怖いと思ったのは、初めてかもしれない。

 ドナは泣き出したくなるのをこらえながらカンテラを片手に半地下の廊下を前へ進む。
 ようやくたどり着いて開けた扉の先にあるのは、この数日ですっかり馴染んだアビゲイル伯爵邸別館の厨房。
 いつもは料理人たちがにぎやかに動き回り活気のある場所も、無人となることで雰囲気が一変した。

 目が慣れてくると半月の光が窓からうっすらと差し込んでいることに気付く。
 それでも、すぐそばにある林の、木々のざわめきすら感じない静けさが怖かった。

 カンテラを作業机の上に置き、スパイスなどの材料を収納棚からかき集めて並べ、オーブン付きストーブの種火はそのままになっていたので、少し薪を加えて火力を強めた。

 天板の上に鍋を置けば簡単に温めることができる。

 はやる気持ちをなんとかなだめつつ、果物を剥いて刻み、さまざまな材料を鍋に入れてようやく指定されていたワインがここにはないことに気付いた。

 ミュルン産の白ワイン。

 あれは貴重なので、ワイン倉庫の中だ。
 鍵はかかっていないが奥まったところにある。

 出来る事なら行きたくない。

 ふと視線を上げると、一本のワインが目に入った。
 昼食用に開けたあのワインはミュルン産と比べて遜色ない味だと味見した料理人たちが言っていた。

 代用してはいけないだろうか。
 最高級クラスのワインをそのためだけに封を切り、加工するのも気が引ける。

 そもそも、コンスタンス様は本当にモルドワインをご所望なのだろうか。

 毎晩作らされていたが、ほんの少し口をつける程度で飲み干したことがない。
 たいていは使用人たちに下げられた。
 少なくとも、ドナのレシピのそれはさほど好きではないのだと思い至る。

 ならばなぜ、今、作るよう指示されたのか。

 口実。

 自分をここへ追いやるための。
 それしか考えられない。


 チリン、チリンチリンチリン……。

 使用人を呼ぶハンドベルの音が聞こえてきた。

 主寝室のある二階、騎士たちが詰めていた一階、そしてこの地下。
 どこにも人気はなかった。
 ならば、このベルの意味は。

『ドナ!!』

 ベージル・ヒル騎士団長の声で。
 そう呼ばれているような気がする。


 握りしめていた鍋を台の上に置き、カンテラに手を伸ばそうとしたその時。

「…………っ」

 ふいに強い力で何者かに肩を掴まれた。

「きゃ……っ!」

「おっと」

 低い声。

 大きな、男の手がドナ口を塞ぐ。
 背後から強い力で両腕ごと腰を抱き込まれ、顎も痛みが走るくらい強くつかまれている。

 骨ばった細くて長い指。
 労働者ほどではないが、若い男だからこその力にドナは怯える。

 自分は小柄で非力だ。

 そして、ここにいるのは自分とこの男だけ。
 絶望に足元から血の気が引いていく。

「声を出すなよ……って言っても、どうせ聞こえやしないけどな」

 男はくくくと喉を鳴らしながら笑っていた。

 香水。
 この匂いはどこかで嗅いだ気がする。
 でも、それがどうだというのだ。

 団長が危惧したとおりの事態になっている。

「よーし。いい子だ。逆らうなよ。ちょっとでも逆らったらどうなるかわかっているよな」

 かたかたと身体が小刻みに震えるだけで抵抗しないことに気をよくした男は顎を解放し、首を撫で、鎖骨を通ってゆっくりと胸へと手を伸ばす。
「は。やっぱ、がりがりでちっさいな。まあ、とりあえず抱ければそれでいいって言ったのは俺なんだけどさ~」

 後から抱き着いたまま、体中を両手で執拗に撫でまわしながら息を荒げ始めた男に嫌悪が募るが、歯を食いしばって耐えた。

 べらべらと喋る男に隙ができるのを待つ。

 台の上にはオレンジを剥いたナイフが載ったままだ。

 でも、運よくそれを手にしたとして、使えるだろうか?
 反対にめった刺しにされるのは自分ではないか。
 助かる方法が全く思いつかない。

 チリン、チリン、チリン、チリン……。

 呼び出しベルはまだ鳴り続けていて、そのせわしない音と自分の鼓動が同化する。


「ほんとは廊下で引き渡しだったはずなのに行っちゃったから、焦ったなあ。まあ、失敗したら地下に行けって言われていたから待っていたんだけどさ」

「え……?」

 男の言葉に気を取られている間に勢いよく床に突き飛ばされた。

「きゃあっっ」

 両手を床についたが間に合わず、頬をしたたかに打つ。

「はは、イイ声」

 四つん這いに逃げようとしたが足を掴まれ引き戻される。

「いや……。やめて……」

 ずるずると引きずられながら床に落ちているものに気付く。

 厨房には不似合いな、空の、大きな麻袋。

 あれは、おそらく。


「最初はやっぱ顔見てやりたいわ。こっち向けよ」

 簡単にひっくり返されて思わず相手の顔を見てしまった。

「安心しろよ。いい子にしてりゃ気持ちよくしてやるよ」

 整った部類に入るはずの顔が醜く歪んでいた。

 男は使用人の制服を着たままだった。

 これは、今日の宴会で飲み物を給仕していた男たちの身に着けていたもの。


「それに、後で仲間がもっと可愛がってくれるしさ……」

 言うなり、襟元を掴んで前を引きちぎられた。


「いやああっ」

「うるせえ!!」

 手足をばたつかせて抵抗すると、思いっきり頬を殴られた。

 一発、二発……。
 バシッ、バシッ、バシッと殴打される音が響く。

 興奮した男は執拗に殴り、ドナの意識は朦朧としていった。


「静かにしろってんだ、このクソが……」

 しかし髪を掴まれ引っ張り上げられた時、自らの左手に気付いた。

 ない。

 握りこんでいたはずの珠がない。

 いつ手放して、いまどこにあるのかはわからないけれど。

 ドナは、きゅっと目をつぶった。


「あ、やべ。顔を殴ったら売り物に……」

 もう、みなまで聞く必要はない。

 ドナは叫んだ。


「爆ぜて!!」


 パーンと何かが弾ける音がして。

 瞼を閉じてなお、強烈な光をドナは感じた。





しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

職業『お飾りの妻』は自由に過ごしたい

LinK.
恋愛
勝手に決められた婚約者との初めての顔合わせ。 相手に契約だと言われ、もう後がないサマンサは愛のない形だけの契約結婚に同意した。 何事にも従順に従って生きてきたサマンサ。 相手の求める通りに動く彼女は、都合のいいお飾りの妻だった。 契約中は立派な妻を演じましょう。必要ない時は自由に過ごしても良いですよね?

敗戦して嫁ぎましたが、存在を忘れ去られてしまったので自給自足で頑張ります!

桗梛葉 (たなは)
恋愛
タイトルを変更しました。 ※※※※※※※※※※※※※ 魔族 vs 人間。 冷戦を経ながらくすぶり続けた長い戦いは、人間側の敗戦に近い状況で、ついに終止符が打たれた。 名ばかりの王族リュシェラは、和平の証として、魔王イヴァシグスに第7王妃として嫁ぐ事になる。だけど、嫁いだ夫には魔人の妻との間に、すでに皇子も皇女も何人も居るのだ。 人間のリュシェラが、ここで王妃として求められる事は何もない。和平とは名ばかりの、敗戦国の隷妃として、リュシェラはただ静かに命が潰えていくのを待つばかり……なんて、殊勝な性格でもなく、与えられた宮でのんびり自給自足の生活を楽しんでいく。 そんなリュシェラには、実は誰にも言えない秘密があった。 ※※※※※※※※※※※※※ 短編は難しいな…と痛感したので、慣れた文字数、文体で書いてみました。 お付き合い頂けたら嬉しいです!

愚かな者たちは国を滅ぼす【完結】

春の小径
ファンタジー
婚約破棄から始まる国の崩壊 『知らなかったから許される』なんて思わないでください。 それ自体、罪ですよ。 ⭐︎他社でも公開します

令嬢に転生してよかった!〜婚約者を取られても強く生きます。〜

三月べに
ファンタジー
 令嬢に転生してよかった〜!!!  素朴な令嬢に婚約者である王子を取られたショックで学園を飛び出したが、前世の記憶を思い出す。  少女漫画や小説大好き人間だった前世。  転生先は、魔法溢れるファンタジーな世界だった。リディーは十分すぎるほど愛されて育ったことに喜ぶも、婚約破棄の事実を知った家族の反応と、貴族内の自分の立場の危うさを恐れる。  そして家出を決意。そのまま旅をしながら、冒険者になるリディーだったのだが? 【連載再開しました! 二章 冒険編。】

【完結】辺境伯令嬢は新聞で婚約破棄を知った

五色ひわ
恋愛
 辺境伯令嬢としてのんびり領地で暮らしてきたアメリアは、カフェで見せられた新聞で自身の婚約破棄を知った。真実を確かめるため、アメリアは3年ぶりに王都へと旅立った。 ※本編34話、番外編『皇太子殿下の苦悩』31+1話、おまけ4話

婚約者が他の女性に興味がある様なので旅に出たら彼が豹変しました

Karamimi
恋愛
9歳の時お互いの両親が仲良しという理由から、幼馴染で同じ年の侯爵令息、オスカーと婚約した伯爵令嬢のアメリア。容姿端麗、強くて優しいオスカーが大好きなアメリアは、この婚約を心から喜んだ。 順風満帆に見えた2人だったが、婚約から5年後、貴族学院に入学してから状況は少しずつ変化する。元々容姿端麗、騎士団でも一目置かれ勉学にも優れたオスカーを他の令嬢たちが放っておく訳もなく、毎日たくさんの令嬢に囲まれるオスカー。 特に最近は、侯爵令嬢のミアと一緒に居る事も多くなった。自分より身分が高く美しいミアと幸せそうに微笑むオスカーの姿を見たアメリアは、ある決意をする。 そんなアメリアに対し、オスカーは… とても残念なヒーローと、行動派だが周りに流されやすいヒロインのお話です。

【完結】婚約者の義妹と恋に落ちたので婚約破棄した処、「妃教育の修了」を条件に結婚が許されたが結果が芳しくない。何故だ?同じ高位貴族だろう?

つくも茄子
恋愛
国王唯一の王子エドワード。 彼は婚約者の公爵令嬢であるキャサリンを公の場所で婚約破棄を宣言した。 次の婚約者は恋人であるアリス。 アリスはキャサリンの義妹。 愛するアリスと結婚するには「妃教育を修了させること」だった。 同じ高位貴族。 少し頑張ればアリスは直ぐに妃教育を終了させると踏んでいたが散々な結果で終わる。 八番目の教育係も辞めていく。 王妃腹でないエドワードは立太子が遠のく事に困ってしまう。 だが、エドワードは知らなかった事がある。 彼が事実を知るのは何時になるのか……それは誰も知らない。 他サイトにも公開中。

処理中です...