あんなこと、こんなこと

近江こうへい

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【こぼれ話】それぞれの、あんなこと、こんなこと

15.【宇山・社会人五年目/春】answer 愛の言霊 ③

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 ◇

 ──って。そう思ってたのに。

 連休明け早々三時間残業して、なんとなくため息をつきながら玄関のドアを開けたら、ちょうどバスルームから出てきた井田と目が合った。
 ……え、何これ。
 一瞬意味が分からなくて、とりあえず一回ドアを閉めようとすると、内側からドアノブを引かれる。

「えっ、ちょちょちょ、なんで閉めんの。おかえり。つか、久しぶり」

 いやいやいや、待って待って。マジで待って。まだ何の心の準備もできてないんだけど。

「きょ、今日来るとか言ってたっけ」
「いや? 言ってないけど。来た方が早いかと思って。まあ、とりあえず入れよ」
「ええー……。電話の方が絶対早いじゃん。ていうか、ここ俺の部屋なんですけどー」

 とりあえず、俺が入らないと井田がちんこを放り出したまま出てきそうで怖い。外から見えないように、ちょっとだけ開けたドアの隙間から身体を滑り込ませて鍵をかける。

「残業お疲れ。風呂にするー? 飯にするー? それとも俺のちん」
「わーっ、もう! 分かったから早く服着ようよ」
「ははっ。つか、この時間だしもう外で食ってきちゃったか」
「もー、当たり前じゃん」
「そっかー。じゃあ、やっぱ連絡入れときゃよかったなー」

 え、ほんと何やってんの?
 全裸のまま笑いながら部屋の奥に引っ込んでいく井田に、もっといろいろ言ってやりたいことはあったはずなのに、喉が詰まったように次が続かない。なんだか井田がいつもどおりすぎて、有川から聞いた話なんて全部嘘だったんじゃないかって思ってしまう。
 ごはんが炊ける匂い。ローテーブルの上にはデパ地下の、俺のお気に入りの惣菜屋の袋。俺の部屋に、本当に井田がいる。

「なあ、ちょっと味見とかだけでもいらねえ?」
「うん」
「じゃあ、宇山が風呂入ってる間に一人で食ってようかなー」

 井田は、しまい込んであった部屋着のスウェットを引っ張り出して、ローテーブルの向こう側に移動すると、やっとブリーフをはき始めた。
 俺は鞄をラックに置いて、井田と入れ違いにクローゼットの前に立ってジャケットを脱ぐ。ネクタイを外してふと視線を向けた井田用のスペースに、クリーニング済みの秋冬物とは別に、今の季節のスーツが一着かかってるのが目に入った。
 当たり前になって見慣れてたはずの光景が、嬉しくて、寂しくて、哀しくて。抑えきれない想いがぶわりと胸の中で膨らんで、一瞬息が詰まって視界がにじむ。
 シャツのボタンを外しながら静かに深呼吸したら、そんなつもりはないのにそれはまるでため息みたいに狭い部屋に響いた。

「なあ、宇山ちょっと怒ってる?」
「……ぇえー、別に。なんで?」
「いやー、なんとなく。もしかして有川に聞いたかな、って」

 来た。あれ、って。本当のことだったんだ。
 急に本題わかればなしとかじゃなくても、もうこの話は避けられないのが分かった。背中を向けたままだけど、腹をくくってわざと明るめの声で返す。

「ん。つか、俺も七瀬もすっげえびっくりしたんだけど」
「だよなー」
「……転勤ってさあ、何年くらい、とか分かってんの?」
「あー。まあとりあえず三年、で、あとは状況によってって話だったけど」

 え、長すぎる。
 そう思った瞬間、勝手に口が動いた。

「それ、待っててもいい?」
「え」
「井田が帰ってくるの、俺ここで待っててもいい?」

 俺の背後で、井田が息をのんで固まった気配がした。
 だよね。三年も待つとか、自分で言っときながら重すぎて凹む。気が付くと、ボタンを外していたはずの手は止まっていて、その両手は胸の辺りでシャツを握りしめていた。
 「待つ」っていう健気けなげな言葉とは裏腹に、こんなのは井田を縛るかせでしかない。四月生まれの井田なんか三年後にはもう三十だし、会えない間に好きな人ができたり結婚したりしてもおかしくはない。この曖昧な関係に区切りを付けて終わらせるなら今だ、って分かってる。失いそうになって急にこんなこと言うのは勝手だ、って分かってる。だけど。

「え。いや、それ」
「井田が、好きだから」

 反応が怖くて井田の方を向けない。
 「付き合ってない」なんて言い続けた口で、よくもこんなことが言えたと思う。いつか別れるのがつらくて。ちゃんと井田の気持ちに向き合おうともしないで。ずっと一緒にいるための努力を何もしないで。
 今まで俺の気持ちをはっきりさせなくても成り立ってたのは、いつも井田がぐいぐい引っ張ってくれたからだ。俺はそれに甘えて流されて、自分から意思表示する必要なんてなかった。

 七瀬と有川を見てると忘れそうになるけど、俺たちは男同士だ。好きだからってあの二人みたいにずっと一緒にいられるわけがないのに、簡単に付き合ったりなんてできない。井田の恋人になったって、先は見えてる。

 会ったこともない井田の家族は、俺たちのことを静観はしていても歓迎してるわけでもない。うちの親なんかは、いつか俺が恋人を紹介するとしたら、普通にそれは女の人だって思ってるだろうし。そういうのは多分、もし俺にきょうだいがいたとしても変わらない。
 本当は、井田が俺のことを家族に隠したりしなかったのは嬉しかった。
 だけど俺は、井田と恋人になったらいずれ直面するだろうそういうごたごたと向き合う勇気も覚悟もなくて。何の逃げ道もなく井田を好きでいるのが怖かった。
 ──別に付き合ってなかったし。ただの遊びだったし。
 自分から離れる決断もできないくせに、いつかこの関係が終わる時、そうやって自分の気持ちを守るための言い訳が必要だった。
 馬鹿だよね。恋人とか親友とかセフレとか、そんな形に関係なく、さっぱり終われるような段階はもうとっくに通り越してたのに。
 そんなの、何度も井田を傷つけていい理由にはなんないのに。

「え、宇山。今のもう一回言って?」

 いつの間にかそばに立っていた井田が、俺の左肩に手を置いて、うつむいた俺の顔をのぞき込んだ。震えてる気がするのは、井田の手と俺の身体、どっちなんだろ。
 なんだか気まずくて、井田の視線から逃れるように、左手の甲で目元を隠して少し顔を背ける。それでも。

「好き。井田のことが大好き」

 いつも井田に促されて言うのとは違う。声は震えてしまうけど、ちゃんと伝わるように、ゆっくりと、はっきりと。
 井田は、シャツを握りしめたままだった俺の右手を、壊れモノにでも触るようにそっとほどかせると、遠慮がちに俺を抱き寄せて、抵抗しないのが分かるとそのままぎゅっと抱きしめた。

「っはは、……何これ。すげえ嬉しい」

 嬉しい、って。まだ思ってくれるんだ。
 久しぶりの井田の体温に、俺もその背中にそろそろと手をまわして、井田の肩に頬をすり寄せた。まだ上半身だけ裸でいる肌が、しっとりと熱い。

「ごめん。こんなの、今さらって思うかもしんないけど」
「ごめんて何だよ。とかさあ、好きな奴に好きだって言われてそんなの思うわけないじゃん。それに、お前が俺のことすげー好きなのなんか、ずっと前から分かってたし」
「でも俺、ずっと井田に付き合わないとか言って。覚悟とか、できなくて」
「覚悟って、あー……、七瀬と有川かー。あそこの実家いえは特殊だからなあ」

 井田から見てもそうだったらしい。
 井田は俺の腰を抱き寄せたまま、俺の背中を優しくとんとんとたたきながら簡単に言い放った。

「まあ、あれは理想だけど、俺は宇山が俺のこと好きならそれだけで充分だから。つか、別に俺らは俺らなんだし、あいつらと同じじゃなくてもよくね?」
「え」
「親とかは……、まあ、バレたらそん時また一緒に考えればいいし」
「ええ……」
「案外どうにでもなるって。もうさあ、いいからお前は難しいこと考えずに安心して俺に流されとけ」
「どうにでも、って。……あはは、もー、何それ」

 本当に、全部簡単なことに聞こえて思わず笑ってしまう。
 さっきから、俺に聞かせるためだけに耳元で響く、落ち着いた井田の声も心地いい。なんだか安心して、ほっと身体の力が抜けた。

 あー、そうだった。俺の好きな井田ってこういう奴だよね。
 他人ひとの目なんて気にせずに、形なんかにこだわらずに、背筋を伸ばしていつもまっすぐ前を見ている。
 そんな井田を大学の入学式で初めて見た時から、つい後を追いかけてしまったくらい、俺はどうしようもなく井田にかれてる。好きの種類がだんだん変わってしまっても、最初からずっと井田が好きだった。
 かっこつけず、自分の欲求に忠実で、周りの価値観なんて関係なく、自分がしたいようにするだけ。だけど、好き勝手やってるように見えても、相手が本当に嫌がることはしない。
 まあ、自分に都合のいい謎理論を言ってる時は本気で馬鹿なのかなってあきれるけど。そんなとこだって、全部全部大好きだ。
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