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夜に暮らす穏やかな

あなたがあたしに望むことを

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 苦しくて、とうとう涙が溢れた。一度流れ出してしまえば、もうとどめることはできない。

 刹貴の言葉は何もかも的を得ていたから、なおさら痛い。

 事実、本意ではないのだ。この庵に刹貴といること。空や才津、千穿が訪ねてきてくれること。だから今だって逃げ出したくてたまらない。優しくしてくれるものすべてから。それが叶わないのならば死んでしまってすらいいと思う。

 そんな自分がこうやってまだここに留まっているのは、せめてもの恩を返したいからだ。

 こんな仔どもをまともに扱ってくれた、それに報いたかった。

 仔どもはもう、嫌われたくなくなっている。

「どうしたら、いい。どうやったら、刹貴 は うれしいの」

 何をやっても空回るのなら、もう直接本人に聞くしか手立てはない。

 乞われるならば、刹貴が望むことを何だってしよう。たとえそれが意に添わぬことでも。

「なんでも する  よ」

 男はわずか沈黙し、彼のそでを握りこんだちいさな手の気配を感じていた。そこにかかるかすかな負荷が、面が光を通さずともはっきりとわかる。その小刻みに痙攣けいれんしている手から伝わる感情すらも。男には、わか ってしまう。

『無理をするな』

 ややおいて、刹貴は仔どもの言葉をなかったことにした。それに仔どもは追いすがる。

「違う、よ。そんなのじゃないよ」

 これを無理だというのなら、幼かったころのあの数年間の自分は、一体何と形容されるというのだ。

 初めて誰かのために何かをしたいと願った。

 それは全てがすべて純粋な気持ちからではなく、自分の保身のためのいうなれば妥協にも似たものだったけれど、それでもほんの少しでも刹貴の望む気持ちを返せれば、と。

「刹貴、」

 逆に、自分が乞うような響きを持った口調で、仔どもは自分を拾ったアヤカシモノの名前を口にする。するとそれに、うっすらと刹貴は笑った。わずかに持ち上がった薄い唇に、仔どもがそうだと検討づけただけの分かりづらい笑みだった。

『何故、そのようなことを考える、人間。お前は今もなお、ここから逃げ出したくてたまらぬのだろう』「だけど、」
『望めば今なら、逃げ出せるぞ』

 瞬間、がつりと頭をしたたかに殴られたような、そんな気がした。驚きで涙が止まる。くらくら、揺れる頭の中を探って、仔どもは言われた言葉を整理する。

 逃げ出せる、どうして、                  

 どうやって。

 刹貴は無言で押入れを指差した。

「  ぁあ、」

 相槌はうめくようにしてもれた。

 ああそうか、あそこはいつだって無防備に、仔どもが逃げ出せるよう開かれていた。そんな当たり前のことに、今更気づいた。そしてその事実はますます仔どものこころを揺さぶった。

 ねえ刹貴、それは。

「そうしたら、刹貴、うれしいの」

 もう、出ていけってことなのですか。
 気まぐれが、ようやく終わったんですか。

 零した声はいつもよりもずっと色がなく、今まで自分が発したどの声よりもやさしさに近かった。

「刹貴がうれしいなら  そうするよ」

 ふらりとよろける足で畳を踏んで立ち上がる。刹貴がほんの少し上向いて、その面に隠された両目を見つめて仔どもは言った。

「風鈴、返して」

 その言葉を最後に発した日はずいぶん遠い。刹貴たちが望まぬ言葉は言うまいとしていたから、自然と風鈴を乞うことはなくなっていた。

 でもこれが刹貴の望みなら、問題などありはしないだろう。

 笑ってみようと思った唇は、結局奇妙なこ を描いただけにとどまった。放り出されるときには、ほらやっぱりとわらってやる予定であったのに、そう決意したときに感じたようにすでにもう手遅れだった。

 その優しさが怖かったくせに、その優しさを望んでいる。

「返して、」

 繰り返す。そう言いながら、思考はすでに別の場所へ飛んでいた。次こそ孤独な死に場所を探し出そうと。そうやって違うことを考えなければ、風鈴を受け取る前に足を引いてしまいそうだった。今まで良くしてくれた刹貴に、これまで以上にひどいことをしてしまいそうだった。

 何も答えない刹貴から、仔どもはとうとういたたまれなくなって目を逸らす。あせた色の畳の節目に視線を投じた途端、ぐらりと身体が傾いだ。とどまろうと足に力を込めたが傷が痛んでうまくいかず、そのまま倒れる。暗色の着物の裾が視界に入り、仔どもが倒れている原因が刹貴にあるのだと、身体ごと刹貴の腕の中に抱きこまれてから理解した。

「ッ、 っ、」

 拒絶はもう二度と仔どもにはできない行為で、放して欲しくともそれを伝えることも行動であらわすことも仔どもはしなかった。ただ刹貴の思惑が理解できず、目を見張って息を詰めることしか残された道はない。

 もう仔どものことなんていらないんじゃなかったのか。

 それでも、刹貴の懐は抱き込まれると途方もなくあたたかいのだった。


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