傍へで果報はまどろんで ―真白の忌み仔とやさしい夜の住人たち―

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それは永遠の秘めごと

大切なもの、ままならないこと

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          八

 境界を抜け、仔どもは見慣れた押入れに出た。襖は開いていて、目の前の壁にはさつが身を凭れ座っている。さい千穿ちせんはすでに帰宅したあとのようだった。月明かりのみが照らす室内、静かにうたっていく風鈴の決して一律ではない音。刹貴に拾われて一月あまり、耳に馴染んだ音のひとつだった。

「寝てる」

 仔どもはちいさくした声を傾けて訊ねた。待ってみたが返事はない。本当に寝ているのだ。仔どもは意外に思って目を瞬かせた。今まで刹貴がこんなふうに転寝をしているのを、見たことはなかった。

 そっと畳の上に降りて、仔どもは押入れの下段から薄手の夜着を引っ張り出した。敷布団を出すがどうかを迷って、とりあえず掛けるものだけを引っ張っていくことにする。

 それだけのことが、なぜだかひどく疲れて足がもつれた。空と一緒にたくさん泣いたせいだろうか。

「刹貴」

 軽く肩を揺すると、ふっと刹貴が面を上げた。

『人間』

 つぶやかれる声にうんと頷く。手を引かれたので素直に座り込んだ。頬に指が滑る。

『帰って、きたのか』

 指の感触を意識しながら、仔どもは当たり前だと返した。

「あたし、帰るって言った」
『そうだったんだがな』

 いつもは感情の乏しい声に温かなものが滲んだ。
 仔どもを夜着ごと自分の膝に乗せて、刹貴は喉奥で笑みを漏らす。

『自由だと気づけば今度こそどこぞに行ってしまうやも、と。
 どうしようか、人間。おれは今、うれしくて堪らないのだ』

 刹貴の指がかんざしを抜き取る。油でしっかりと固めたわけではないから、仔どもの長い髪はふうわりと背中に広がった。庵に染み入る月光を照り返して一層澄んで輝く白い髪。簪を挿していたときには躊躇いがちに触れた手は、今は迷いを見せずに仔どもの髪を梳く。

「うれし、い」

 呆けて訊ね返すと、確かに是と返された。

 身体中に震えが走る。怖いのではない。とっさに仔どもは顔を伏せ、刹貴の胸元に自分の額を押し当てた。

「あ、」
 ぎゅうと縮んだ心ノ臓が、意味を成さない単語を送り出す。

 このひとを傷つけることしか出来ないと、あきらめていた。けれど彼は、刹貴は、うれしいと、確かにいま、そう言ったのだ。

『どうした』

 仔どもはふるふると首を振った。込み上げる想いを抑えるのに精一杯だった。

「しあわせなの」

 ようやっと仔どもはその一言だけを口にした。

 だが口上をしたとき、想起されるのは空のことだ。幼い仔どものちからでは、どうすることもしてあげられない、歯がゆいこと。

 仔どもはきつく刹貴の着物を握り締めた。
 仔どもの変化を読み取ったのか、刹貴がまたどうしたのかと訊いてきた。

「あたしは、しあわせなの。すごく、
 すごく。刹貴が、いて。才津さま、千穿がいて、空も。みんな、みんな。
 でも空は、それでも泣いてるの」

 音を鳴くような声で言うと、刹貴は仔どもをぎゅうと抱きしめた。

『空の坊は、やはり泣いていたのか』
「刹貴は、知ってたの」
おれはサトリだぞ。いくらちからが制限されようと、強い感情が漏れ聞こえることはある』
「空のこと、知っていた、のね」
『ああ。お前から感じる以前から。あれのことは知っている』

 そうか。刹貴はひとのこころを覗くことができたのだった。
 刹貴は、知らない振りが本当に得意。
 怖いか、とまた刹貴は囁いた。

おれはサトリで、もはやこれは己ではどうにもならぬ本性だ。お前の内心だとていくらでも覗ける。怯えて逃げだされたとて当然だ』

 突き付けられた無骨な指先は、まるで仔どもの心ノ臓を貫くよう。問われれば当然それは怖いに決まっていた。それでも仔どもは絶対に、そう答えるつもりはない。これはきっと、仔どもの覚悟のはなしなのだ。

 自分がどんな人間でも、あなたを信じていると言えること。それがどれほどの歓びか。

 男の指を開かせ、手のひらを自分の胸に押し当てた。怖いかと訊くくせ、仔どもの背から離れない大きな手がおかしかった。

 まことのこころはきっとここにある、この心ノ臓に。

「探ればいい、すきなだけ、あたしのなかみ。こわくなんか、ないもの」

 はっきりと告げれば、刹貴ははじめて、分かりやすくその薄い唇に喜色を描いた。

『ああ、お前は素晴らしいな。坊も心強かろう』
「ううん、あたし、なにも、してあげられてないの」
『それでもよいのだ。あれは助けがほしいわけではない。ただ傍にいてやるだけで、慰めになることもあろう』

 空は言った。そのときがくれば自分は捨てられる。そのことを刹貴は否定しない。

『そのときに、本当に才津さまは、    空を捨てるの』

 実際に言葉にすると、それは質量を持っているかのように喉につかえた。

『それ相応のことはするだろう。
 いいか、人間。空にとっては向けられる態度が異なるだけで、十分捨てることになる。あれが認める自身の価値は、才津殿の剣とも盾ともなることだ。そう言われて育てられたのだからな。けれども才津殿は女だと分かればそれを是としないだろう」
「空は、平気って言ったよ。なのに、」
『だとしても。あのひとにもそれ相応の理由となる傷がある。それを堪えろと言うのはむごい話だ。いくら他者にとっては取るに足らない些細でもな。望まれたからといって一朝一夕で変われるものではない』

 ふわりと胸に広がる寂寞せきばくに、仔どもは目を閉じる。

 変われないもの、変わりたくないもの、変わってはいけないもの。そのそれぞれがあることを仔どもはよく知っている。才津もそうなのだろう。だから頷きたくはなかったが、それでも仔どもは縦に首を振った。そうしなければ仔どもは自分をも否定することになるので。

「うん」

 だって仔どもは死ななくてはいけないことくらい覚えているのだ。ただ、
                       できなくなったというだけで。

「うん」

 認めるために、もう一度仔どもは頷いた。

 ままならないな。

 彼らがお互いを大切に思っているのは定かだというのに。

 どうすれば最善の答えが出てくるだろう。そんなむつかしいことをたくさん考えていたら、いつの間にか刹貴をまくらに意識を失っていた。


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