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遅すぎた日々が巡って

それは自分であるために必要なもの

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「死ねるのっ」

 嬉しくて、仔どもは笑った。呆れるほど無邪気に。刹貴の庵へ来て、これがはじめて見せた仔どもの何も繕わない笑みだった。

「何をっ、」

 語調も変えずに今度は仔どものほうへ向き直った空は、一瞬のうちにその表情を凍りつかせた。

 唇を引き結んで顔を歪めて、ふらふらと裸足のまま土間に降りてきた空は袴が汚れるのもいとわず仔どもの前に膝をつく。刀の鞘の小尻が固い音を立てて地面を打った。握られた二の腕が痛かった。

「何を、なにを喜んでいるのです。死ぬと言っているんですよ。なのに何故、そんな風に笑っているんですっ」

 笑っていちゃだめなのかな、まず仔どもはそう思って、それから苦しそうな表情をしている空を見て、途端に申し訳ない気持ちになった。仔どものすがたを見ても罵倒ばとうしない、はじめての人間なのに。

 人間なのに仔どもを切り捨てない、そんな人だったのに。
 高揚していた気分が沈んで、仔どもはうつむく。

「どうしてです、才津さま。どうして彼女は」

 続きを言うことを拒むように、彼の声がちいさく消えていく。色を褪せた瞳が、仔どもを見上げている。仔どもの着物の裾を掴んだ空の手は細かく震えていた。

「おれは、傷を癒す、その間だけだと思っていた。魂の傷は肉体のものよりも損傷が激しい。そのために留め置いているのだろうと」

 それは無理に、感情を押し込めて冷静になろうとしている声。

 傷は至る所にある。

 空の目は仔どもの心ノ臓の上に巻かれた繃帯ほうたいと、何度変えても滲む血を映す。

「それなのに、傷が癒えてなお、死ぬ、なんて」『莫迦空』
 静かな声が幼い自分の随従ずいじゅうを罵倒する。

『どうして、か。教えてやろう。お前もこの娘と同じ、人間の端くれだからな。お前には分かるまい』

 才津はちらりと刹貴を返り見た。風鈴ひとつ、手にした刹貴は微動だにせず、才津の行動を肯定も否定もしなかった。

『娘。お前、名は』

 訊ねられて、仔どもは口を開いた。「えっと、」

 言いかけて、ふと気づいた。
 名は。
 ムスメ、人間、あなた、      バケモノ、と。

 色々な呼ばれかたをしたけれど、そうだ、どんな名前だっただろうか。
 記憶の中では、名前で呼ばれたことなどない。

 それに母から風鈴をもらって以来、仔どもに声をかけるものすらいなくなった。

 名を忘れてしまっているのか、それとも元からそんなものは与えられていなかったのか。それは定かではなかったけれど。

 寸時躊躇ったあと、仔どもはそのままに告げた。

「名前、ない」

 わずかな沈黙が通り過ぎ、吐き出す息とともに才津が言った。『ほれ、見たことか』

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