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明日なんてのぞまない
おやすみなさい、もう、夢は見ませんよう 弐
しおりを挟む相反する感情があって、仔どもはひとしきりの間を考える作業に当てた。仔どものいつも以上に回転の遅い頭では、すぐにはどうしようか思いつかなかったので。
「 持って、行こうねぇ」
こんなところに置いていたらきっと誰かに踏まれて割れてしまう。それだけは避けたかった。この町は人以上に大きな体躯のものがたくさんいるようだから。
懐に仕舞いこんで、よし、と吐息にしかならない気合を入れる。その息は、熱を多分に含んでいた。
改めて地面に腕をついたそのときに初めて、仔どもは自分が腕にも傷を負っていたことを知った。右の二の腕が着物ごと、ざっくりと裂けている。血で萌黄色だった着物は赤黒く染まっていた。
ぶつかったバケモノの中に、千穿のように鋭い爪を持った奴でもいたのかも知れない。少なくとも、千穿から受けた傷ではないことだけは分かっていた。
怪我だけはいつでも仔どもと仲良しだ、幼仔はかろうじて笑みとわかる程度に口端を上げた。そうした簡単な動作さえ辛いのが分かって、呆れてしまう。
ともすればそのままへったりとまた地面に伏せてしまいそうだったので、できるだけ急いで身体を引き摺る。
けれどすぐに限界は訪れた。
声を上げるひますら与えられず、意に反して仔どもはあっさりと地面に倒れ伏す。たったほんの数回腕を動かしただけの距離だった。荒い息を零しながら、仔どもはちらと思いついた。
これはこのまま死んでいけるのではないかと。
『死ぬのか、人間』
同じことを、刹貴が問うてきた。ほんのすこし、聞きようによっては物憂げな声だった。
分からない、そう言う代わりに首を傾げた。傾げたつもりだったけれど、上手くいったかまでは確かめることはできない。
「食べれるんなら、それでもいいよ」
それで誰かを満たすことができるなら。誰かの役に立つのなら、それはとても、きっとすてきなことだろうと、半ば本気で思案していた。
でも、多分この声は刹貴には届かないだろう。自分の耳にすら届かないほどだから。ちゃんと口には出したはずだけれど、その声を、自分では聞き取ることができなかった。
しかし刹貴は応えを返す。
『結構だ。己は人間を喰らうことを良しとしない』
「ふうん」
地面にもう全部の体重を預けてしまいながら、仔どもは相槌をうった。そうすることで少し楽になった。
そういえば千穿に喰われかけたときに助けてくれたのは刹貴だったなと今更なことを思い出した。仔どもにとってはありがた迷惑以外のなにものでもない行為だけれど。
それでも、助けてくれたんだな。
屋敷のなか、振るわれる暴力から今まで一度も助けられたことなどなかったから、それはとても仔どもにとって嬉しいことだった。
くすくすと静かに、喘鳴交じりの笑い声をあげる。
傷を受けた胸の奥が、ほんのりと温かいような気さえした。
それでも生きようとは思わない。また浅はかな期待をして、刹貴に縋ろうとは思わない。
信じれば裏切られると、今度こそちゃんと理解したから。たとえそれが、自分の早とちりの結果だとしても。仔どもが信じたひとは皆、はじめから仔どもと同じこころで仔どもに接したわけではない。
ただ最期の須萸の間に与えられた、この時間で十分だった。この程度の時間が、信じきれる限界なのだろう。きっと。
心地よい眠気の波が、緩慢に押し寄せる。抗わずに、仔どもは瞼を閉じた。心音は限りなく穏やかだった。
「もう、寝るね」
自分のなかでは、これがさよならの言葉だった。自分にはやはり届かない声だったけれど、きっと刹貴には届いてくれたんだろう。そう、それだけを、最期に誰か信じる気持ちであろうと仔どもは思った。
最期に持っていく気持ちが、哀しみではないことが幸せだった。蔵の中では、幸せなんて一欠片も持っていなかったから。もしかしたら、それを与えてもらうためだけに仔どもはこの町へ来たのかもしれない。
憐《あわ》れな仔どもの最期に与えられた、これが仏さまの慈悲なのだ。
『死ぬのか、人間』
また、同じことを刹貴は問うてきた。今度は自信をもってうなずけた。首は、動かなかったものの。淋しいとはもう思わない、それだけで十分、満たされていた。
『そうか』
思案深げな声だった。そして、『己の前で、死なれてはたまらんな』
混濁する意識のなかで、夜風に吹かれて歌う幾重もの風鈴の音を聞いた。
それから自分の白い、髪に触れるひそかな温度を。
それはきっと錯覚だったろう。
でも抱くのはもしもこれがひとの手なら、それは温かいものだったのだなというそんな、
他愛なくて哀しい感想。
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