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夜に暮らす穏やかな
さいどの生よ、どうか次こそ
しおりを挟むたどたどしく訊ねる仔どもに、刹貴は口の端に苦笑を乗せて呟いた。
『いくら悲しかろうと、なさねばならぬことはある。それが己のときで、あの村には己の命以外に、贖う術はなかった』
「でも、」
仔どもは探し、さがし、つたない言葉を必死に探り当てた。
「それだって、いくら刹貴が好きだって、刹貴を傷つけたのよ。そんなのって、ないよ。いまも だって 刹貴、人間が き、きらいでしょう」
仔どもは庵の、風鈴の音を聴いている。常に鳴っているものだから、もはや日常の一部に組み込まれたうつくしいその音色。天井から吊り下げられた風鈴は、出入りに使う表戸と裏戸のものを除いてすべて、刹貴の妖モノとしての力を封じるためのものだ。
それは両親から受けた傷のせい、サトリとなって識った人間の醜さのせい。
膿んだこころの傷は今もまだ、こんなゆがんだ形で露出している。
不信は今もなお、刹貴のこころの裡にある。
『ああ、』
刹貴はそこでふつりと声を途切れさせた。
『そうだ。少しばかり癒されたからとて、傷がなくなるわけではない。己は結局人間を厭い続けたし、誰ともかかわりたくはなかった。この力は忌わしかった。
されどお前は、さればこそ、 喪うわけにはいかなかった』
「でも、 人間よ。そうなんでしょ」
垂れる髪のその色合いにわずかだけ視線を移し、仔どもは確かめる。
どんなに別の名前で蔑まれたって、この町に住むものたちは、決して仔どものことをそうは呼ばない。
『ああ、そうだ。だが、お前は己の客だから』
「何も買ってないよ」
そういえば、出会ったときも刹貴はそんなことを言っていたのだったか。聞き間違えだと思っていたのに。
『それでも、客だったのだ。お前の知らぬ遠きから』
「母さまの、ことね」
刹貴は肯定も、否定もしなかった。
『 唯人などに売るのではなかった。過ちだった。これは人の持ち物ではない。己は人間の事情などどうでもよかったのだ。知ろうともせず、求められた故、売った。それだけだった。お前がいたずらに苦しんでいると知っていれば、己は』
「気にしなくて、いいのよ」
母がどのような使い方をしたって、それを造った刹貴に咎めがいく謂われはない。
そんなところにまで、負い目を感じる必要はないのだ。
さらりともたらされた言葉に、ぐうと一度刹貴は奇妙に喉を鳴らした。堪えかねるように畳の上で握りこぶしを作る。
「ああそうだ、己は、気にしなかったろう。人間、お前が現れさえしなければ。お前がどこで独りのたれ死のうと、寸毫こころを動かされることはなかったに違いない。知りさえしなければ、それはなかったことと同じだ」
わずかに高ぶった声は、すぐさま元の低さに戻る。『傷は消えぬ。それは己もよくよく知っている。それでもお前の誤解を知っていて、それを正す機会を与えられた。みすみす逃すのは我慢がならぬ。お前が人であろうがなかろうが、そんなものはどうでもいいのだ。そのために使える力があるのも妖モノになったが故と思えば、悪くはない』
仔どもは悄然とだまりこんだ。
いったいそうやって昇華してしまえるまでに、どれほど時間がかかるだろう。
仔どもにはまだそれができない。
あの怖さを、苦しさを、なくしてしまうなんてまだできない。
お前のことを、お前の母は厭うていたはずがあるまいよ。
刹貴はそう言うけれど、それに仔どもは首を振った。
そうだ、刹貴はそうだったかもしれない。けれど自分はそうではない。いつまでだって、誰にだって、疎まれていた。
誰からも見られない、暗く狭い世界に閉じ込めてまで。
『いまに、お前も分かるだろう。お前が傷を癒したときに、己はきっとお前に分からせてやれる、人間』
一寸だってそのことを疑っていないような強固な響きをその言い口に込めて、刹貴は断言した。
『己は確かにあの日まで大切にされてきた。しかしどれだけ想われていようとも家に戻ることは叶わなかった。どうしようもないことだったからだよ。
だがお前は、』
きっと、刹貴が目を潰されていなかったなら、おそらくとても柔らかな眼差しで微笑んだのだろう。彼はその表情を出すことができない代わりにひどくまるい物言いをした。
『帰りたければいつでも帰れる。お前がいとしく思うものの元へ。お前がいとしく思われているものの元へ。もし願うなら、お前を束縛するものはなにひとつとしてありはしない』
「、うん、」
かそけく相槌し、仔どもは頼りなくまつ毛を伏せる。
どうすれば伝わるだろう、彼と自分の違いを。
この確かな深い溝を。
そんな人なんていないよと仔どもは確かに言い切ることができたけれど、そうやって信じている刹貴がいるのだからそれでもいいかと思い直した。
優しいのだ、刹貴は。
たとえ本当はどんな風に自分が思われていたって、ただ刹貴がそう信じてくれている、それだけで仔どもはいい気がした。
だからだろう、こんなことを言ったのは。
この妖モノだけは信じられる。一瞬あとにはひるがえるかも判らない錯覚でも、今はそれにすがりたかった。
この男だけは、信じてもよい。
「ね、刹貴、ぎゅって、して」
手を伸ばし、自分からせがむ。
『 それは、』
うろたえた声はわずかに上擦っている。逡巡し、刹貴は探るように仔どもに向き直った。
『お前は、触れられるのが嫌いなはずだ』
刹貴がそう言うのなら、それは正しいことだと仔どもは認めた。
けれど、だ。
「だけど刹貴は、きらいじゃないって、言ったよ」
『それは、』
困ったように、声の調子が下がった。困るということは事実だと認めていることだ。その上で否定しようとするから困るのだ。
「あたし、触られるの、きらいだよ。怖くて。
でも、さびしいのも、きらい。刹貴にぎゅってされないのは、さびしくて、きらい」
だから、触れないと言われるのは困るのだ。
仔どもは再度ねだった。それに返されたのは確かな温度と力強さだ。
刹貴に抱き込まれているととても怖いのに、それ以外からは確かに守られているようで深いふかい安堵がある。
こんなにも隔たりがあるのにな。
それでも、死にたくなるくらい、ここは安全であるようなのだ。
『なあ、人間、己の願いもひとつ、聞き届けてはもらえるだろうか』
耳際で、刹貴は囁いた。『、また、こうしても構わないか』
仔どもはそれに、背中に回していた腕にちからを込めることで、応えた。
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