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The beauteous man in black and “Farewell”
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しおりを挟むそれからモモセは言われていた通り、ラシャードの待つ塔のてっぺんへと登っていった。
そこにあるのは螺旋状の階段の先にある、一部屋切りの居室だ。彼の私室であり、研究室としても使われている場所だった。
重たげな仕事机だけでなく、応接用のテーブルやソファさえ彼が持ち帰った書類であふれていて、彼の研究室がそのまま移設されたようなありさまだった。
格子の窓から漏れこむ光は夜の色彩を少しだけ滲ませている。
机は窓の前に設えられて、そこに座るラシャードの、クーフィーヤを取って曝け出されたうるわしき黒髪は、その輪郭を少しずつ夜に溶け込ませていくようだった。
「座る場所なら、適当にその辺のものをどけてくれ」
「いえ、……ここで」
モモセは部屋に一歩入ったあとは扉を背にしたまま動かず、首を振る。不用意に動き回り、何かに触れるつもりはなかった。それはそのまま穢れとなる。手袋は常に着用しているため素手で触れる心配はないが、安心はできない。
「そうか、……何か飲むかね。珈琲なら馳走してやる」「いえ! 本当に、お構いなく」
自分が先ほどまで使っていたのであろう空のカップを振ったラシャードに、モモセは慌てて言い募る。彼はそのモモセの取り乱した様子をいぶかしむように眺め、やがて理由を悟ってその表情に不快をうっすらと乗せた。
カップの取っ手を持ったまま、ラシャードは机の上で長い指を組み、その上に顎を置いた。
「お前、カップのことを想像しただろう。自分が触ることになるもののことを」
まさしくその通りであったので、モモセは同意をの代わりにきゅっとくちびるを引き結ぶ。ラシャードはさらに厳しく言葉を重ねた。
「その、卑屈な態度を今すぐ改めろ。いいか、この学園に所属する以上お前はもはや不可触民ではない」
「そんなこと、言われても」
「弱音は聞かんぞ。お前は選んだんだ、ここで学ぶことを。ならばそれだけは悟られてはならない。――手袋を外せ」
「せんせい、」
モモセはよわよわしくつぶやいた。ラシャードはそれを一顧だにしなかった。
「お前がおどおどとするたびに、疑いの目は強くなる。自分の身は自分で守らねばならない。それ以外に、誰が守ってくれる? お前の皇子様か?」
「いいえ!」
喉から強く押し出されたのは、はっきりとした否定である。
それだけは避けなければならない、それだけは。
髪を乱して首を振ったモモセに、ラシャードは不機嫌を残した顔のまま頷いた。
「そうだ。それでいい。わざわざ火種を作るような真似をしてくれるなよ」
「……ご迷惑はおかけしません」
「どうだろうな。いるだけで十分燻っているんだ。だが、引き受けたからには面倒はきっちりみるとも。――それで? お前は私にその決意を見せてくれるんだろうな」
言外に望まれていることを知り、モモセは腹にじっとりとした重しを抱えながら、手袋を引っ張った。両手とも外し、決して視線を合わさずラシャードを窺う。
「まあ、及第点の言うべきだろうな」
いささか含んだ物言いをしつつ、彼は質問を追加する。
「珈琲は」
「……いただきます」
「よろしい」
彼もまた手袋を外して物で埋め尽くされて地を見せない仕事机の上に放り投げた。
「こちらへ、モモセ。付いて来い」
おどおどと近寄っていくと、ぱっと手首を掴まれる。逃げ出す余裕もなく引きずられた、アーチをくぐった先にある隣室には、ストーブが据えられていた。火はほのかに赤く燃え続けている。
夜になれば昼間の炙られるような暑さとはうってかわって冷え込む砂漠の街では、そのあたたかさがなによりいとおしくなるのだった。
ラシャードが壁に据え付けられた戸棚を開けると、いくつかの食器やカトラリーのほかに、香ばしい香りのする豆が小さな麻袋に入れられて置いてある。
彼はモモセに自分で使うカップを選ばせ、ミルでの豆の挽き方を教えた。
ストーブに乗せられたケトルはやがてやわらかな蒸気を上げはじめる。
モモセがはじめて淹れた珈琲を、モモセが片付けたソファに座ってふたりは飲んだ。
ラシャードは至るところを頓着なくモモセに触らせたし、いま使っているカップなども、好きに使っていいと言ったのだった。
「まあ、ここに来ることはそうないだろうが。しばらくのあいだ、お前は私と個人授業だからな。当然、雑用も頼む。小遣い稼ぎにもなるし、悪くないだろう。珈琲くらい出せるようになってもらわなければ困る。ヒタキに教われ。あいつは旨い珈琲を淹れる」
「……先生は」
モモセはちびりちびりと啜っていた珈琲を膝の上に置き、揺れる黒い水面を見つめながら訊ねた。
「おれをおぞましいとは思わないんですか。先生はおれが何者なのか気づいているのに」
ラシャードはすぐには返答しなかった。それがいかに繊細な問題であるか、質問をしたモモセももちろんわかっている。それでも訊ねずにはおれなかった。
沈黙のあとすこしやわらいだコーヒーの湯気の先で、ラシャードは薄いくちびるを開く。
「……我々が不可触民を拒絶するのは、本能的なものだ。ベゼルの素地があればある者ほど、それは顕著になる。……流れているベゼルが歪だからだ。それを、我々はどうしたって嫌悪せずにはおれない。けれどお前は……幸いにもこれ以上なくうまく、ふたつのベゼルがかみ合っている。歪だが……その齟齬は悪くないと……お前ならばゆるしてもいいと、思ってしまう」
ラシャードは珈琲を一口すする。
迷ったように、先を続けた。
「混ざった血がよすぎたせいか。もしくはお前のことを知っていたせいか。あいつらがお前を探していたことは親しい何人かには知られたことだった。……残念ながら、お前だから許せている、というところがある。その境遇を哀れにこそ思うが、実際不可触民に対する嫌悪はどうしようもない。お前の内面を否定するつもりはないし、お前たちの性根を否定するつもりもない。話せばいいやつもいるんだろう。それとはまったく別の場所で……不可触民たちのベゼルの波紋は、俺たちには毒だ。お前でなければ、近寄ろうとも思えない。お前はただただ、奇跡のように運がよかった」
それを幸運と呼ぶべきか、モモセには判らなかった。
不幸と呼んでも差し支えないような気もした。
「あの人も……それでおれをかまったんでしょうか。普通と変わらない不可触民だったら、あの人はおれを見限ることができた?」
「かもしれん。だが、それでも傍に止めおこうとした可能性は否定できん。彼らは本当に、心底お前に執着している。歪さなど、枷になるかどうか。――だがそんなことはどうでもいいのだ」
テーブルを越えて、投げ寄越されたものは、ちょうどモモセのてのひらに収まるほどの小瓶だった。ソファのマットの上で軽く跳ね、落ち着いたそれを、拾えとラシャードは目で指示する。
取り上げたそれの中にはきらきらと小指の先ほどの粒がぎっしりと詰まっていた。猩猩緋。それはよくよく見聞すれば、一粒ひとつぶに極小のベゼルの円環が浮いているのだった。
「飲め。ウルドの臭いを消せ」
「何ですか……これ」
「薬だよ。目くらましだ。これで肚から別の臭いをつける。私の知人のものだ。私の知る限りでは最高級の雄のうちの一匹だ。申し分ない強さだ。文句はないだろう」
「いや、それって……」
「お前が不可触民とばれては困る。だからと言って、あの男の臭いをつけられては、奴の特別と吹聴して回るようなものだ。この男のものなら、」
ラシャードは小瓶を一瞥して先を続けた。
「身分は高いが愛妾も多い。誰か気づかれたところで騒ぎにもなるまいよ。お前の正体など気にもとめるものか」
結局だれかの存在を盾にすることには変わりないじゃないか、とモモセは釈然としない気分になる。。ただそうしたことは世間では、とりわけこの学園の中では珍しくないのだ。特別な関係を築くことで絆を深める。男だけの社会では、珍しくもない話だ。モモセは不可触民であったから、その文化とは完全に無縁であっただけで。もしただの獣であったなら、可能性はいくらでもあったのだ。
後見人と、上級生と、視察に訪れる軍人と……関係を結んでその先の足掛かりにするのは当たり前の行為だった。
問題は……その相手がただの軍人でも貴族でもなく、王族であったこと、ウルドであったこと。
「飲め」
ラシャードはそっけなく、短く言った。
彼の中で、これはもう決定事項であるらしかった。
まっすぐモモセを見つめて彼は言った。
「あの愚かな男のことは忘れろ。……お前に関わるはずもなかった身分の人間だ。お前を監督する立場としても、今後一切関わらせる気はない」
「……はい」
神の血統でもない、王族に繋がりもない、ただの隷属階級の獣種、夜狐の仔ども。
それはモモセの安心だ。
そしてそれをモモセの獣は妥当だと感じている。
小瓶のコルクは簡単に抜ける。てのひらに出した一粒は、ひどく小さいのに多大な熱を孕んでいるようだ。
意を決して、目を瞑り、その熱を舌に受ける。小さいくせに主張する熱は形を失わずそこにある。
「んっ、ン、」
喉を反らし、飲み込みにくいそれを無理やりに嚥下する。
モモセはつい数刻前、そこでウルドの、唾液を許したばかりだった。
「は、ぁ――」
腹に落ちてから、ようやくじわじわとそれは溶けだす。知らない男のおおらかな熱が、ゆっくりと躰を内側から撫ぜていく。ぶるりとモモセは躰を震わせた。先にモモセの躯を支配していた男の気配が、気炎を上げるように主張を始める。
「ぅっ――」
モモセは背を丸め、縋るように胸元の握りしめた。金属の硬い感触を指先に感じ、男のことを思い出す。ウルドが呪いを掛けたシルバー。見つかることのないように。
最初の呪いは破られたから、いくら縋ってもきっともうこれにも効果がない。モモセを助けてはくれない。助けを望んではいけない。モモセ自身が、彼を拒絶したのだ。
「三日もすれば、ウルドの臭いも消えるだろう。それまで少し辛抱しろ」
安心を覚えていいはずなのに、どうしてだか涙が零れた。
あるいはそれが安堵だったのか。
熾火のよう口づけをした記憶が、閉じたまなうらにちらついた。
さようなら、とつぶやいた。
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