糸遣いの少女ヘレナは幸いを手繰る

犬飼春野

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過ぎたるは、なお

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 どのくらい、床にうずくまっていたのかわからない。


 最初はどろどろとした暗い感情が渦巻き、頭と胸と腹が痛くて痛くて仕方なかった。

 たぶん、少しの間そのまま意識を手放したのかもしれない。


 ふっと空気の流れが髪を揺らしたのを感じて我に返る。

 それから間もなくとととととと小さな音が近づき、耳元ではっはっはっと暖かく湿った獣の息遣いを感じた。


「パール・・・」

 ヘレナが顔を少し向けるとぺろぺろと額から頬にかけて舐められた。

「ふふふ。くすぐったい・・・」

 手を伸ばして撫でると、ますます興奮して鼻やら口やらめちゃくちゃに舐めまわされる。



「風邪をひく」

 今度は上から大きな手が頭の上に降りてきた。

 くしゃっとひと撫でされた後、背中に毛布を掛けられる。

「身体を起こすぞ」

 ヒルの低い囁きが耳に届いた。

 そして、またいつものように後ろから抱え上げられて座らされ、ぐるぐる巻きにされる。


「あ、ちょっと待ってろ。火を入れる」

 ヒルが暖炉の火をおこす間、パールが膝によじ登った。

 最初は親愛を示して騒がしかったが、やがて落ち着いて飼い主の身体に全身を預けて伸びる。

 毛布の端から両腕を出してヘレナはずいぶんと育ってきた子犬の背を撫でながら、暖炉へ目を向けた。

 大きな身体をかがめ、薪をくべ火かき棒で火の調整をしているヒルの後ろ姿に、どこか安堵する。


 そういや、父は一度もヘレナの身体を気遣ったことはなかった。


 母が生きていたころはそれが母親の仕事だったからか。

 まじない師がただの詐欺師とわかってからも、親子の関係はどこかに亀裂が入ったままで、修復されることなく、そらぞらしい空気が漂い続けた。

 よくよく考えたら、父に抱き上げられたのは、あの、不吉な子と罵られ貧民街へ捨てに行こうとした時が最後だった気がする。


 ・・・ああ。

 また、思いだしても仕方のないことを。


 ふっと自嘲してしまった。



「ほら。移動するぞ」


 つかつかと長い足で戻ってきたヒルがパールごとヘレナを抱え上げ、そのまま暖炉の前に陣取る。

 彼の胡坐の中に座らされ、ヘレナは背中を彼に預けてふっと息をついた。


「なんか・・・」

「なんだ」

 体勢が気に入らなかったのか、ふいにパールは膝から降りてヘレナたちの足元で丸くなる。

「だんだん、こうするのに慣れてきてしまいました。どうしましょう」


 もはや、ヒルは椅子だ。

 幼児のように毛布を巻かれて彼の膝の上もしくは胡坐の中に座り、彼の両腕でしっかり固定されるのが定番になりつつある。


 居心地が良すぎて、困る。

 これは、危険。


「いやか?」

 深い声がつむじの上から降ってくる。

「いえ、それはないのですが・・・」

 なんと言えばいいのか。

「なら、今はもう何も考えずに温まれ。なんなら寝て良いぞ。夕飯ができたらミカが呼びに来るから」

 寝てしまえと言わんばかりに、ぽんぽんと肩を軽く叩かれた。

 それすら心地よいのは、本当に。


「甥御さんとか、姪御さんに懐かれていたでしょうね。ヒル卿は優しいから」

「うーん。別に。俺は兄貴たちがしてくれたことをやっているだけだからな」

「お兄さんたち?」

「上に三人いるんだ。母と妹がいっぺんに亡くなった時、俺は七歳で、一番上の兄貴が十六歳、次が十五歳、三番目が十三歳くらいかな。ちょっと離れていたんだ。だから、三人が俺を育ててくれた」

 ヒルの家は騎士の家系だと聞いたことがある。

「そうなのですか・・・。兄弟仲が良いのですね」

「うん。そうだな。そうならざるを得ない状態になったせいもあるけれど」

 少し上の空で規則的に肩を叩いていたヒルは、やがて、思い切ったように言う。


「あの年、帝都で質の悪い風邪が流行った。高熱と咳、そして胃腸がやられて水すら飲めない状態に陥る症状で、子供と老人がボロボロ亡くなった」


 病は良くも悪くも平等だ。

 身分に関係なく襲いかかり、命を奪う。



「そんな時、リチャード様が罹った。重症で、生死の境をさまよった」



「え・・・?」

「母は必至で看病したよ。ゴドリー侯爵家の跡取り息子で、難産だったせいもあり奥様はもう次の子が産めない。事情を知るだけに何日も付きっきりだった」


 おかげで、リチャードは生還した。

 奇跡だと医者は驚き、侯爵夫妻に感謝された。


「侯爵家が喜びに沸いている中、ふらふらになって帰宅した母は、玄関にたどり着くなり倒れた。看病疲れで弱っているなか感染してしまったんだ」

「そんな・・・」

「そして、そのまま三歳の妹にもうつってしまった。皆が動揺して目を離している隙に母に触れてしまっていたらしい。後の祭りで、いきなり吐いたと思ったら三日後に亡くなった。そして母も翌朝息を引き取った」

 家族全員呆然自失だった。

 ほんの数日の間に大切な人が二人も亡くなったのだ。


「だけど、悪いことはそれで終わらなかった」

「さらにご家族が感染したのですか」


「いいや、その時はそうでなかった。流行り病は一月余りで収束に向かい平和になった。だからこそ侯爵夫妻は罪悪感でいっぱいだったのだろう、母と妹の命を奪った侘びに、万年準男爵のヒル家に男爵位と領地と多額の慰謝料をくれた。でも、それは悪手だったんだ」


 それまで、ささやかな収入で善良に生きてきた。

 互いを思いやり、支え合ってきたはずだった。

 しかし、過分な待遇はあっという間に大人たちを腐らせた。


「帝都に立派な家を構えて、祖父母は笑ったよ。『よくぞ死んでくれた』と。最初は泣いて暮らしていたはずの父も、社交界へ出て若くて綺麗な伯爵令嬢に言い寄られてがらりと変わった。成人間近の息子たちのいる成り立て男爵の中年男と結婚したがるなんて、相当問題ありな女じゃないかと普通は疑うだろうに、浮かれた祖父母と父は諸手を挙げて再婚を決めた」


 兄たちの危惧はものの見事に当たった。


 その令嬢は、婚約者や恋人のいる男が大好きで次々と言い寄って仲を裂くのが趣味だった。茶会などで下位令嬢をいじめたりもしたし、性格と素行の悪さがとうとう婚約者に露見し破談になった。

 そんなところに、事情を知らない新興貴族・ヒル男爵が現れた。

 ゴドリー侯爵の後ろ盾があることと、騎士らしい外見に、伯爵父娘で目を付けた結果の縁談だったらしい。

 服喪も婚約期間も省力し、直ぐに始まった結婚生活は数か月しないうちに破綻の兆しが見えた。


「義母は、長兄ねらいだったんだ」


「は?」

「俺が言うのもなんだが、兄弟の中で長兄が一番両親の良いところ取りで、完璧な容姿だ。騎士として王宮にも出入りしていたから、一部の令嬢たちの間で名が知れていたらしい。ちょっとつまみ食いしたかったんだろうな」

「それは・・・また」

「俺たちは親に見切りをつけて、すぐ脱出したけどな」

 大人たちの目をかいくぐってはしなだれかかってくるのを長兄はきっぱり拒絶し、親たちに忠告したが一笑に付して相手にされなかった。

 味を占めた義母が次兄たちにまで手を伸ばそうとしたので、速攻で荷造りをして息子たちだけで領地へ引っ越した。

「再婚して半年くらいの頃、家族全員で王宮の夜会へ出席せねばならないと呼び戻され、しぶしぶ戻った。そうしたらその大事な日の朝、長兄が食に当たって寝込んだ。そして偶然にも義母も」

「ああ・・・。あの。その流れで行くと下剤とかですか」

「そうだ。体調不良者は屋敷に残るが、どうぞ夜会を楽しんできてくださいとしおらしく言っていたけれど、どうなるのか目に見えている。だから、いったん全員で盛装して馬車に乗り、着く直前に三兄が祖母のドレスへ偽装で吐いた。これはもう引き返すしかないだろう」

 帰り着いた家で祖父母と父が見たのは当然、ノリノリで長兄を襲う真っ最中の若妻だ。

 こうして狂乱の蜜月は、終わった。

「笑えることに、父たちは若妻の言いなりになって途方もない額の散財をした。結果、女が去った時に財産は底をついたばかりか、男爵家名義で借金まであった。手に入れたばかりの家と家財道具を売っても足りないほどの」

 そのほとんどを高額な衣装と装飾につぎ込み、離婚時にはご丁寧にもそれら全て実家へ持ち帰っていた。


「・・・あの。どこかで聞いたような話ですね・・・」

 ヘレナは思わず振り向いて見上げると、彼は切ない目をして笑った。

「そうだな。こうして話してみると全くもって。幸運な点は、そこでゴドリー侯爵が介入してくれたおかげで彼女の実家と返済交渉出来て、領地までは手放さなくて済んだことだな。父を引退させて、兄が男爵位を継ぎ兄弟で領地経営に専念した。祖父母と父にはそのまま帝都にこぢんまりとした借家をあてがって三人で暮らしてもらったよ。俺たちには、時間が必要だった」

 母と妹の死で手に入れた物に喜んだ三人を、とうてい受け入れることができなかった。


「結局、それからさらに一年もたたないうちに今度は祖父母が例の病に罹って、それがもとで亡くなった。天罰だと思う反面、善良だった頃の彼らが好きだったから、色々・・・。今でも整理がつかない」


 深いため息とともに、ヒルの身体がもたれかかってくる。


「兄たちと兄嫁たちは俺にたくさんの愛情を注いでくれた。だいぶ後になって父とも和解した。甥姪はかわいいし、領地はとても良いところだ。だけど、ふと・・・」


 ぱしんと暖炉で燃える薪が爆ぜた。

 火花が散って、一瞬、きらめく。


 ヘレナの肩口にヒルの顎がやんわりと乗った。

 頬に彼の髪が当たり、意外と柔らかいことを知る。

 オレンジ色がかった赤くて短い髪は艶やかで、少し固そうに見えたけれど。


「つい、妹と母が生きていたらと思ってしまう」


 十数年経った今もなお。


「どうにもならないことだと、分かっているのにな」


 彼の心に空いた穴は埋まらない。


「私も・・・。今も、つい思ってしまいます。母が生きていればと」

「そうか」

「ええ」


 それからしばらく二人は黙って薪の燃える音を聞いていた。


 ヘレナは背中に彼の鼓動を感じながら炎を見つめていたが、ふと気づいた。


 だからなのか。

 この人がいつも、『風邪をひく』と、私を叱るのは。

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