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さあ、目を覚まして

真黒の闇に等しい

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 子どもの声は空に伝わっていたらしい。彼は一瞬真顔になり、それから軽い口調で大丈夫ですよーと語尾を伸ばした。子どももよく使う言葉だ。それが必ずしも事実ではないことを、刹貴はよく知っている。

「俺のことなら心配無用ですよ、お嬢さん。少なくとも今、は。でもお嬢さんあなたは今、切実だ」

 子どもの手前、どうにか冷静をかぶろうとしているようだったが、空の言葉の端々からは焦燥が見え隠れしている。「才津さま、」

 説明のしようが分からなかったのか、空は途方にくれたように主人を振り仰い
だ。

『ああ、』

 仔どもはまっすぐに才津を見上げた。彼の顔は、刹貴に擁されているのでずいぶんと近くに見える。いつかは安心する眼差しだと思って、いつかは冷たいと思った。この前は空を泣かせたから、つらく思った。彼は今、険しい表情で仔どもを見下ろしていたが、怒っているわけではないことは分かる。

『いいか、娘』

 こくりと仔どもは唾を飲み込んだ。えも知れない不安を覚えて、刹貴の双肩に乗せ
ていた自身の手のひらにちからをこめた。刹貴はそんな仔どもの漠然とした不安などすっかりお見通しのようで、幼子をあやすように背を叩く。

「な、に」

 痛いほどの沈黙があった。才津は仔どもを気遣うように見、言った。

『お前の親父殿が来ているぞ』

 たった、一言だ。だが空気が凪いだ。

 どこに、ともどうして、とも訊かずにただ仔どもはひくりと喉を引きつらせ、逃れるように刹貴の首に縋りついた。才津がその父親というわけではないのに、どうしてだか彼が、無性に恐ろしかった。

「や、や」

 首を振って厭だと、刹貴に逃げてと訴える。

 刹貴は一歩も後退しなかった代わりに、仔どもの頭を引き寄せた。

『落ち着け』

 仔どもは必死に首を振るばかりだった。かたかたと指先を震わせながら、身を縮める。漫然とした闇が仔どもの胸中に降り立つ。

 見えるのは刹貴の着物ばかりのはずなのに、見開いた瞳に映るのは、過去に見た父親の憎悪と嫌悪に満ちた表情。

 殴られて、蹴られて。バケモノだと何度も罵られた。挙句刃物すら持ち出したことのある父親の話をどうして落ち着いて聞いてなどいられるだろう。

『どういうことだ』

 代わりに刹貴が説明を求める。止めてと言おうとしたが何かに阻まれたように声は出ず、才津が話し出すのを許してしまった。

『すまん。先触れを出したらあの親父、どういうわけか蔵に押し入ってきたらしくてな。思うにあの風鈴を握っていなかったのが問題なのだ。臥せっておるのに危害を加えようとしたらしく、麾下が止めておるがこのままじゃどうにもならん。今すぐ向かいたい』

『まあ、おれはそれでも構わんが。どちらにせよ一緒だろう。ああ、だから空もおるのか』

「っていうか、何ですか才津さま。今の説明じゃあ、なにやら空に隠して物事が進行していたようですが。連絡があったときいなかったら、空は完全に部外者にされていましたね」

 耳聡く気づいて不機嫌そうに、空は才津の袖を引いた。

 苛立たしげに才津は歯噛みする。『くそ、こうなるから嫌だったのだ。お前も千穿も余計な心配をしおってからに』

 空の怒気の交じった物言いに才津は眉を寄せ、自身の見目に反して何百と年下の幼い随従に噛み付いた。『こうするしかなかったろうが』
「けれど空をたばかろうとしたのは事実でしょう」

 空も負けずに言い返す。

 当事者である仔どもをほったらかしにして、主従は口舌こうぜつの争いを展開しだした。互いに主人あるじだから、若輩だからといって折れる気配はない。

『お前は一度でいいからそれでも許そうとは思えんのか。いつもいつも一回は何かしら文句をッ』「最悪ですねッ。非があるのは主人のくせにさも空が悪いようにおっしゃる」

 温度を増してくる言い合いに、刹貴は顔を歪めた。

『そんな喧嘩をしにうちへ来たのだったら、今すぐお引取り願おうか』

 とりわけ口調を荒げたわけでもなく、平素通りの淡々とした言い回しだったが、この熱された場においてその言葉は異様に冷たく響いた。

 ある意味仲のいい主従は舌戦に掻き消えても不思議ではないその音量でも、きちんと聞き取ったらしい。しばらく続きそうだった諍いを瞬時に治め、揃って謝罪を寄越す。

「申し訳ありません」『悪かった』

 しゅんとしている空とは違い、才津はいささかも悪びれていないふうではあったが、上面のものでも謝罪は謝罪だ。

『あー、では本題に戻ろう』

 顔の横で立てた右を人差し指を、才津は無意味にくるりと回した。『娘、』

 呼ばれて、仔どもは刹貴を責めたくなった。主従を止めないでいてくれたら彼らは喧嘩のし通しで、仔どもなんて忘れていてくれたろうに。

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