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遅すぎた日々が巡って

やさしさに免疫があったなら

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 それなのに、ここで途切れるはずだった会話は今回に限ってそうではなかった。
 風鈴の音に紛れてちいさな破裂音が周囲に響く。

 何者かが背後に立つ気配がする。もちろん、それは刹貴以外にはいないのだったが。この音は、刹貴が動くたびに決まって聞こえるものだった。

「なに、」

 足が宙に浮く。この持ち上げかたは刹貴の十八番おはこだ。後ろから抱えるのは。手が触れる、その場所がちりちりと焼かれる。

 このままでは絶対に手酷く火傷をする、そんな確信。

『これからひとがくる。布を巻きなおしておいたほうがいい』
「いっ、いい。やんなくてっ。やるなら自分で、」

 もがいて腕の中から逃げ出そうとすると、刹貴は咎めるような声を出した。強まる束縛。そうされるともう目を瞑っておくことしかできない。

 圧倒的な腕力と体格の差、そもそものところおおきな男と十にも満たない幼仔なのだから、あらがえなくて当然なのだ。仔どもの手首を掴んでもまだ多分にゆとりある指の長さや、そうしていても仔どもにあざを作らせないよう手加減できる余裕、突っぱねようと押した胸の厚さ、何を考えているかも分からぬ面なんか、そういうもう、刹貴を構成するすべてが仔どもに恐怖すべしと訴えかけてくる。

 この男はバケモノなのだ、そう思わずにはいられない。実際のところこの男が人であろうが人外であろうが、刹貴が刹貴であるだけで仔どもは怖気づくことしかできなかったろう。性別が男であるだけでまずもって恐ろしくてたまらないのに。

『状況を見極めろ。今のお前の身体でいったい何ができる』

 じゃあ放っておいてっ。

 悲鳴のような言葉が漏れる。触れられるといつも、仔どもは叫ぶ。叫んでばかりだ。

 刹貴が息を漏らした。

 ちからが緩む。驚いて仔どもは逆に息を呑んだ。ゆっくりと地面に降ろされ座り込んだ仔どもは、戸惑って刹貴を見上げた。

 今まで刹貴はやると決めたらそれをかならず実行したのに。仔どもの意思も何も関係なく。

 離れていった温度。


 いやだ。


 突き放されたときの眼差しにその冷たさはよく似ていて、仔どもは思わず手を伸ばした。


 おいてかないで。


 けれどそうした途端、今でもなお耳に残る鮮明な声が弾けて、仔どもは中途半端なまま手を留める。


 けがらわしい、仔。


 その声が仔どもを正気に引き戻す。
 だから通り抜けていった隙間風など、仔どもはなかった振りをした。

 そうか、わずかに仔どもは口端を上げた。無理やりに。そうか、ようやくか。

 一向に懐かない仔どもを刹貴は、ようやく見限ったらしい。

 冷たい土間に手をついて立ち上がりかけたとき、刹貴は声を出した。

『そんなに、嫌か』

 その声がこれから仔どもを突き放すにしては、やさしい。含んだものが重い。何よりも言葉が、おかしい。
 それは、何気ない言い口ではあったけれど。

 仔どもはそろりと顔を上げ、その意図を図ろうとした。

『そこまで抵抗されると、おれとて傷つく』

     突然。

 また冷たくて暗いところに閉じ込められた、気がした。凝った心ノ臓が、気道を塞ぐ。息をすることを禁じられている。

「  あ、」

 仔どもは自分のことでいっぱいで、彼もまたこころあると言うことを忘れていたのだ。「ごめ なさっ」

 刹貴は、傷つけられたのか。自分のせいで。
 彼の着ている着物のたもとを掴む。必死で手繰り寄せ、言い募った。

「ちが、違う。そんな、つもりじゃ、」

 傷つけたかった、わけじゃない。刹貴に触れられるのはどうしようもなく怖かったけれど、それでも自分を守るために相手を痛めつけようなんて、そんなことを考えたわけではなかった。

「  いたむの」

 訊ねた声は泣き声を含んでかすれていた。それにさつは首を振る。

『いいや、もう』

 ほっと息をついた仔どもの様子に、刹貴は薄くその唇に笑みを刷いたようだった。

『お前は、優しい仔だ』

 くしゃりと髪をかき混ぜられる。反射的に身を縮めた仔どもに、刹貴の声が上から降ってくる。

『ちからを抜いてみろ。おれはお前を傷つけないと、そう言ったろう。信じるかどうかは好きにしろ。だが信じる振りくらい、したって構わないだろう』

 もう一度後ろから抱えられる。今度は仔どもも逆らわなかった。触れる存在を感じるたびに、震えそうになる身体をなんとか抑える。彼を傷つけたくはなかった。この優しいバケモノを。

 その痛みがどれほどのものか知っている。

 それを誰かに背負わせることがどれだけむごいのか、       っている。

 刹貴は仔どものことを優しいと称したけれど、彼のほうがもっともっと優しいと、仔どもはそう思った。

 信じる振り。
 信じてほしいと、    思っているのだろうか。
 自分に信じてほしいと。どうせ出ていく仔どもなのに。

 労わる彼の指先がそれ以外の意図を持っていないことが、ひどく不思議でたまらない。どうしてこんなにも仔どもの世話をしてくれるのだ。

「刹貴」
『何だ』

 警鐘を聞く。鳴り響く警告を。その音を聞いたことで、ああ、もうだめだったのだと気づいた。この音は、刹貴は危険だと注意を促す。それは刹貴を注目し続ける材料で。より彼の優しさに触れる機会にしかならない。

 ほんの、誰も気づかない優しさですら、仔どもを陥落させる甘い毒薬だ。とっくに足元なんて崩れていたのだ。けれど、気づいたところでこの安穏あんのんに身を任せられるはずもない。

 傷が治れば、出て行けるのだ。
 それまでどうか。

 浅ましい自分が耐えてくれるといい。
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