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第1章:夏休み
第8話 ストレスの捌け口。
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『今夜は、スーパームーンが見られるでしょう』
テレビでニュースを見ているとき、ふとそんな単語が耳に飛び込んでくる。芽衣が小首を傾げ訊ねてきた。
「スーパームーン?」
「あれだ……大きく見えるやつ」
なんてバカな回答だろう、と自分でも思った。子供の好奇心に対して、詳しく説明してあげられない俺が情けない。スーパームーンの解説は、図や前回の映像つきでアナウンサーがしている。その映像を芽衣が、まじまじと食い入るように見つめていた。
午前十時頃。
今日も銭湯に寄ってから、バイトへ向かうことにする。コーヒー牛乳を買って待っていたが、なかなか戻ってこない芽衣を心配し、「女」と大書された暖簾の前を、俺はうろうろとしていた。
誰かが入ったり出たりしてくるたびに、なんでもない感を出して離れる。不審者だと思われてんじゃないかと、心臓はバクバクだった。それからニ十分後、ふらふらと芽衣が出てくる。すぐさま駆け寄った。通りかかった女性が訝しげに見てくるので、親子ですよアピールして、名前をひたすらに呼び続ける。
「芽衣っ! 大丈夫? のぼせた?」
「平気です、一人で帰れます。お仕事、遅刻したら申し訳ないですし……」
「えっ? そう? 気をつけてね」
言う通り、確かに時間はやばかった。俺は、ベンチに座る芽衣に鍵を渡して、一人残したままその場を離れる。もう小学生だし放っておいても家に帰れるだろう。なにより、俺よりもしっかりしている。心配する必要なんてない。それよりもロリコンの脅威のほうが気になった。
遅刻ギリギリで、バイト先の工場へ到着する。五分前だが、工場長には「遅いぞ! 弛んでる!」としっかり怒られた。一時間ほど、みっちり作業を熟し、昼休憩を挟む。自販機にコーヒーを買いに行って、投入口の前に女性がいたので少し待つ。
その女性は、作業着の第三ボタンまで外していた。どれを買おうか悩んでいたようで、早く終わらないかなと俺は横目でちらりと見る。作業着がきついのかもしれない。豊満なバストが圧迫され、とても苦しそうに見えた。
コンビニ弁当を買い、コーヒー片手に戻る。工場前のベンチに腰かけたところ、さっきの女性が、大声でなにか話しているのを聞いた。
「あたしのこと見てたよ、絶対」
喫煙所に屯する、その女性と目が合う。俺がいることをわかってて、女性は聞こえるように言った。くすくすという笑い声が、嫌でも耳に届く。そこにはもう一人、二回り年上に見える男性の姿があった。
「じろじろ見られて、怖かったですぅ~」
「まあまあ許してやってよ。彼も漢だからさ。漢なら、みんな見ちゃうって」
「なんで男の人って、そんなに、おっぱいが好きなんですか」
なんのフォローにもなっていない上司の宥めを聞き、女性はさらに天狗になったように上司へすり寄りながら訊いている。この会話だけでは、俺のことかどうかはわからない。だが、イライラが募っていく。
仮に俺のことだとして。見ていたことは否定しないが、別にやましい感情があったわけじゃない。心配して損した。
まんざらでもない上司は、鼻の下を伸ばしながら「ま、オレは胸の大きさなんて、どうでもいいけどね」と調子のいいことを抜かす。さっきからボディタッチの多い女性は、さらにボディタッチの量を増やして、くすくすと笑いながら距離を詰めていった。
「きもっ」女性が吐き捨て、上司も賛同しているようだ。「童貞っぽいですもんね、あの人」
ああ、可哀想に。どっかの童貞くんが、キモ男判定されてしまったよ。見ず知らずの、名も知らぬ童貞よ、力強く生きろ! ビッチには負けるな! ちなみに言っておくと、俺は生憎、年増には興味ないんでね。もちろん、巨乳にも。
「どこ行ってた!」工場へ戻ると、さっそく工場長の怒号が鳴り響いた。「なに休憩してるんだ。バイトのくせに、いい身分だな」
「え。でも……」
「口答えするな。遅刻したぶん、働いて取り戻せ」
そこから三時間、休憩という休憩はなかった。シフトの終わった何人かが、タイムカードを押し始める。正社員の横をすり抜けて、堂々と帰宅を果たしていく。
「お疲れさまでぇーす」
甲高い声が、耳障りに響いた。
「おつかれーぃ」
その女性が挨拶したときだけ、満面の笑みを浮かべて挨拶し返す。若い子にモテようとしているオッサンってのは醜いな。若いっていっても、俺からしてみれば、みんなBBAだけど。
俺も帰ろうとして、工場長に捕まった。「これから飲みに行かないか」とのこと。あんたは仕事があるんじゃないのか。遅刻はダメでも、早退はいいのか? それとも、それは工場長の特権かなにかか?
「お、俺はバイトなので」
「バイトだろうがなんだろうが、ウチで働いている以上は付き合ってもらうぞ!」
「え、いや、でも……」
必至に断る理由を探してみたが無駄だった。結局、俺は工場長に誘われるがまま、居酒屋に無理やり連れていかれ、酒を久しぶりに飲むこととなる。ほかのバイトの人たちも、何人か捕まっていたようだった。居酒屋へ行く途中で、綺麗な満月を見上げ、そういえば今夜は、スーパームーンだったことを思い出す。
そんなことには誰も触れず、居酒屋へ足並み揃えて到着した。
「無礼講だあ!」
そう工場長は告げ、ビールジョッキを一気に傾ける。前に飲んだのは、いつのことだったろう。あまり覚えていないというのが、泥酔していた確たる証拠のような気もする。前に飲んだときも、酒癖が悪かったと、あとになってから聞かされた。それ以来、一滴も飲んでいない。
「惨めだとは思わないか? 三十にもなって定職に就いていないとは」
早くも酔いが回ってきた工場長は、最初に隣りへ座った俺に絡んできた。
「いい大学を出させてもらってるくせに。こんの親不孝もんがあ!」
唐突に、俺の頭に激痛が走る。どうやら、拳骨が飛んできたようだった。
なんなんだ、この時間は。人生の中で最も無駄な時間を、いま過ごしているのかもしれなかった。俺は溜め息を吐く。……早く家に帰りたい。芽衣の顔が見たい。せっかくの、最後の一夜だっていうのに。
俺は憂いを掃うように、またぐいっと一杯を飲み干した。
テレビでニュースを見ているとき、ふとそんな単語が耳に飛び込んでくる。芽衣が小首を傾げ訊ねてきた。
「スーパームーン?」
「あれだ……大きく見えるやつ」
なんてバカな回答だろう、と自分でも思った。子供の好奇心に対して、詳しく説明してあげられない俺が情けない。スーパームーンの解説は、図や前回の映像つきでアナウンサーがしている。その映像を芽衣が、まじまじと食い入るように見つめていた。
午前十時頃。
今日も銭湯に寄ってから、バイトへ向かうことにする。コーヒー牛乳を買って待っていたが、なかなか戻ってこない芽衣を心配し、「女」と大書された暖簾の前を、俺はうろうろとしていた。
誰かが入ったり出たりしてくるたびに、なんでもない感を出して離れる。不審者だと思われてんじゃないかと、心臓はバクバクだった。それからニ十分後、ふらふらと芽衣が出てくる。すぐさま駆け寄った。通りかかった女性が訝しげに見てくるので、親子ですよアピールして、名前をひたすらに呼び続ける。
「芽衣っ! 大丈夫? のぼせた?」
「平気です、一人で帰れます。お仕事、遅刻したら申し訳ないですし……」
「えっ? そう? 気をつけてね」
言う通り、確かに時間はやばかった。俺は、ベンチに座る芽衣に鍵を渡して、一人残したままその場を離れる。もう小学生だし放っておいても家に帰れるだろう。なにより、俺よりもしっかりしている。心配する必要なんてない。それよりもロリコンの脅威のほうが気になった。
遅刻ギリギリで、バイト先の工場へ到着する。五分前だが、工場長には「遅いぞ! 弛んでる!」としっかり怒られた。一時間ほど、みっちり作業を熟し、昼休憩を挟む。自販機にコーヒーを買いに行って、投入口の前に女性がいたので少し待つ。
その女性は、作業着の第三ボタンまで外していた。どれを買おうか悩んでいたようで、早く終わらないかなと俺は横目でちらりと見る。作業着がきついのかもしれない。豊満なバストが圧迫され、とても苦しそうに見えた。
コンビニ弁当を買い、コーヒー片手に戻る。工場前のベンチに腰かけたところ、さっきの女性が、大声でなにか話しているのを聞いた。
「あたしのこと見てたよ、絶対」
喫煙所に屯する、その女性と目が合う。俺がいることをわかってて、女性は聞こえるように言った。くすくすという笑い声が、嫌でも耳に届く。そこにはもう一人、二回り年上に見える男性の姿があった。
「じろじろ見られて、怖かったですぅ~」
「まあまあ許してやってよ。彼も漢だからさ。漢なら、みんな見ちゃうって」
「なんで男の人って、そんなに、おっぱいが好きなんですか」
なんのフォローにもなっていない上司の宥めを聞き、女性はさらに天狗になったように上司へすり寄りながら訊いている。この会話だけでは、俺のことかどうかはわからない。だが、イライラが募っていく。
仮に俺のことだとして。見ていたことは否定しないが、別にやましい感情があったわけじゃない。心配して損した。
まんざらでもない上司は、鼻の下を伸ばしながら「ま、オレは胸の大きさなんて、どうでもいいけどね」と調子のいいことを抜かす。さっきからボディタッチの多い女性は、さらにボディタッチの量を増やして、くすくすと笑いながら距離を詰めていった。
「きもっ」女性が吐き捨て、上司も賛同しているようだ。「童貞っぽいですもんね、あの人」
ああ、可哀想に。どっかの童貞くんが、キモ男判定されてしまったよ。見ず知らずの、名も知らぬ童貞よ、力強く生きろ! ビッチには負けるな! ちなみに言っておくと、俺は生憎、年増には興味ないんでね。もちろん、巨乳にも。
「どこ行ってた!」工場へ戻ると、さっそく工場長の怒号が鳴り響いた。「なに休憩してるんだ。バイトのくせに、いい身分だな」
「え。でも……」
「口答えするな。遅刻したぶん、働いて取り戻せ」
そこから三時間、休憩という休憩はなかった。シフトの終わった何人かが、タイムカードを押し始める。正社員の横をすり抜けて、堂々と帰宅を果たしていく。
「お疲れさまでぇーす」
甲高い声が、耳障りに響いた。
「おつかれーぃ」
その女性が挨拶したときだけ、満面の笑みを浮かべて挨拶し返す。若い子にモテようとしているオッサンってのは醜いな。若いっていっても、俺からしてみれば、みんなBBAだけど。
俺も帰ろうとして、工場長に捕まった。「これから飲みに行かないか」とのこと。あんたは仕事があるんじゃないのか。遅刻はダメでも、早退はいいのか? それとも、それは工場長の特権かなにかか?
「お、俺はバイトなので」
「バイトだろうがなんだろうが、ウチで働いている以上は付き合ってもらうぞ!」
「え、いや、でも……」
必至に断る理由を探してみたが無駄だった。結局、俺は工場長に誘われるがまま、居酒屋に無理やり連れていかれ、酒を久しぶりに飲むこととなる。ほかのバイトの人たちも、何人か捕まっていたようだった。居酒屋へ行く途中で、綺麗な満月を見上げ、そういえば今夜は、スーパームーンだったことを思い出す。
そんなことには誰も触れず、居酒屋へ足並み揃えて到着した。
「無礼講だあ!」
そう工場長は告げ、ビールジョッキを一気に傾ける。前に飲んだのは、いつのことだったろう。あまり覚えていないというのが、泥酔していた確たる証拠のような気もする。前に飲んだときも、酒癖が悪かったと、あとになってから聞かされた。それ以来、一滴も飲んでいない。
「惨めだとは思わないか? 三十にもなって定職に就いていないとは」
早くも酔いが回ってきた工場長は、最初に隣りへ座った俺に絡んできた。
「いい大学を出させてもらってるくせに。こんの親不孝もんがあ!」
唐突に、俺の頭に激痛が走る。どうやら、拳骨が飛んできたようだった。
なんなんだ、この時間は。人生の中で最も無駄な時間を、いま過ごしているのかもしれなかった。俺は溜め息を吐く。……早く家に帰りたい。芽衣の顔が見たい。せっかくの、最後の一夜だっていうのに。
俺は憂いを掃うように、またぐいっと一杯を飲み干した。
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