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爆ぜて!! ※襲われる場面があります。ご注意ください。
しおりを挟む暗闇を怖いと思ったのは、初めてかもしれない。
ドナは泣き出したくなるのをこらえながらカンテラを片手に半地下の廊下を前へ進む。
ようやくたどり着いて開けた扉の先にあるのは、この数日ですっかり馴染んだアビゲイル伯爵邸別館の厨房。
いつもは料理人たちがにぎやかに動き回り活気のある場所も、無人となることで雰囲気が一変した。
目が慣れてくると半月の光が窓からうっすらと差し込んでいることに気付く。
それでも、すぐそばにある林の、木々のざわめきすら感じない静けさが怖かった。
カンテラを作業机の上に置き、スパイスなどの材料を収納棚からかき集めて並べ、オーブン付きストーブの種火はそのままになっていたので、少し薪を加えて火力を強めた。
天板の上に鍋を置けば簡単に温めることができる。
はやる気持ちをなんとかなだめつつ、果物を剥いて刻み、さまざまな材料を鍋に入れてようやく指定されていたワインがここにはないことに気付いた。
ミュルン産の白ワイン。
あれは貴重なので、ワイン倉庫の中だ。
鍵はかかっていないが奥まったところにある。
出来る事なら行きたくない。
ふと視線を上げると、一本のワインが目に入った。
昼食用に開けたあのワインはミュルン産と比べて遜色ない味だと味見した料理人たちが言っていた。
代用してはいけないだろうか。
最高級クラスのワインをそのためだけに封を切り、加工するのも気が引ける。
そもそも、コンスタンス様は本当にモルドワインをご所望なのだろうか。
毎晩作らされていたが、ほんの少し口をつける程度で飲み干したことがない。
たいていは使用人たちに下げられた。
少なくとも、ドナのレシピのそれはさほど好きではないのだと思い至る。
ならばなぜ、今、作るよう指示されたのか。
口実。
自分をここへ追いやるための。
それしか考えられない。
チリン、チリンチリンチリン……。
使用人を呼ぶハンドベルの音が聞こえてきた。
主寝室のある二階、騎士たちが詰めていた一階、そしてこの地下。
どこにも人気はなかった。
ならば、このベルの意味は。
『ドナ!!』
ベージル・ヒル騎士団長の声で。
そう呼ばれているような気がする。
握りしめていた鍋を台の上に置き、カンテラに手を伸ばそうとしたその時。
「…………っ」
ふいに強い力で何者かに肩を掴まれた。
「きゃ……っ!」
「おっと」
低い声。
大きな、男の手がドナ口を塞ぐ。
背後から強い力で両腕ごと腰を抱き込まれ、顎も痛みが走るくらい強くつかまれている。
骨ばった細くて長い指。
労働者ほどではないが、若い男だからこその力にドナは怯える。
自分は小柄で非力だ。
そして、ここにいるのは自分とこの男だけ。
絶望に足元から血の気が引いていく。
「声を出すなよ……って言っても、どうせ聞こえやしないけどな」
男はくくくと喉を鳴らしながら笑っていた。
香水。
この匂いはどこかで嗅いだ気がする。
でも、それがどうだというのだ。
団長が危惧したとおりの事態になっている。
「よーし。いい子だ。逆らうなよ。ちょっとでも逆らったらどうなるかわかっているよな」
かたかたと身体が小刻みに震えるだけで抵抗しないことに気をよくした男は顎を解放し、首を撫で、鎖骨を通ってゆっくりと胸へと手を伸ばす。
「は。やっぱ、がりがりでちっさいな。まあ、とりあえず抱ければそれでいいって言ったのは俺なんだけどさ~」
後から抱き着いたまま、体中を両手で執拗に撫でまわしながら息を荒げ始めた男に嫌悪が募るが、歯を食いしばって耐えた。
べらべらと喋る男に隙ができるのを待つ。
台の上にはオレンジを剥いたナイフが載ったままだ。
でも、運よくそれを手にしたとして、使えるだろうか?
反対にめった刺しにされるのは自分ではないか。
助かる方法が全く思いつかない。
チリン、チリン、チリン、チリン……。
呼び出しベルはまだ鳴り続けていて、そのせわしない音と自分の鼓動が同化する。
「ほんとは廊下で引き渡しだったはずなのに行っちゃったから、焦ったなあ。まあ、失敗したら地下に行けって言われていたから待っていたんだけどさ」
「え……?」
男の言葉に気を取られている間に勢いよく床に突き飛ばされた。
「きゃあっっ」
両手を床についたが間に合わず、頬をしたたかに打つ。
「はは、イイ声」
四つん這いに逃げようとしたが足を掴まれ引き戻される。
「いや……。やめて……」
ずるずると引きずられながら床に落ちているものに気付く。
厨房には不似合いな、空の、大きな麻袋。
あれは、おそらく。
「最初はやっぱ顔見てやりたいわ。こっち向けよ」
簡単にひっくり返されて思わず相手の顔を見てしまった。
「安心しろよ。いい子にしてりゃ気持ちよくしてやるよ」
整った部類に入るはずの顔が醜く歪んでいた。
男は使用人の制服を着たままだった。
これは、今日の宴会で飲み物を給仕していた男たちの身に着けていたもの。
「それに、後で仲間がもっと可愛がってくれるしさ……」
言うなり、襟元を掴んで前を引きちぎられた。
「いやああっ」
「うるせえ!!」
手足をばたつかせて抵抗すると、思いっきり頬を殴られた。
一発、二発……。
バシッ、バシッ、バシッと殴打される音が響く。
興奮した男は執拗に殴り、ドナの意識は朦朧としていった。
「静かにしろってんだ、このクソが……」
しかし髪を掴まれ引っ張り上げられた時、自らの左手に気付いた。
ない。
握りこんでいたはずの珠がない。
いつ手放して、いまどこにあるのかはわからないけれど。
ドナは、きゅっと目をつぶった。
「あ、やべ。顔を殴ったら売り物に……」
もう、みなまで聞く必要はない。
ドナは叫んだ。
「爆ぜて!!」
パーンと何かが弾ける音がして。
瞼を閉じてなお、強烈な光をドナは感じた。
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