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遅すぎた日々が巡って
主従たち
しおりを挟む目を伏せたとき、一際大きく風鈴の音が聞こえてきた。
瞬間、ぞうっと背中を這いあがってきた怖気に仔どもの心ノ臓は動きを止めそうになった。
(な 、に )
震えることすらままならないまま振り向いた先で、仔どもが見たのは常夜を背負って戸口に立つ、長身巨躯の男だった。風鈴が鳴るのは上背があるせいで、上枠に頭がつくほどだからだ。
『邪魔をするぞ、刹貴』
太い声が空気を揺るがす。相対する刹貴は冷静そのもの、『よく来てくれた』と静かな声で歓待している。
男はとうに元服しているはずなのに、灰褐色の長髪を申し訳程度に赤い髪紐で括って垂らしている。羽織代わりに纏っているのは大輪のあしらわれた華やかな打掛だ。目元に刷かれた紅が切れ長の瞳を一層怜悧に見せている。
ただ、違う。奇抜な風貌が恐ろしいのではない。そんなものは仔どもに何の意味もない。一等に奇妙なのは自分だと、仔どもは思っているから。
おそろしかったのは、彼の気配そのものだった。傍にいるだけで、地面にめり込んでしまうような、そんな重圧を男は持っている。
少年は男に才津さま、と呼びかけた。彼はおう、と気安く少年に片手を上げる。
このひとが。仔どもはぼうっとする頭のどこかで発する声を聞く。
このひとが、才津さま。空の主人さま。
この夜の町、江戸裏を統べる長。
「ようやくとお越しですか。やはりお供すべきでしたね。御身を離れるべきではなかった」
『先ぶれを出すは大事だろう。俺が往くのだからな』
「いや結構、好き勝手威厳もへったくれもなくほいほいと出歩いていらっしゃいますよね、あなた」
軽口を叩きあいながらも、空は気遣わしそうに仔どもの顔を覗き込み、汗に湿った手を握ってくれた。「大丈夫、誰だって最初はそうです。主人に害意はありませんから、すぐに慣れますよ。楽に、さあ、息をして」
吸って、吐いて。そうしていると、ゆるゆると男から感じていた畏れが、身に馴染んでいくのを感じる。
男は慣れたものらしく、男らしく削げた端整な顔を仔どもに向け、面白げに口端を吊り上げた。
『ほう、お前が刹貴に拾われた娘か。あの人嫌いをどう誑かしたのだ』
土間で下駄を放り、ずかずかと座敷にあがってきながら、男は訊ねる。しかし是と答える暇すらも彼は与えずに、次の質問が投げられた。『着物はどうだった。俺の見立てゆえなかなか悪くない品だぞ。髪の色にも合っている。
なんだ、瞳も大層なものを持っているじゃないか』
竦みあがっている仔どもの前に腰を下ろし、流れる髪を一房手にとって才津は漏らした。
『ほう、思っていたよりも美しい色だ』「え、」
突然髪に触れた手に、意味がよく分からなくて強張った声が落ちた。
『これはいい。ただの白髪とは違う。艶があって、滑らかだ。俺は好きだな。なあ空』
振られた少年はええ、とにこやかに、いっそにこやかすぎるほどの声音で返事をした。
「空に映えるとても明るい月輪の色。もちろん、空好みでないわけがないでしょう。それよりもその手を放してやってくれませんか。このおんなったらし。十にも満たぬおなごも範疇であったとは、なんとも悲しい」
『主人に向かって言うようになったな』「あなたの教育の賜物です。ああ、教育された覚えはありませんから、人の振り見て我が振りなおせ、と言ったところでしょうか」
少年の、空の背後に暗雲でも見えそうな言葉の応酬に、先に降参を申し入れたのは彼の主人のほうだった。梳くように撫でていた仔どもの髪から手を放す。
きっと刹貴が数日、厚く仔どもの面倒を見てくれたおかげなのだろう。長い間手入れされていなかったわりに、それはさらりと才津の手から零れていった。
仔どもはようよう手が離れて、安堵とともにまたしても失っていた呼吸を思い出す。
『そういえば、お前、名は何と言う。俺は才津。そこにいる口の達者な小憎らしい坊主が俺の従者、空だ。それから、』
才津は出入り口に目を向け、声を放った。
『いつまでそこにおるつもりだ。千穿』
戸口に、大きな黒い影が映っていた。影はその場で憮然としたような、あるいは戸惑ったような声を唇に乗せた。腹の底をぞろぞろと探るような、太く、聞きようによっては恐ろしい声だったが、乗せられた感情のせいでそうは感じない。
『才津さま、私はこのムスメに対面する気は』
『ここまで付いてきておいて何を言っとるんだ、お前は。早く来い』
呆れたような口ぶりで手招く才津に、こぶしを作って震えていた空が叫ぶ。
「何を言ってるんだ、はあなたのほうですっ」
続いて思い切り腕を振り上げ、空は敬愛する主人にも関わらず才津の頭を殴りつける。『ぐ、』
呻《うめ》く才津に後ろめたさの欠片もない表情で、空はそのまま才津の胸倉を掴み上げた。
「あなたってひとは、一体何を考えているんですっ。千穿を御店に呼んで説教、それはまだいいでしょう。あなたは人間贔屓です。無意味な人狩りは江戸裏の法に反するし、憤るのは無理からぬ話。ですが、加害者を被害者に会わせるなんて、あなたはどういった神経をしているのかッ」
殴られさらにがくがくと揺さぶられても、才津は空を怒るそぶりすら見せず飄々と言い切った。
『いがみ合いの中で生まれる友情』
「どーして疑問調なんです」
そんな規模かと怒鳴って青筋を浮かべる空に流石に焦ったのか、才津は待て待て、と静止を突きつける。「冗談だ冗談。よく考えてみろ。お前、俺、刹貴。全員男だ。傷を負っているとはいえ、世話なら女の方が気易かろう。助っ人だ、助っ人。なりはああでもあれは立派な女だからな」
一瞬黙り込んだ空だったが、すぐに反論の材料を見つけ食いつく。
「だからといってうちには千穿しかおなごがおらぬわけではあるまいに、若い娘なら白鷺がおるでしょう、千穿はどう見たって大外れ以外の何でもありません。お嬢さんが怯え、 た、 ら」
仔どもを目で追う空の言葉が、途中から不自然に傾いた。「へっ」
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