糸遣いの少女ヘレナは幸いを手繰る

犬飼春野

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「うん。完璧。いいよ、始めよう」



 屋根裏で一番広い部屋の真ん中の床に屈み、水をたっぷり含ませた筆でさっくり複雑な円形魔術式を描いていたハーンがふいに背筋を伸ばす。

 クリーム色の床材の上には先ほど見た術符の紋によく似た緻密な図柄が描かれており、大きさとしては中に五、六人立っていても余裕な広さだった。

 ハーンが指をぱちりと鳴らすと、水の引かれた場所だけ赤みがかった金色に光り出す。



「もう定着したから踏んでも大丈夫です。解呪しない限り、消えることはありません。ただ、中心にいた方が揺れないので、どうぞこちらへ」


 すでに真ん中に立っているシエルに手招きされてヘレナとコールはおそるおそる足を踏み入れた。

 そして、部屋の隅で少し腰をかがめパールを背後から抱いているミカにヘレナは声をかける。


「じゃあ、ミカ。申し訳ないけれど、お留守番と後のことお願いね」


 一時間ほど仮眠した後すぐに昼食を摂り、テーブルの上もそのままに転移することになってしまった。

 片付けと家畜の世話など様々な家事をミカに丸投げしてしまうことになる。


「何言ってんの。アタシの仕事は侍女だよ?給料分の仕事はきっちりさせてもらうからね。暇すぎると身体がなまっちまう」


 がっちりとパールの首をホールドした状態でミカは笑う。


 感謝の気持ちを言葉ではとても尽くせないくらい、頼りになる侍女兼護衛だ。


「・・・ありがとう。お言葉に甘えて、行ってきます」



 『行く』という言葉を発した瞬間、パールの耳がぴん、と震えた。


 突然、青い目を見開き、衝撃を受けたかのような表情になった。



「あう、わうわう!!」


 両足を勢いよく繰り出して立ち上がり、慌てて前に行こうとする大型犬を全身を使ってミカが捕縛する。


「うわ、ハーンさん、早く!」


 パールはもうかなり大きくなり、体術を心得ているミカでも長くは抑え込めない。


「あ、はい。では」


 ハーンは術符の一枚を取り出して宙に放ると、それが床の術式と連動して白い光を放った。

 シュウウ・・・・と僅かな音とともにヘレナたち四人を囲むように空気が渦巻く。

 風にあおられた髪がざわめく。


 と、その時。


 ・・・とん。


 黒い塊が、いきなりヘレナの肩に着地した。



「え・・・?ネロ、あなた下で寝ていた筈では・・・」


 温かく艶やかな毛皮を頬に思いっきり押し付けられ、困惑する。


「くるるるる・・・」


 喉を鳴らすネロ。

 こんな時も彼はご機嫌だ。


 いや、むしろ。

 ・・・してやったりって感じ?


 いやいやいや。

 呑気にネロの心情を慮っている場合じゃない。

 この子も置いていく予定だったのだ。


 慌ててネロに手をやり円陣の外へ出そうとしたが、渦巻く光で外への景色がすでにかすみ、空間の境界が出来つつあるとヘレナにもわかる。


 これは・・・。



「連れていくしかないですか?」


 背後のシエルを振り返ると、彼は苦笑していた。


「はい」


 シュン!

 空気が一気に上昇し、見えない力に押し上げられたのを感じた瞬間。



「きゅううううーーーーーん、きゅうううーーーーーー・・・・」



 パールの悲痛な叫びがまるでヘレナたちを追いかけるかのように、いつまでも響き続けた。

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