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【番外編】

9.【社会人三年目/夏】井田とトコロテンの日 ①

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※井田視点※
──────────────────

 一通りの後始末を終えてシャワーを浴びておきながら、あわよくばもう一回、を狙ってエアコンの温度を下げたところで、サイドテーブルに置いてあった宇山うやまのスマホが鳴った。
 ラブホのでかいベッドの上、バスローブを着てうつぶせに寝転がってる宇山が伸ばした手の先を、のぞき込むようにして背中にのしかかる。

「誰?」
「ん、同期」
「今日休みじゃん。何かトラブル?」
「あー、じゃなくて。おやすみ、だって」

 何だそりゃ。休日にまでそんなどうでもいい連絡寄こすとか、うちの会社じゃ考えらんないんだけど……。
 社会人になって前ほど頻繁には会えなくなった分、俺たち四人だけだった世界にこうやって他人が土足で踏み込んでくることも増えた。学生の頃なんて、宇山と出会うまでどうやって一日過ごしてたのか思い出せないくらい、ほぼ毎日朝から晩まで一緒にいたのに。
 宇山の慣れた反応から、同僚におやすみを言われるのは別に珍しいことでもない、ってことは分かる。束縛したくないしされたくもない。それに、俺たちはそんな関係でもない。だけどこういうのを目の前で見せられるのは、さすがにちょっとおもしろくない。

「ひでえ。浮気だ浮気」
「浮気って、相手男だし。つか俺ら別に付き合ってないじゃん」
「ええー」

 宇山の「付き合ってない」の基準がいまだによく分からない。
 社会人三年目に突入してもまだ実家に住んでいる俺たちは、月に一回、土曜日の昼間からラブホに泊まりに来ては、こうして二人きりの時間を過ごす。
 最初の頃は、月に二回のHは有川ありかわ七瀬ななせの部屋に押しかけて四人でやったりしてたけど、二人きりだとなぜかちょっとだけかわいくなる宇山が見たくて、二回のうち一回はラブホでやる今の形に落ち着いた。
 俺とのHが大好きな宇山は、ラブホ代も半分出してくれるし、俺のことを好きだって言ってくれるし、キスにも積極的にこたえてくれる。宇山が否定するせいで関係は曖昧なままだけど、そんな現状に俺はそこそこ満足してるつもりだ。だけど、彼氏じゃないってだけで嫉妬のふりもさせてもらえないのはどうなんだろ。
 ──こんな時だよな。名前の付いた確かな関係が欲しい、って思うのは。

「んー、じゃあそろそろ付き合ってよ」
「駄目。つか付き合うとかよく分かんないし、今のままでよくね? 俺、井田いだと別れ話とかして気まずくなんのやなんだけど」
「うわ、別れる前提とか!」

 就活を始める時に髪を切った宇山は、きれいなアッシュブラウンを黒く染め戻して、今はナチュラルな黒の地毛に落ち着いている。うつむくと、あの頃の俺と似ていたツーブロックの面影はもうないものの、少し長めに残した前髪がその表情を隠した。

「だってさー、お前そのうち絶対、やっぱり女の子の方がいいってなるじゃん」
「ええー、ならねえと思うけどなー……」

 そんな自分は想像できない。それでも確かに、元々男が好きなわけでもなけりゃアナル開発されたわけでもない俺の場合、そうなる可能性が絶対にないとは言い切れない。
 俺の人当たりは、社会人になってから劇的に改善したと思う。というよりは、相手が期待する性格の人間に擬態することを覚えた、が近いかもしれない。俺のことを分かってくれる奴らが三人もいてくれたら、はっきり言って他の人間関係はもうどんなに薄っぺらくても構わない。そういう割り切りができる程度には成長した結果、今ではそこそこモテてる自覚もあるし。

 まあ、いつも俺の気持ちを疑う宇山に、そうやっていつまでもはっきり答えられない俺も悪い。不安なのも分かる。有川と七瀬みたいにお互いの家族に認められて、なんてことは俺には多分できないし、一人っ子の宇山にそんなことを望むつもりもないし。
 だけど、先の気持ちまで約束できるかどうかに男も女も関係ない。せっかく大好き同士で性癖も身体の相性も合ってるのに、そんなんで足踏みしてたら何も始まらないしもったいない。とりあえず試しに付き合ってみて、その先はまたその時に考えればいいのに。

 ◇

「俺さー、この前女の子とラブホ行っちゃった」
「……は?」

 一か月ぶりに四人で集まった土曜日の午後。俺たちは、有川と七瀬のマンションのリビングで、キッチンカウンターにグラスを並べながら給湯室よろしく立ち話をしていた。
 思いがけず宇山に低くうなられて、俺は「入り口の手前で引き返したけど」っていうオチを唾液と一緒に飲み込んだ。有川に助けを求める目配せをしても、口を真一文字に結んで何も言ってくれない。ちょうど三個目のグラスに紅茶をついだところだった七瀬は、四個目を無視して持っていたピッチャーを冷蔵庫にしまう。
 宇山は、いつも浮かべている笑みを完全に消して俺を冷ややかに見た。

「……何それ。自慢?」
「え、違うけど」

 やばい。完全に話す順番を間違った。

「はあっ? 何言ってんの? その女相手にちんこったって自慢話じゃなかったら何アピールなわけ!?」
「いや、ちょっと宇山……」
「じゃああれか、女ができたから俺なんかもういらねえって話かよ!」
「う、宇山くん宇山くん」

 こんなに荒ぶってる宇山を初めて見た。七瀬並みに口が悪い。いつも悟ったようなことばっかり言うから、「あ、そーなんだ」くらいで流されると思ってたのに。だけど、それくらい嫉妬してくれたってことかと思うと、こんな状況なのにちょっと嬉しい。そんな俺にいら立ったのか、うっかり油断したところで、宇山が俺の脇腹に握りこぶしをぐりぐりとねじ込んだ。

「信っじらんねえ! ふざけんな俺の身体こんなにしといて今さら放り出すとか! 俺なんかもうお前ら以外で勃たねえのにマジでこれどーしてくれんだよっ!! ちょっと女にちんこ勃ったくらいで偉いとか思うなよ!?」

 いや、思ってないけど。え、つか嫉妬の方向性ちょっとおかしくね? いつ、勃つ勃たねえの話になったんだ。
 だけど、宇山はなぜか涙目だ。

「え、ちょ、宇山落ち着け、な? あっ、牛乳飲む? 牛乳あっためる?」
「七瀬、とりあえず七瀬が落ち着いて。昨日きのう全部飲んじゃったの忘れた?」

 七瀬はさっきまで宇山と一緒になって怒ってたはずなのに、ちょっと見たことがないくらいにうろたえて、なぜかトマトジュースを取り出した。七瀬の背中をさすってなだめてる有川も、ツッコミどころがずれてるから多分動揺してるんだろう。
 ……ええ、何だこれ。俺はただ、この前の宇山への返事というか、「付き合うのは宇山しか考えられない」っていう結論を言いたかっただけなのに。

 ◇

 取り急ぎ、「ラブホには入ってない!」ってことを強調した後で、俺は事の顛末てんまつを三人に話した。

 俺と宇山は、お互いの会社のノー残がかぶる水曜日には、よく一緒に晩飯を食いに行く。だけどその日は、待ち合わせ場所で待ってたら宇山から断りの連絡が入った。急に一緒に飲みに行くことになった、っていう同僚らしい数人の声がスマホ越しに聞こえて、その中には女の子の声もあった。
 就活中に「余計なことを言わない」っていう割と当たり前なコツを覚えて、女の子から冷たくあしらわれたりしなくなった宇山は、酒も飲めないくせに時々こういう集まりには嬉々としてついて行く。
 こっちは店の予約をしてたわけじゃないから別に問題はない。だけどなんだかまっすぐ家には帰りたくなくて、どうしようかと思ってたところに声をかけられた。いつから見てたんだか、「自分も友達に約束をすっぽかされた」なんてナンパの常套句じょうとうくだ。
 ざっと上から下までをチェックする。鎖骨辺りまでの栗毛を内巻きにしたナチュラルメイクの女の子。女の子っていっても、ピンクベージュに塗られた短めの爪なんかは会社帰りの社会人っぽい。でも、こういうのには慣れてる感じで多分中身はヤリマン。演技なのは分かってるけど、遠慮がちに小首をかしげて返事を待つ様子も悪くはなかった。
 物事には、タイミングってもんがあると思う。
 普段の俺なら軽く無視するとこだけど、その時はたまたまタイミングが合った。半分は、俺との約束より同僚を優先した宇山への当てつけ。あとの半分は、宇山の不安をはっきり否定するための『試食』だ。本当に女の子の方がいいって思うのかどうか、自分を試してみたかった。
 あの夏の日、俺らの最初がそうだったように、もしかしたらそのままうっかりハマることもあるのかもしれないけど。

 彼女が欲しいってぼやきながらずっと童貞だったのは、俺の見た目にしか興味がない相手には無駄な労力を使いたくなかったからだ。だけど、社会人三年目ともなると、そんなことで機嫌を悪くしたり、変に自己主張したりするほどもう子供でもない。好きでもない酒を付き合いで飲んで、適当に話を合わせて、適当に笑って。
 二軒目の店で、女の子が分かりやすく酔ったふりをして俺の肩にもたれかかってきた。美乳だと期待させるような、程よいサイズの乳が腕に押し付けられる。男とばっかりHしてるからって別に俺はゲイになったわけじゃないし、割り切ってみれば悪い気はしなかった。
 だけど、流れるように自然にラブホ街に誘導されながら頭をよぎったのは、宇山と初めてラブホに行った時のことだ。
 いつもはずっとしゃべってばかりの宇山が、俺に手をつながれたまま、恥じらうように黙って顔を伏せてついてきた。平静を装いながらも胸が高鳴って速足になった、あの時と全然違う。特別な思い出に異物が混じるような気持ち悪さに足が止まった。
 そう。何もかも、タイミングなんだよな。
 もしこれが、宇山と出会う前だったら。もしこれが、俺がまだ童貞で、いつ何があるか分かんないって思いながらゴムを持ち歩いてた頃だったとしたら。
 ──だけど、思ってた以上に、俺はもう宇山じゃないと駄目になってたらしい。
 実際、飯を食ってる時からずっと、目の前の女の子と宇山の違うとこばかりが気になって、結局ずっと宇山のことだけを考えてた。宇山以外に使う時間も金も労力も、全部がもったいなかった。
 大人な俺は、「多分ちんこが勃たない」ってことを全力で遠回しに伝えると、人相が変わるくらい機嫌が悪くなったその子に金を握らせてタクシーに押し込んだ。割り勘にした飯代と合わせたら高い授業料だったけど仕方がない。
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