糸遣いの少女ヘレナは幸いを手繰る

犬飼春野

文字の大きさ
上 下
108 / 332

執事であること

しおりを挟む


「・・・ウィル」

 少しかすれ気味の声で、彼は、甥の愛称を口にした。
 緩慢な瞬きを繰り返しながらも黒い瞳は、しかとウィリアムを見つめている。

「叔父上。お加減はいかがですか」

 バーナード・コールは寝台に横たわったままで白髪交じりの黒髪も乱れているが、昨日の夢の中をさまよっているかのようなぼんやりとした表情ではないせいか、執事として精力的に仕事をこなしていたころの顔つきに幾分戻ったように思われた。

「・・・悪くない。いや・・・。今までで、ずっと良い」

 もつれ気味だったはずの言葉も、それが嘘のようにはっきりとしている。

「バーナード様・・・」

 ウィリアムの隣でジョセフが息をのんだ。

「びゃう・・・」

 バーナードの枕元で丸くなって寝ていた黒猫が目を覚まし、あくびをしながら伸びをする。

「な゛―う」

 少しかすれ気味の鳴き声にバーナードはふと笑みをこぼし、甥に尋ねた。

「この猫の名は?」

 ウィリアムの手を借りて身体を起こし、ジョセフから受け取ったグラスをきちんと自ら口に運び喉を湿らす。
 もはや手元が狂うこともなく、毅然とした振る舞いが見て取れる。
 ほんの短い間で劇的に変化していくバーナードの姿に周囲の者は驚きを隠せない。

「ネロと言います。伯爵家から連れてきました」

「そうか・・・」

 その小さな頭を撫でるバーナードの所作も、昨日よりもずっと的確に見える。

「ネロの飼い主は、ヘレナ様です。・・・ひと月ほど前にリチャード様の名義上の妻となられました」

 ウィリアムが叔父の状態を試すために補足説明をすると、彼の瞳に強い光がともるのをはっきりと感じた。

「もしや、昨日、この猫を抱いておられた方か」

「叔父上。あの時見えて・・・いえ、覚えておいででしたか」

 バーナードはいったん目を閉じる。

 黒髪の小さな少女。
 前髪から覗く瞳が印象的だった。

「ああ。全てはぼんやりとしていて夢かと思ったが・・・」

 満足げにゆるりと尻尾を振る猫の艶やかな背中を撫で、手のひらの感触を味わいながら話を続ける。

「この猫がそばにいるということは現実なのだと・・・」

 胸の奥から沸き立つ興奮をなんとか抑えながら、ウィリアムは深くうなずいた。

「はい。ヘレナ様は本日はお越しになられませんでしたが、こうして今も同行してくださっているお二人とともに、私は昨日、叔父上を訪ねました」

 少し離れたところに佇んでいた二人の魔導士へ手で指し示し、ウィリアムは紹介する。

「ヘレナ様のとりなしで、魔導士庁のお二人が昨日も叔父上のために色々とご尽力くださいました。改めてご紹介します。サイモン・シエル様とリド・ハーン様です」

 前日は意識がもうろうとしていたため、紹介することもままならなかった。

 しかし、今のバーナードは二人をしっかりと認識しているのがわかる。

「こんにちは、バーナード・コール様。私はサイモン・シエルと申します。昨日、我々が診察した限りではこれといった病気は思い当たらず極端に衰弱している事しかわかりませんでした。一切の原因は不明で、念のために毛髪の一部を頂き、研究員に解析を頼んでいるところです」

 一礼した後、濃灰色の長い髪も艶やかなサイモン・シエルがまず口を開く。

「ですが、深夜になって病巣が見つかり、治療魔法を施してみました。端的に言えば、薬物中毒によって心肺及び血液循環が悪化し、それに伴い脳にも障害が起きていたのだと思われます。全てが正常になるには今しばらく時間がかかるかと思いますが、この様子だとかなり回復したように見えます。いかがでしょう?倦怠感がずいぶん解消されたのではないですか」

 彼の説明の最中に金色の綿毛のような短い髪の魔導士がにこりと笑ってベッドのそばに跪き、細い指先でバーナードの手首を探って脈を確認し始めた。

「・・・うん。ほぼ問題なし…と思う。昨日とぜんぜん違う」

 どこかあどけない顔立ちの青年は、少し不満げに口を尖らせる。

「失敗したな・・・。まさか一晩でけりをつけられちゃうなんて思わなかったし」

「え・・・?」

 バーナードが首をかしげると、シエルがその魔導士の頭をくしゃっと雑にかき混ぜて苦笑いを浮かべた。

「すみません。ハーンは都合でその治療に立ち会えなかったので、今朝からずっと拗ねていまして」

 そこへ、黒猫がぴょんと跳んでハーンの肩に乗る。

「ネロ・・・。このうらぎりもの・・・」

 ハーンの恨み節もどこ吹く風で、ぐうぐうと喉を鳴らし、まるで宥めるかのように彼の頬に頭を摺り寄せ始めたため、和やかな空気が流れた。

「まだ解明されていないこともありますし、初手を繰り出しただけで、まだ完ぺきとはいいがたい状況です。今は、栄養のあるものを食べ、ゆっくりと休まれるのが何よりの薬となるでしょう。本日は確認のみのつもりでしたので、我々はこれで失礼しようと思います」

 シエルがいとまごいを口にすると、黒猫はハーンの腕の中に納まり直し、ウィリアムも居住まいを正して叔父に黙礼する。


「叔父上。実はゴドリー家の使用人たちには内緒で来ているのであまり長居ができません。今日はこれにて帰りますが、明日また伺いますので・・・」

 すると、バーナードは顔色を変え、手を伸ばし甥の袖を掴んだ。


「ウィリアム・・・、少し・・・少しだけ。今時間をくれないか」

 焦っているような、ただならぬ様子に、ウィリアムをはじめ、全員驚く。

「叔父上?」

「預けたいものがある」

 何かを探すように視線を巡らせ、見つからなかったのか家主を振り返った。

「ジョセフ。懐中時計を知らないか。あの・・・。祖父から贈られた・・・」

 みなまで聞かずとも、すぐに合点がいった元家令は頷き部屋の外へ向かって歩き出す。

「ああ、はい・・・。別室で保管しております。少々お待ちください」

 速足で去るのを見送ったウィリアム困惑した。

「叔父上、どうなさったのですか。ご愛用の懐中時計は私も覚えています。しかし・・・」

 甥の言葉をバーナードは遮る。

「私の体調が明らかにおかしくなったのは、今から二年ほど前だ。お前たちの赴任についていった使用人たちが戻り、留守を預かる体制がようやく落ち着いたころ・・・」

 額に当てる指先が、小刻みに震えていた。

「叔父上。まだ本調子ではないのです。どうか無理はおやめください」

 ウィリアムが叔父のやせ細った肩に手を伸ばすと、決して強くないが断固とした意志で振り払われる。
 木切れのようになってしまったその手はとても冷たい。

「今日は、調子が良いが、明日もそうとは限らない。私はそんな日々を繰り返しているうちに、頭の中がどんどん霞がかっていった・・・!」

 何事にも動じない。
 何があっても声を荒げることはない。
 そんな姿を見せ続けてきた執事の、悲痛な叫びだった。

「何かがおかしい。そう思っても、深く考えることができない。このままでは、ゴドリー伯爵家に不利益な何かが起きるに違いない事だけは分かっていた。だから・・・」

 ぜいぜいと肩で息をしながら続きを言おうとする叔父の背中を、ベッドの脇に跪いてゆっくりと撫でる。

「わかりました・・・わかりました、叔父上。だからどうか・・・」

 かける言葉が見つからず、声を詰まらせるウィリアムを見て、シエルはヘレナの作ったブランケットをベッドカバーの上から取り、バーナードの身体を包んだ。

「大丈夫です。大切なお話をする時間なら、まだ十分にあります」

 そして今度は、ハーンの腕の中からネロがまたするりと抜け出し、バーナードの頬をざらり舐め、ひと鳴きする。

「びゃおー」

 猫の舌からの刺激に我に返ったのか、バーナードの呼吸も落ち着いてきた。

「・・・正気を保てている間に、魔道具師を訪ね、ありったけの金を渡した」

「え・・・?」

 ウィリアム、シエル、ハーンの三人は目を交わし合う。

「たしかに・・・。叔父上の所持金が・・・あまりにも少ない・・・とは思っていましたが」

 バーナード・コールは十五歳の時にゴドリー伯爵家へ送り込まれ、以来、二十年にわたり働き続け、執事にまで上り詰めた。

 しかし、ウィリアムが叔父の持ち物を整理してジョセフの元へ送る時、それに見合う資産が全くなかった。
 出てくるのは、小銭ばかり。
 認知機能が落ちているところに付け込まれて散財したか、盗まれたのだろうと、思っていた。

「仕掛けをほどこしてもらった・・・あれに」

 あれ、とは。
 まさしく、懐中時計のことだろう。

「あれの中に・・・。ゴドリーの、重要書類が・・・」

「な・・・!」

 ウィリアムは息をのんだ。

「すべて、隠した。・・・奪われる前に」

 思考も尊厳も。
 全て奪われる。
 それに気づいた時。

 残された力でできることは、あまりにも少なかった。



しおりを挟む
感想 124

あなたにおすすめの小説

傾国の美兄が攫われまして。

犬飼春野
恋愛
 のどかな春の日差しがゆるゆるとふりそそぐなか、  王宮の一角にある庭園ではいくつものテーブルと椅子が据えられ、  思い思いの席に座る貴族の女性たちの上品な話声がゆったりと流れていた。  そんななか、ひときわきりりとした空気をまとった令嬢がひとり、物憂げなため息をついていた。  彼女の名はヴァレンシア。  辺境伯の娘で。  三歳上の兄がひとりいる。  彼は『傾国の』が冠される美青年だった。  美女と見紛う中性的な美貌の兄と  美青年と見紛う中性的な風貌の妹。   クエスタ辺境伯の兄妹を取り巻く騒動と恋愛模様をお届けします。 ※ 一年くらい前に思いついた設定を発掘し練り直しておりますが。   安定の見切り発車です。   気分転換に書きます。 ※ 他サイトにも掲載しております。

「君を愛するつもりはない」と言ったら、泣いて喜ばれた

菱田もな
恋愛
完璧令嬢と名高い公爵家の一人娘シャーロットとの婚約が決まった第二皇子オズワルド。しかし、これは政略結婚で、婚約にもシャーロット自身にも全く興味がない。初めての顔合わせの場で「悪いが、君を愛するつもりはない」とはっきり告げたオズワルドに、シャーロットはなぜか歓喜の涙を浮かべて…? ※他サイトでも掲載中しております。

公女様は愛されたいと願うのやめました。~態度を変えた途端、家族が溺愛してくるのはなぜですか?~

朱色の谷
恋愛
公爵家の末娘として生まれた幼いティアナ。 お屋敷で働いている使用人に虐げられ『公爵家の汚点』と呼ばれる始末。 お父様やお兄様は私に関心がないみたい。 ただ、愛されたいと願った。 そんな中、夢の中の本を読むと自分の正体が明らかに。 ◆恋愛要素は前半はありませんが、後半になるにつれて発展していきますのでご了承ください。

実は家事万能な伯爵令嬢、婚約破棄されても全く問題ありません ~追放された先で洗濯した男は、伝説の天使様でした~

空色蜻蛉
恋愛
「令嬢であるお前は、身の周りのことは従者なしに何もできまい」 氷薔薇姫の異名で知られるネーヴェは、王子に婚約破棄され、辺境の地モンタルチーノに追放された。 「私が何も出来ない箱入り娘だと、勘違いしているのね。私から見れば、聖女様の方がよっぽど箱入りだけど」 ネーヴェは自分で屋敷を掃除したり美味しい料理を作ったり、自由な生活を満喫する。 成り行きで、葡萄畑作りで泥だらけになっている男と仲良くなるが、実は彼の正体は伝説の・・であった。

召喚先は、誰も居ない森でした

みん
恋愛
事故に巻き込まれて行方不明になった母を探す茉白。そんな茉白を側で支えてくれていた留学生のフィンもまた、居なくなってしまい、寂しいながらも毎日を過ごしていた。そんなある日、バイト帰りに名前を呼ばれたかと思った次の瞬間、眩しい程の光に包まれて── 次に目を開けた時、茉白は森の中に居た。そして、そこには誰も居らず── その先で、茉白が見たモノは── 最初はシリアス展開が続きます。 ❋多視点のお話もあります ❋独自設定有り ❋気を付けてはいますが、誤字脱字があると思います。気付いた時に訂正していきます。

うまい話には裏がある~契約結婚サバイバル~

犬飼春野
恋愛
ナタリアは20歳。ダドリー伯爵家の三女、七人兄弟の真ん中だ。 彼女の家はレーニエ王国の西の辺境で度重なる天災により領地経営に行き詰っていた。 貴族令嬢の婚期ラストを迎えたナタリアに、突然縁談が舞い込む。 それは大公の末息子で美形で有名な、ローレンス・ウェズリー侯爵27歳との婚姻。 借金の一括返済と資金援助を行う代わりに、早急に嫁いでほしいと求婚された。 ありえないほどの好条件。 対してナタリアはこってり日焼けした地味顔細マッチョ。 誰が見ても胡散臭すぎる。 「・・・なんか、うますぎる」 断れないまま嫁いでみてようやく知る真実。 「なるほど?」 辺境で育ちは打たれ強かった。 たとえ、命の危険が待ちうけていようとも。 逞しさを武器に突き進むナタリアは、果たしてしあわせにたどり着けるのか? 契約結婚サバイバル。 逆ハーレムで激甘恋愛を目指します。 最初にURL連携にて公開していましたが、直接入力したほうが読みやすいかと思ったのであげなおしました。 『小説家になろう』にて「群乃青」名義で連載中のものを外部URLリンクを利用して公開します。 また、『犬飼ハルノ』名義のエブリスタ、pixiv、HPにも公開中。

〈完結〉毒を飲めと言われたので飲みました。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃シャリゼは、稀代の毒婦、と呼ばれている。 国中から批判された嫌われ者の王妃が、やっと処刑された。 悪は倒れ、国には平和が戻る……はずだった。

前世軍医だった傷物令嬢は、幸せな花嫁を夢見る

花雨宮琵
恋愛
侯爵令嬢のローズは、10歳のある日、背中に刀傷を負い生死の境をさまよう。 その時に見た夢で、軍医として生き、結婚式の直前に婚約者を亡くした前世が蘇る。 何とか一命を取り留めたものの、ローズの背中には大きな傷が残った。 “傷物令嬢”として揶揄される中、ローズは早々に貴族女性として生きることを諦め、隣国の帝国医学校へ入学する。 背中の傷を理由に六回も婚約を破棄されるも、18歳で隣国の医師資格を取得。自立しようとした矢先に王命による7回目の婚約が結ばれ、帰国を余儀なくされる。 7人目となる婚約者は、弱冠25歳で東の将軍となった、ヴァンドゥール公爵家次男のフェルディナンだった。 長年行方不明の想い人がいるフェルディナンと、義務ではなく愛ある結婚を夢見るローズ。そんな二人は、期間限定の条件付き婚約関係を結ぶことに同意する。 守られるだけの存在でいたくない! と思うローズは、一人の医師として自立し、同時に、今世こそは愛する人と結ばれて幸せな家庭を築きたいと願うのであったが――。 この小説は、人生の理不尽さ・不条理さに傷つき悩みながらも、幸せを求めて奮闘する女性の物語です。 ※ハッピーエンドの物語ですが、81話目からはシリアスな展開も入ってきます。詳しくは、近況ボードにてお知らせしています。 (C)Elegance 2025 All Rights Reserved.無断転載・無断翻訳を固く禁じます。

処理中です...