糸遣いの少女ヘレナは幸いを手繰る

犬飼春野

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針つかいの巫女

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 上へ、下へ、上へ、下へ・・・。
 布の織り糸を見つめながらひたすら針を動かし、色を埋めていく。
 画用紙に絵筆を走らせるように。
 糸で世界を構築する。

 それは、風。
 それは、雲。
 それは、木々。
 それは、花。

 鳥を放ち、
 獣を駆けさせ、
 ありしもの息遣いを想う。

 光が上って、
 闇が下りる。

 星が瞬きに、
 雪の舞う儚い感触に、
 雨の運ぶ命の匂いに。

 見えるものも、
 見えぬものも。

 全てのものを心に秘めて、ひたすら、描く。



「あれ・・・?今回は潜るのが早かったなあ。ここが安全だとわかったからかな」


 ブライトンのタウンハウスは子爵位にしては立派なものだった。

 ゴドリー伯の本邸には到底かなわないが、この別邸よりかは大きい。

 それこそ数十年前に権勢を極めたとある貴族が息子への結婚祝いに建てて贈ったもので、没落し売りに出していたのを祖父が買い取ったが、十年前に彼が亡くなり資産が目減りしていくとともに維持の難しさを痛感した。

 それなりの屋敷で生活するには、それなりの資産があってこそだ。

 しかも、末期には父ハンスがなりふり構わず金策に走ったため、ありとあらゆるものを金に換えた。宝飾品、高級食器、絵、家具、骨董、そして建具。

 ある日学校から帰ると玄関ホールの上から吊るされていた筈のシャンデリアがなくなっていた時には、さすがに度肝を抜いた。

 慌てて屋敷を確認して回ると、使われていない部屋全ての照明が取り外されており、カーテンすらない。

 取り返しのつかないところまで来ていることを実感し、かろうじて自分たちの部屋の灯りくらいは維持されていることに安堵した。

 明かりのつかない部屋はないものと同じ。

 父もご学友も足を踏み入れることがない。

 屋敷の最奥の一切の家具が取り払われたがらんどうの部屋をヘレナは隠れ家とし、裁縫道具を持ち込み、内職に励んだ。

 いつばれて踏み込まれるか。

 ラッセル商会に認められまとまった稼ぎが得られるようになるにつれ、不安と背中合わせになっていった。

 部屋の周囲に意識阻害の幕を張り、暖房もつけず、着られるだけの服を着こみ、毛布を巻いて、生活魔法の小さな明かりで手元を照らしながら作業をしているうちに、ヘレナは変貌していく。

 周囲と自分の間を遮断し、布と糸の世界に潜り込む。
 
 それはまるで神に身をささげた巫女のようだった。



「で、どうすんのこれ。人として限界でしょ。もう三時間経つんだから」

 ミカは困り顔で、くいっと親指で製作中のヘレナを指さす。

「ああ、そうなんだ。ならちょっと休ませないとまずいね」

 クリスは足元にパールを降ろすと、彼女は部屋の中に設置された専用クッションに乗り、くるくると回って位置を確認した後腹ばいになった。

「タイミングを見て声をかけるよ。今は刺繍だからまだ分かりやすいし」

 針をやり取りしているため、間違えたらうっかり手に刺してしまう。
 しかし、柄の異動か針や糸を変える瞬間を狙えばよい。
 それでも尋常ならざる速さなので、慣れが必要だ。

「え・・・。なに、もっと難しいときあるの?」

「レース編みの時が一番お手上げだね。あの糸が巻いてあるボビンっていうのを高速で動かしていて何が何だかわからないんだ。どこで止めてもたぶん怪我はしないかもしれないけれど、間違えさせてしまったら悪くてなかなか踏ん切りがつかないんだよ、あれ」

「あーあ。なんか自分で火の輪に飛び込む方がなんぼかマシだね。アタシに出来るの?そんなこと」

 頭に両手を突っ込んでミカは嘆く。

「うーん・・・。慣れ?かなあ。空気が読めるようになったら大丈夫だよ」

「なにそれ。剣聖並みの修行じゃん」

「うん、そうだね。修行。なんなら姉さんの取扱説明書、書こうか?」

 あからさまにがっくりとうなだれるので、クリスは提案する。

「え、良いの?是非ともお願いしたいわ!お礼になんかクリスの食べたいもの作るよ!」

「うーん。それなら、ひき肉とマッシュポテトのパイとか作れるかな?」

「うんうん、大丈夫。まかせて!」

 取引が成立した。
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