糸遣いの少女ヘレナは幸いを手繰る

犬飼春野

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噓と口実

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「ねえ、ベージル…。悪酔いしたみたいで気分が悪いわ。上着のボタンをはずしてちょうだい……」

 暖炉の前のソファへ降ろす瞬間、女主人はヒルの耳元に吐息交じりの声で囁く。

 彼女が今身に着けている自分の上着は騎士の礼服。
 詰襟でしっかり喉まで細かなボタンが施されており、寒いと言った女主人の言葉を真に受けたドナが着せる時にしっかり上まで留めていた。

「私の爪ではうまく外せないの」

 指を長く見せるために形を整えられ伸ばされた爪では、騎士服の厚い生地は確かに扱いづらいかもしれない。

 しかし、日常生活に困るほどではなく儀礼上のグローブも難なくはめられ、その指先で器用にイヤリングを装着しているのを何度も見ているヒルにとって、浅はかな嘘にしか思えなかった。

 大柄な自分の服は、女性らしいコンスタンスの身体には大きく過ぎて余り、襟元も開き締め付けているわけではない。
 敢えて指摘するなら、布が重いくらいか。

 嘘、というより口実。
 甘い時間を共有するための手段。

 ボタンを外したら上着を脱ぎたいというだろう。
 そしてその次は……?


「…………」

 少し前まで、自分の目に映るコンスタンスの姿は違った。

 高級娼婦という生業に就いているが、それはあくまでも生まれた環境に強いられたものであって、生き地獄から抜け出そうとあがいている気の毒な女性。
 色々な男に止む無く身を任せているが、好きでやっているわけではない。

 そう見えた。

 いや。

 彼女はそれをはっきりと口にしたことはない。
 ただ、そう、思い込んだだけだ。
 自分が勝手に。


 『娼婦はみんなかわいそう、庇護してあげなきゃって、馬鹿すぎるよ、あんた』


 ミカの声が頭の中で鮮明によみがえる。

 あれは、コンスタンスに同情し請われるまま身体の関係を持ち続けていたヴァンに向かって投げつけられた言葉だったが、それはヒルに対しても同じこと。


『この件は忘れるから
 どうか
 リックにも誰にも
 秘密にしてほしい
 知られたら
 もうそばにはいられない』


 あの、過ちの一夜に。
 泣きながら懇願したのは、本当にこの人だったのか。

 記憶の中の頼りなげなコンスタンスと、
 支配者としてヒルを屈服させ、性的な関係に持ち込もうと画策するコンスタンス。
 二人は対極にありすぎて重ならない。


『俺は魅了でもかかっているのかと思うくらいだったよ。あの一貫性のない人格設定でどうしてみんな信じ込んでいるんだか理解できない』


 コンスタンスに呼び出されて対面したテリー・ラッセルの言葉を思い出す。


 シエナ島で出会ったコンスタンスは。

 帝都の最上級の娼館で最高の待遇を受けていたのに、上位娼婦に疎まれて最果ての島に流されたと、娼館で働く者たちがよくこぼしていた。
 けなげで、気の毒な人だと。
 娼婦の娘として生を受け、花街に縛られ、命尽きるまで消費され続けている。
 後ろ盾がなく、心優しいばかりにと。

 風土病にかかって苦しむリチャードを使用人たちよりも手際よく、そして献身的に看病したコンスタンス。

 娼館にとどまらず提督の館に詰める間の花代は、今まで己が稼いだ分で十分充てられるからと言うのを鵜吞みにして心酔した自分たちがどれほど世間知らずだったか今なら解る。

 チョロい。

 ミカの言う通りだ。

 自分たちは娼婦の手管にあっさりかかり、ここまで来てしまった。


「……ねえ。このままだと吐きそう……」

 動かないヒルに焦れたのか、コンスタンスは口元に両手を当てうつむいた。

「少しお待ちください」

 少し離れたところに水の入った小さな琺瑯の盥とバスマットがあった。
 おそらく、ドナがコンスタンスの足を洗うのに使ったのだろう。

 ヒルはその盥を抱えて部屋を横切り、窓を大きく開けて逆さにする。
 ざんっと水が落ちて地面に当たる音がした。

「え……? ベージル、貴方何を……」

 しっかり水気を切った後、空けた窓はそのままに顔を上げて驚くコンスタンスの元へずかずかと大股で戻り、跪いて大げさなまでに丁寧な所作で盥を膝の上に置く。


「とりあえず、これをお使いください」

「え、まさかこれに?貴方正気なの」

 瞬時に怒りで真っ赤になって震えだしたコンスタンスの両手を取り、しっかりと握って盥の縁を掴ませる。

「ここを握っておいてください。ドナが来たら浴室へお連れします」

「ちょっとベージル」

「失礼します」

 言うなり、テーブルの真ん中に置いてあったハンドベルを掴み、左右に振った。

 チリンチリンチリンチリン……。

 広い室内、扉の少し空いた隣の寝室、廊下、そして開け放したままの窓の外に向かって鈴の音が響き渡る。

「ドナ!! 奥様がお呼びだ。戻ってこい!」

 ヒルは大きく息を吸い込んだ後、腹に力を入れ寝室に向かって怒鳴った。
 コンスタンスは盥から手を放して両手で耳を塞いだ。

「貴方、どうかしているわよ……気でも狂ったの」

 螳螂程度の脳みそ。

 モルダーは自分のことをそう表現した。

 ならば、そのように振舞うまでだ。
 女の誘いに全く気付かない、無粋な騎士。
 鈍い男。
 この場を喜劇にしてしまえ。


「ドナ!! おかしいですね。サボっているのでしょうか。仕置きが必要です。ドナ!!」

 せかせかとベルを打ち鳴らしながら部屋の中を歩き回り、ついでに窓から外に向かって声を上げる。

「ドナ! 奥様がお呼びだ!!」

 これほど騒げば、厨房にも届くはず。
 彼女がこちらへ戻る口実になるだろう。

「今すぐ黙れって言ってんのよ! ベージル・ヒル!!」

 耳をふさいだまま、コンスタンスが叫んだ。
 ぴたりと、動きを止める。

「もういいから。静かにしてちょうだい……」

「はい」

 ちりん、と小さく揺れるハンドベルを元の位置へ戻す。
 これだけ大騒ぎしたにもかかわらず、あたりはしんと静まり返っていて、二人の間に聞こえるのは燃えている薪がたてるぱちぱちという音だけだ。

 アビゲイルの護衛も、ゴドリーの使用人も、誰一人いない。
 まるで、人払いでもされたかのように。


「失礼しました。奥様を早く介抱させたくて……」

 とぼけた態度で言い訳をしている最中に、廊下から誰かが駆けてくる足音がする。
 小柄で痩せたドナの出す音ではない。
 体重も筋肉もしっかりついた大人の男。
 たとえば騎士のような。


「奥様!大丈夫ですか!!」

 ドアを蹴り開け、転がるように入ってきたのは副団長のノーザンだ。
 女主人の窮地を救いに来たかのように正義感に満ちた表情の彼は、帯剣していて抜刀寸前だった。

「……っ? これは……。いったい……」

 コンスタンスはヒルの礼服をしっかりと着込んだ上暖炉の前のソファで盥を膝に抱えて座り、テーブルをはさんで立つヒルは帯剣しているもののシャツ一枚という寒々しい姿で、なぜか片方だけ靴を履いていない。
 第三者から見ればずいぶんと奇妙に映るだろう。

 もしくは、彼の予想と違う状況だったか。

「ノーザン。お前は……」

 ヒルが口を開いた瞬間、外からパアン! と何かが弾ける音がし、直後に強い光が窓から差し込んだ。

「きゃあっ!」

「な……ッ!!コンスタンス様!」

 ノーザンは駆け寄りコンスタンスを抱きしめる。
 がらんと音を立てて盥は落ちて床を転がっていく。

「……っ!」

 厨房はこの部屋の真下ではないが角部屋で半地下ゆえに小さいながらも外に面した窓があった。
 おそらくはそこからの光が外に漏れ出たのだろう。
 襲い掛かる魔獣を足止めするための閃光弾で衝撃はあまりないが、とにかく光が強烈だ。ドナが無事だという保証はない。

「ノーザン」

 うまいことに、ノーザンが扉を蹴ってくれたおかげで脱いだ靴が足元に戻ってきた。
 それを履きながら部下に声をかける。

「は」

「お前はここで奥様をお守りしろ。地下で何かが起きたらしい。俺はそちらへ確認に行く」

「は、はい」

「いやっ! 怖いわ。ベージル、行かないで!」

 コンスタンスはノーザンの腕の中でもがきながらヒルへ手を伸ばして懇願した。

「ノーザンはゴドリー伯爵家の副団長です。貴女の護衛に彼ほどの適任はいません」

「いやよ! 貴方もここに残るのよ、ベージル・ヒル!」

「火事が起きているかもしれません。すみません、失礼します。ノーザン、内鍵をかけてリチャード様が戻るまで絶対開けるな」

「わかりました」

「ベージル・ヒル!」

 軽く一礼した後、廊下へ向かう。

「待ちなさい―――」

 コンスタンスの声を振り切り、ヒルは地下に向かって全力疾走した。



「コンスタンス様。大丈夫です。ここに来る前に地下を覗いたけれど、何もなかった。きっと、俺と入れ違いに戻った厨房のやつらが酔っ払って何かやらかしたに違いありません」

 ノーザンは女主人を両腕でしっかりと抱いて適当な気休めを言う。

 何もない?
 そんなはずはないことを良く知っている。
 この男は、地下なんかに行っていない。
 なにも見ていないからこそ、言えること。

 だから。
 コンスタンスはぽつりと呟いた。


「爆ぜろ」


 ノーザンの胸に顔をうずめ、背中で両手をさまよわせながら。





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