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さあ、目を覚まして

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           二
         
 何十歩目かを踏み出したときに、才津は漂う空気の質が変わったのを感じた。いや、空気だけでなく時間帯もまた違う。眩しいばかりの一天いってん、対して夜の町江戸裏に昼はない。

 傍らに馴染み深い気配を覚えて目線を下ろせば、そこには空の姿があった。走ってきたらしく、息を荒げている。

「追いつき、ました」

 得意げにする従者を揶揄しようと才津は口端を上げた。空を拾い上げてからこちら、才津の密かな楽しみは空の反応を見ることになっている。

『もう、あといくらもないが』
「それはどうしようもありません。あの町の造りはもとからそういう風になっているんですから」

 拗ねたのか空は唇を尖らせる。
 江戸裏は確かにここに在る、というような場所ではない。あれは幻視の町であり、あらゆる場所に繋がっている。入り口は無尽にあり、出口もまた然り。

「だからこんなに早く追いついた俺を褒めてくれたっていいじゃないですか」
『おお、偉いえらい』

 おざなりでなく真実その意味を込めて頭をなでてやると、嬉しそうに目を細めた。ついでなのでそのまま負荷をかけてみる。途端、悲鳴が上がる。

「縮むっ」

 痛いでもなくそう言う空に笑い声を立て、才津は歩みを再開する。すでに仰々しい屋敷街に入っており、ある裏門の前では目印のように怪しげな僧が一匹立っていた。

 やってくる彼らに気づき、彼は錫丈を用いて笠を上げひらりと手を振る。

『旦那ぁ、空』

 いつもながらに気だるげな声質。

『ご苦労だったな、魅櫨』

 才津が労うと怪僧は色硝子の奥の目を輝かせた。

『帰っていいんスかっ』
『それは却下だ。のちのち刹貴らが来る』

 ばっさり切り捨てると、男はその風体に似合わず、しおしおと地面にしゃがみこんだ。

『だって、ねぇ。オレ、退屈なの苦手じゃねえですか。見てください、これ、待ってる間に俺が描きました。あんまり退屈で死にそうだったもんで』

 視線を地面に投じると、門前から横三丈ばかりが魅櫨の落書きで埋め尽くされている。それもお世辞にもうまいとは言えない程度の代物が。

『これだけ描いておれば、お前、別段退屈などせんだろう』

 目をめて遠くを見やるように絵を眺めやって、才津はきっぱりと断言した。ええー、と男は情けなさそうに声を上擦らせる。

『無駄ばなしは終わりだ。行くぞ空』『無駄ばなし、て』

 彼の言葉には耳を貸さず、才津は開きっぱなしの門から中へ入る。その才津の背に、魅櫨の悔し紛れの悪態が投げつけられた。

『退屈した俺が猫と取っ組み合ってたっていいって言うんですねーっ』

 彼の本性はいぬ、かつてとある僧の身代わりとして寺社に封じられたときより、黒住持こくじゅうじと呼ばれている。




 初老に差し掛かった男の前に、傲然と腕を組んだ千穿が立っていた。男の目には正気がなく、ただぼんやりと虚空を見つめている。あつらえのよい袴を土蔵の土くれに汚し、膝をつくそのさまは、彼の素性さえ知らねば憐憫れんびんを感じずに違いない。

 才津について急な階梯かいだんを下りながら、空は眼下を見回す。

 奥には畳が数畳敷かれており、布団が一組おかれてあった。膨らんだ夜着の形に、そこに誰かが寝付いているのが分かる。手前に座る女に隠れて顔は見えないが、畳へと流れている髪の色に見覚えがあり、空は口の中でその子の愛称を唱えた。お嬢さん。

 空は彼女の本当の名を知らない。子ども自身も覚えていないからだ。できるならば自分がその大切なものを取り戻すための足がかりのひとつになれればと思っていて、そのさいわいの一助になりたかった。

 彼女を脅かすものは何もなければいいと願っていた。
 だから空は千穿が意識を縛っている、あの男が憎かった。あの男、子どもの、父親。

 空は肉親を知らなかったが、その情ならばわかる。育ててくれた女たちが向けてくれたもの。才津を筆頭に悠帳屋のものは江戸が興る前から存在しているものもおり、定命の雛である空は実の親など気にもならぬほどたいそう可愛がられて育っている。

 だから真実の親であるこの男が実の娘へ成した仕打ちに、愕然とせずにはいられないのだ。仔どもが人とは違うというのなら、晒される悪意の中、せめて守ってやるのが親ではないのか。

 それを自害、だと。それほどまでに追い詰めて、何がひとの子だ。バケモノよりもなお性質が悪い。自らを善だとたのんで疑うこともしないから。

「痴れ者が」

 ぼそりと吐き棄てると、ちょうど階梯を降りきった才津が空を肩越しに顧みた。

『なあ、空。それは道徳でしかないだろう。人情は、えてしてままならぬものだ』

 空はためらい、瞑目し、やがて首肯した。「  、そうですね」

 愛したいと願うこころと、愛せるかは別の問題だと、才津はそう言いたいのだ。
 仔どもの父親の本心がどこにあるかなんて、だれも知らない。


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