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【閑話】カタリナの仕置き⑨ ~最後の晩餐~
しおりを挟む物心がついたころの記憶で一番古いのは、母と手をつないだ瞬間だった。
しっとりとしていてなめらかな感触と、鋭くとがった固い爪のアンバランスさに疑問を持ち、その指先からじわじわと這い上るとらえどころのない気味悪い何かに嫌悪を感じ、思わず手を振り払った。
すると、頭上でちっと音がした。
見上げると、金色の髪を優雅に結い上げ、丁寧な化粧を施した女が、濃い青の瞳をぎらつかせ、憎々し気に見下ろしていた。
「だから嫌だったのよ」
忌々し気に呟いて、彼女は突然体の向きを変えた。
ばさっ。
ドレスを膨らませ美しく見せるために下着に装着しているクリノリンが、傍らに立っていたカタリナに思いっきり当たり、小さな身体は容易に弾き飛ばされる。
足がもつれて転がりとっさに地面に手をつくと、摩擦で皮膚がむけた。
「カタリナさま!」
離れたところに控えていた乳母と侍女が慌てて飛んできた。
「大丈夫ですか・・・」
手のひらの傷口に食い込んだ小石を彼女たちがハンカチで取り除いてくれる間、いったん立ち止まった母を見ると、『大げさな・・・これだから』と呟いているのが分かった。
髪も
瞳も
顔の形も
おそらく、大人になったらよく似た姿になるのだろうなと思う。
だけど。
この女とは、一生、情が交わることがないだろう。
そう悟った。
そして。
良かった。
心の底から安どした。
「少しは落ち着いたかしら」
ジェームズを捕らえた部屋で彼をさんざん蹴って暴れた後、指一本動かせなくなったところで騎士の一人の肩に担ぎあげられて運ばれ、いったん部屋へ戻された。
それから二時ばかり経った後、またもや別室へ連れていかれた。
そこは食堂で、妹夫妻と騎士たち、そして魔導士の服装の男が二人待っていた。
「遅くなったけれど、夕食にしましょう」
案内された席に座ると、別の扉が開き、ハンスより年上の侍女が料理をのせたワゴンを押して入ってきた。
彼女は騎士の一人と手分けして、手早く配膳していく。
「君は・・・」
昔、見たことがある。
少女時代のカタリナの護衛騎士の一人だ。
「お久しぶりでございます、マーサ・スミスです」
一礼をした後、ワインをはじめ湯気の立ちのぼるシチューやグリル野菜、パン、燻製肉、パイ包み料理やキッシュを並べた。
今まで、閉じ込められた部屋に運ばれてきたのは必要最低限の食事。
温かく、手の込んだ料理は久しぶりだ。
「とりあえず、食べましょう。話はあとで」
カタリナの声に、ストラザーン伯爵と同席しているローブ姿の男二人が食事に手を付け始めた。
これといった会話はなく、時々、給仕をするマーサが各々に御用聞きを小声でするのみ。
あとは皿とカトラリーが触れる音だけだ。
料理はどれも美味しく、夢中になって食べた。
最後に軽いデザートとコーヒーを供されるようになったところで、カタリナが口を開いた。
「ハンス。コンスタンス・マクニーという名の女性をご存じ?」
「・・・いや?」
しばらく首をかしげて考えたが、思い当たる人物はいない。
否定すると、全員がなんとも言えない顔をする。
「ゴドリー伯爵は、なぜ、ヘレナと偽装結婚したいのか全く説明しなかったってことかしら」
「偽装するなら、未来の公爵夫人として立てられない女性と交際中なのだろうとは思ったが、違うのか?」
「その通りよ・・・。その辺はさすがにわかるのね」
明らかな揶揄に眉を顰めると、カタリナがコーヒーカップを皿に戻して話をつづけた。
「コンスタンスは現在、ゴドリー伯爵の愛人で、元、月光館の高級娼婦。ハンスは月光館へ行ったことあるんじゃないの?」
「あるけれど、俺はついていって応接の間で必要な金を支配人に払ったら帰る。上まで上がったことはない」
「なぜ?」
「なぜって・・・。それが、母上の遺言だったから」
母、アザレアはハンスが十二歳の時に流行り病であっけなく亡くなった。
しかし死期を悟った彼女はハンスのみを枕元へ呼び寄せ、多くの言葉を残した。
「・・・は?ちょっと待って、詳しく教えて」
「亡くなる半年前くらいだったか。十二歳になってすぐに母上が娼館組合の偉い人を教師として招いて・・・」
「もうすでにそこから理解不能だわ・・・。それで?」
カタリナは頭を抱えた。
「娼館で美姫たちの機嫌を損ねずに辞退して帰る作法を教えてもらった。友人や知人たちとの付き合いで館へ足を踏み入れたとしても、指一本触れず、水の一杯も飲まずに去ることが母の意向だったから」
母は、その男と引き合わせる前にこんこんとハンスに説いた。
これから大人になるにあたって、自分の意志に関係なく、時には花街という地区に足を踏み入れることがある。
そこにいる女性たちは事情があって仕方なく働いているけれど、本当はそんなことをしたいわけじゃない。
言葉を交わした報酬としてまとまった金を渡せば喜ばれるので、そうするように。
貴婦人というものは、夫が自分以外の女性に触れることは好まない。
だから、未来の妻のためにも綺麗でいるように。
そのために、花街および社交界の女性たちのあしらい方を学んでもらう・・・と。
その講習は一か月みっちり行われ、後々まで生きた。
「ああ・・・。それで、あなたにとってルイズ様が『初めての女性』だったのね・・・」
テーブルに両肘をついてカタリナがつぶやく。
「・・・!なぜそれを・・・」
思わず椅子から腰を浮かしかけたハンスに、カタリナは片手を上げて落ち着くよう仕草で促した。
「あなた、ルイズが亡くなってから酒におぼれていたでしょう。ある晩、泥酔してクリスの部屋に飛び込んでえんえんと出会いから何からあの子に語ったそうよ。かわいそうに」
「え・・・。おぼえがない・・・」
さああ・・・と頭から血の気が引いた。
まったく、記憶にない。
確かに、何度かクリスのベッドで目を覚ましたことはある。
まさか、その時に…。
「そうでしょうとも。その時に、『初めてだったから、なかなか初夜がうまくいかなくて、三か月くらいかかった』と言ったそうよ…。十一歳に何言っているのよ、あなた。まあ、酔っ払っていたのだろうけれど」
だからこそ、クリスはライアン・ホランドに『ご令嬢をたぶらかした』と責められても全く揺るがなかったのだが。
「そんな・・・。俺はクリスになんてことを・・・」
ルイズは心のよりどころで、亡くしたあと、どうしても立ち直れなかった。
たとえ、屋敷がどんどん荒れて、生活が貧しくなる一方だとしても。
「それを言うなら、ヘレナにもでしょう。話を戻すけれど、ヘレナがゴドリー邸で結婚式の初日からずっと使用人たちから嫌がらせを受けて、寝るのも食うのもまともにできない状態が続いていたのよ。私が面会のために尋ねるのをもう少しでも遅らせていたら、どうなっていたかわからないわ」
「は?契約上妻になっているのに、なぜそんなことに」
契約期間は伯爵邸で実家にいるより良い生活ができるものと思っていたのに。
衣食住の保証はされていたはずだ。
「前にも言ったわよね。爵位が狙いだったと。ゴドリー伯は殺すつもりはなかったようだけど、コンスタンスの信奉者たちはもう殺しちゃえば?って状態だった。ねえ。なんだかんだでハンスはいじめの類を受けたことなかったわよね。『ご学友』に財布にされてはいるものの、父の財力と影響力が政権の中枢でまだ利いていたから」
「それは・・・そうだな」
『財布にされていた』と認めるのに抵抗感はまだある。
しかし、ジェームズを気絶させるまで蹴り続けた後、部屋で騎士に渡されたのは、これまでハンスが彼らのために使った途方もない金の内訳明細書だった。
王立学院に入学した十三歳から今まで。
友情をつなぎとめたくて、求められるまま渡せるものは何でも渡した。
どこで止めるべきだったのか、いまでもわからない。
財産がある間は、誰からも粗略に扱われることはなかった。
それは、学校の外の世界でも。
「ヘレナもクリスも王立学院で馬鹿な貴族の子たちから嫌がらせを受けていたこと、相談を受けても全く取り合わずにさらっと流したらしいわね。あなた、父親なのに」
「え・・・?」
これもまた記憶にない。
そもそも、あの子供たちはいつも父親を冷めた目で見て、かわいげがなく・・・。
相談なんて、されたことがない。
「一応、したのよ。覚えていないようだけど。『学校は一生の友達を作るところだよ?』って曇りなき眼で言われて諦めたってヘレナは言っていたわ。笑えるわね。結局あなたは『一生の友達』に全てを持っていかれたのだから」
「・・・っ。お前は、何が言いたい」
「けなげよね、ヘレナは。こんな父親、さっさと捨てればいいものを。毎晩寝ずに内職をして稼いで食事の用意して、服も誂えて。ねえ、あなた、一年くらい前から生活費はヘレナのお金でまかなっていたって、気づいていた?全く気付かなかったわよね?」
「え?そんなはずは・・・。不労収入がまだあったはず・・・」
「ないわよ、とっくに。不動産を手放し、全ての商会から手を引いて、あらゆる権利を手放したのに、いったいどうやって?」
「貴族褒賞は・・・」
この国は、爵位を持っていれば、国から品位維持のための金が定期的に支給される。
「下級貴族で領地もない、宮中の役職にもついていなければ、形ばかりに決まっているでしょう。庶民の稼ぎにも満たないわ。本気で知らなかったのね・・・」
「爵位を継いだ時には家令も会計士もいたし、途中からはルイズが・・・・」
帳簿管理が苦手なハンスに代わり、女主人になったルイズが父から財務管理と内政を引き継いだ。
そういえば、ルイズが病床に就いてしまった間はどうなっていたのだろう。
妻の病気を快癒させることしか頭になく、全く気にする暇はなかった。
「・・・うん。予想通りの回答をありがとう。帳簿の中にあなたの字がほとんどなかったから、そうだろうとは思っていたのだけど」
妹は額に手を当てながら、侍女にコーヒーのおかわりを頼んでいた。
「ちなみにね。あなたは普通に平らげてしまった今夜の料理のほとんど。ヘレナがあなたのために作ってマーサに預けたの」
その侍女に目を向けると、『はい、私は温めなおしてお出ししただけです』と答えた。
「・・・そう、だったのか」
申し訳ないが、食事の記憶はあまりない。
食卓に並べられたから口にした。
美味しいも、不味いもなく。
その材料がどこから来たかなど、考えもしなかったし気にしなかった。
感謝すべきなのだろう。
支えてくれたことに。
しかし。
カタリナたちが望んでいるであろう言葉は口にできない。
「・・・。そうそう。いくつか今のうちに耳に入れておくことがあるの」
妹は場を切り替えた。
「まず、マイク・ペレスの死の原因はね。部下にルイズの墓を暴くことを強要した上に彼女を輪姦したと自慢したことが引き金になったの。それまで、部下を餌にして魔獣をおびき寄せて手柄を取ったりしていたから、もうこの人は生かしておけないと、魔獣討伐の最中に見捨てられて終わったわ」
「なんとも・・・」
「なんとも痛ましい最期だなんて言わないでね?次いでデイビッド・リースはあなたを騙してせしめた金を抱えて愛人と国境を越えたけれど、その先の宿場町でその愛人のさらに愛人が待ち構えていて、金を奪われ、殺されたわ。まあ結局、デイビッドの愛人自体はすぐに捨てられて娼館へ売られ、彼女の口から大金のありかを聞いたならず者たちが男を捕まえて惨殺というおまけつきね」
結局、ブライトンの金で幸せをつかんだ者は誰もいなかった。
全員、道を踏み外しただけで終わった。
「回収できたのは千ギリア程度よ。とりあえずクリスのお金としてこちらが預かるわ」
「それで、ジェームズは・・・。生きているのか」
『華の七人組』の最後の一人の名前を口にすると、妹は鼻で笑った。
「あなたの脚力で蹴られたくらいでは死なないわ・・・というか、まあ、むりやり生き返らせたけど。これから彼には身体で働いて金を返してもらう。監視されているから、逃げ出してあなたに接触することはもうない」
どうやって、とは尋ねないことにした。
何度かひそかに妹がブライトンを訪ねた時、ルイズとはとても仲良く打ち解けていた。
ストラザーンの義父が亡くなったら、姉妹として親交を深めたいと言っていたのは本心だったと今でも思う。
なら、彼女に任せるのが一番だろう。
「あと。ここからが本題」
一度深く息をついてから、カタリナが切り出した。
「・・・なんだ」
「あなたの今後の生活に関わる事よ」
一瞬にして場の空気が変わった。
「冷静に聞いてほしい。これから言うことを」
つまりは。
冷静でいられなくなる話が。
始まろうとしていた。
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