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わがままは、女の

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 宴の喧騒から離れ、ヒルは女主人をエスコートしながら長い廊下をゆっくりと進んだ。

 侍女が緊張しきった様子で追い従っているのが背後から届く靴音でわかる。

 宮殿と称されるだけに大小二百を超える部屋を擁するこの建物は、あきれるほど広い。

 しかもアビゲイル伯爵が新婚の二人に気を利かせて割り当ててくれた部屋は催し物を行う区域から遠く離れ、廊下で繋がっているものの別館仕様の建物だった。

 二階の広く豪華ないくつかの部屋をリチャードたちが寝室及び居室として使い、一階、地下、屋根裏に随行者たちが寝泊まりし、料理と洗濯も地下で行うことができるため、自邸にいる時と何ら変わりのない日々だ。

 それにしても、この人通りの少ない廊下すら装飾に手を抜かない豪華な宮殿と言い、魔物が一切入らないよう徹底的に管理されていた狩猟場と言い、アビゲイル家の財力は途方もないとヒルが考えを巡らせている最中に、それまで黙って歩いていたコンスタンスが口を開く。


「ヒル」

「はい」

 いきなり彼女が足を止め、ヒルもそれに従う。

「靴が合わなくて、足が痛いの」

 足元に視線を向けゆるく頭を傾けるとさらりと長い黒髪が波打つ。

 今夜のコンスタンスの髪形は賞品のサークレットをかぶることを想定し、腰まである髪を結い上げず側面にのみ細かな編み込みをほどこして流し、淡い色の薄布を幾重にも重ねたドレスと併せてエルフの女王のような装いだ。

 白い額の真ん中には大きなルビーが窓から差し込む月の光を取り込んで輝いている。

「もう歩けないわ」

 ゆっくりと長い睫毛を上げ、サファイアをはめ込んだかのような瞳でじっとヒルを見つめた。

「それは……」

「一歩だって無理」

「わかりました。では失礼します。ドナ、来てくれ」

 後方でうつむき加減の姿勢で控えていた侍女に声をかけ、コンスタンスの手を彼女に預ける。

「……まずはこちらへおかけください」

 そして少し先の窓際に設置されていた椅子を運び、コンスタンスのそばに置いた。

 目と口を大きく開けて心底呆れたような顔をされたが、気付かぬふりをする。

 ドナという名の侍女と二人で介添えをすると観念したらしく、ようやく座った。

「靴を脱がせてちょうだい、ドナ」

「はい」

 不機嫌な面持ちの主におどおどした様子で侍女は床に座り、丁寧に足から靴を外す。

 これはもう、絶対に歩かないという意思表示だ。

 どうしたいのかは分かっているが、ヒルはそれを聞き入れるわけにはいかない。

 この女性との関わりは最小限にとどめたかった。
 無駄な抵抗と知りつつも、最善と思われる策を提案する。


「このまましばしお待ちいただけますか。リチャード様をお呼びいたしましょう。そろそろビリヤードも決着のつく頃です」

 ビリヤード室は先ほどの宴会場を通り過ぎて更に奥にある。
 とっさに連絡することを思いつかなかったことをヒルは悔やんだ。

「いやよ。私に独りでここにいろと言うの」

 ぎろりと睨まれ、女主人の機嫌がますます低下していくのを感じた。

「ドナがそばにいます。先ほどの回廊で警備していたアビゲイル家の騎士をこちらへ寄こしますから」

「いやよ。濡れたドレスが冷えて寒いの」

 せっかくかけたショールを払いのけ、胸元から膝にかけて流れ落ちた赤い液体のあとを白い手袋でたどってみせる。

「しかし……」

「貴方、私が風邪をひいても良いというの? ビリヤード室までどれくらい離れているかわかっているくせに」

「ですが」

 二人の応酬をドナはただただ両手を組んでおろおろしながら見守り続ける。

「貴方、私の話を聞いているの? 足が痛くて歩けない、寒いから早く部屋に戻りたい。それなのに、貴方は私をここに置き去りにするつもりなの?」

 天井が高くとてつもなく長い廊下にコンスタンスの怒りに満ちた声が響き渡った。
 しかし、どの部屋も今は無人なのか全く反応がない。
 広い空間に三人だけ放り出されたような錯覚に陥る。
 冷たく、重い空気に押しつぶされそうだ。

「……申し訳ございません。私の心得違いでした」

 ヒルは頭を下げると礼装の上着のボタンに手をかけ、手早くすべてを外して脱いだ。
 途端にコンスタンスは唇を上げ、瞳を輝かせる。

「失礼します。ご不快でしょうが、こちらをお召ください」

 二人がかりでコンスタンスに着せかけた。
 ヒルの上着は夜会用ドレスの上から羽織り、袖に腕を通しても十分に余る。
 ドナが前ボタンをとめているわずかな間、ヒルは素早く周囲を見渡したが、やはり誰かがやってくる気配はない。

 ため息をこらえ、床に跪き、首を垂れた。


「コンスタンス様。貴方様を抱き上げて部屋までお連れすることをお許しください」

「ええ」

「では、失礼します」

 いったん立ち上がり前かがみになると、すぐに両腕を伸ばし首に巻き付けてくる。

 むせかえるような薔薇の香油の香り。

 匂いごとヒルを絡め捕っていく。

「…………っ」

 背中と膝裏に腕を差し入れ、立ち上がった。

 人を抱き上げるのは久しぶりだ。
 戦場で負傷した部下や避難民を抱えて走ることは何度もあった。
 平和になってからは姪や甥、そして……。


「ドナ、先導してくれないか。この回廊からどう行けばいいのか、私は自信がない」

 本当は、後ろを歩くドナがふいにさらわれた場合今の自分では対応できないからだが、それを言うとおそらく彼女の立場が悪くなるだろう。

「は、はい。こちらです」

 カツカツと二人の足音だけが響く。

 今夜に限ってそばにいるのは何故かいつもの侍女ではなく、雇われて日の浅く仕事にも主人にも慣れていないため、常にびくびくと怯えている。

 細い背中を見つめながら階段を上ると、コンスタンスが身じろぎをした。
 彼女は絡めていた腕の力を強め、着せられた礼服の上から豊満な胸を押し付け、耳元にささやいた。

「いったいどうしたの、ベージル。最近の貴方はどうかしているわ……」

 ねっとり温かい吐息が耳の穴をくすぐり、ゆっくりと這う。
 ぺろりと舌を出し舐められたようだ。

 両手がふさがっているから抵抗などできるはずがない。
 しかも階段という一番神経を集中させねばならない場所で。


 どうかしているのは、お前だ。
 そう言いたいのをこらえた。


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