傍へで果報はまどろんで ―真白の忌み仔とやさしい夜の住人たち―

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それは永遠の秘めごと

人と妖の境目の舗

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           五

 決意を込めて一歩踏み出すと、そこはもうさつの庵の押し入れではなかった。そこは日差しが満遍まんべんなくとりこまれている往来《おうらい》に通じる大座敷で、藍染めの羽織をまとった幾人ものひとが忙しそうに立ち働き、裕福な身なりの人間たちが品物を物色している。

 くらりと眩暈めまいがして、仔どもは額に手をやった。活気に気圧されるのと同時、底抜けな恐怖を感じてたじたじと仔どもは二、三と後退する。

 そこにいるのは人間ばかりだ。仔どもを毛嫌う人間ばかりだ。

 いまに罵られるのではないか。そんな恐れが瞬時に全身を取り巻いて、身体は冷たく、呼吸は浅くなった。

 けれど仔どもはこぶしを固めてその場に踏みとどまった。

 あの去り際に見せた空の表情が、仔どもは気になってならなかった。あの決壊する寸前の何かを、必死に留めているような表情が。

 行ってやらないといけない。否、行きたいのだ。空が、心配で。
 一歩前に踏み出したとき、子供の前に黒い影が立った。

『お嬢ちゃん』

 軽薄な声がした。おそるおそる視線を上げると、近距離に見慣れない男の顔があった。丸い色つきの硝子をふたつ、両眼を隠すように鼻柱で支えている。袈裟を着ているくせに剃髪ていはつはしておらず、ざんばらに切られた黒髪。とってつけたような胡散臭い笑みを口元に乗せ、彼はもう一度仔どもを呼んだ。「な、に」

 なんでこんなところにお坊様がいるのかわからなくて、仔どもは少しおびえてしまう。

『いやぁ、警戒してんのか、かわいいなぁ。お前さん、刹貴んとこに飼われてる人の子だろう。この大店にどんな用件だい』

「そ、そら。空に」

 咄嗟のことに単語しか口にできなかったが、相手はそれで察してくれたらしい。

『ああ、あれか。あいつは部屋に帰ったぜ。癇癪かんしゃくを起こしてたが、それでも行くかい』
「へい、き」
『へえ。じゃあ、行ってきな。
 あいつの部屋は廊下入って八番目。連れてってやりてぇんだが生憎あいにく俺は店番でなぁ』

 その店番を、いま彼は放りだしているように見えるが、よいのだろうか。

 はたしてよくはなかったらしく、店子の誰かが尖った声音で彼を呼んだ。それは柔らかな栗毛を持つ少女が発したもので、彼女は男に向けた声とは裏腹に、仔どもには決まり悪げに手を振った。でも彼女が相手をしている客は、仔どもに一瞥も与えない。

 よくよく見やると、店子たちは仔どもに時折笑いかけたりするものの、客人たちはまったく仔どもを気にしない。気味が悪いと、思うのは当然だろうに。

 袈裟姿の彼は広間を見つめたまま動こうとしない仔どもに訝しげな視線を送り、そのわけに気づいたらしく教えてくれた。

『お嬢ちゃんは身体を家に置いてきちまったんだろう。だからいま、お嬢ちゃんは魂だけ。希薄な魂が人の世で、人間になんて見えるわけがねえのさ。だが舗の連中は妖モノだらけなもんで、お嬢ちゃんを見通せるって寸法なのよ』

「え、じゃ、じゃあ、空」仔どもは困って語尾をすぼめた。
「空、あたし、見えない、かなー」

『いやいや、』

 落ち込む仔どもに、急に真顔になって彼は顔の前で手を振った。

『ありゃあもう半分あやかしよ。妖モノに混ざりすぎた人間だ。まともにゃもう戻れねえ。行ってみろ絶対見えっから。
 どっちにしろ大座敷の奥は人の世じゃねえ。見えないことはあるまいさ』「よかったぁ」

 安心して仔どもは頷いた。目的はどうやら達成できそうだ。

 ありがとうと言いかけたときにまた先ほどの彼女からの叱責があって、彼は首をすくめた。

『これ以上怠けるのは無理そうか。お嬢ちゃん、うまく空の機嫌をなおしてくれよ』

 ああ面倒だねえ、そう男は嘆息たんそくして、乱れた髪をさらに掻き回しながら帳場ちょうばへのそのそと寄っていった。
 かと思うと振り返る。

『そういや名乗ってなかったな。オレははぜ。みーちゃんって呼んでな』

 にっこりと手を振られて、仔どもが分かったみーちゃんと答えようとしたとき、三度目、例の彼女から魅櫨は叱責ではなく飛び蹴りを食らっていた。

 唖然としていると二匹とも大丈夫だと言ったので、魅櫨の声は大丈夫とは心持ち離れたものだったけれど、とりあえず納得することにした。

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