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The adult is sly, and pretends to be gentle

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 何を言っても命取りになる気しかせず、モモセは呼吸を潰しながら男を見つめている。目を逸らせない。 その絡まる視線を不意に銀色の軌跡が横切った。

 繊細で控えめな、うつくしい金属の擦れあう音が立つ。焦点が合わなかったせいで、最初モモセはそれが何か判別かつかなかった。

「お前のものだろう。着ていたものの中に、混じっていたから」

 抑揚に欠けた声音が言いさした。どんな感情から導き出された音なのだろう、これは。

 突きつけられたのは、銀の首飾りだった。とりわけ意匠が凝らされたものでもなく、細い鎖と、平らな半円の不銀細工がついているだけのいたって単純なものだ。くるくると回りながら光を反射して輝く美しいそれを、モモセは一拍、二拍と眺め、ようやくそれが自身の持ち物だと気付く。積年の酸化によってすっかり黒くすすけてしまっていたのを、わざわざ磨きあげたのだ。

「お前のものだろう?」

 ウルドはほぼ確信しか込めずに、言う。モモセはぎこちなく首を縦に振った。どこで爆発するかわからないが、返事をしないのも恐ろしい。彼は何を目的としてこの質問をしているのか、帰着点が想像できない。

 モモセのものだった、それは確かだ。しかしウルドに下った以上、真実モモセのものなどひとつもない。だから行方を聞こうとも思わなかった。棄てられても当然と諦めていた。

 それが今、いまさらのように目の前に提げられている。
 そう、いまさらに過ぎないのに、目にしてしまうといかにも惜しい。

「返してほしいか?」

 試すように、男は訊いた。モモセはそれを分かっていながら、おもねるような口調になるのを止められなかった。「か、返して、くれるんですか……?」

「ああ」

 ウルドは目元をかすかに綻ばせた。「だがひとつ訊いておきたい」

 その和らいだ気配にほっとして、モモセは銀に指先を触れさせようとする。この優し気な声音が不機嫌の底のさらに下を浚うものであったことに、モモセは気づけなかった。本能は察知していたのに、男のすべてに経過して疲弊した矮小な獣は男の擬態を見逃した。

 仔どもの指先を避け、ウルドは首飾りを持ちあげてしまう。眼前で、誘うようにやわらかく耳障りのよい音を立てながら鎖は揺れる。モモセは気もそぞろに返答した。

「何ですか……?」

「……行方を聞かなかった割に、ずいぶん執心のようだが。これはいったいどこで手に入れた? 見たところ、到底お前が手に入れられる品には見えん」

 モモセははちりと瞬き、ウルドの案外とにこやかな外面とは裏腹に、吐き出される言葉自体はそうではなことを感じ取った。喉を干上がらせながら、モモセはこれ以上男の機嫌を損ねまいと口を開く。

「もらった、んです」「貰った」

 もったりとした重苦しい口調でウルドはモモセの口上を繰り返す。「あ、いえ、貰ったっていうか、渡されたっていうか……」

 焦って言葉を重ねるが、ウルドはそれを一笑した。「それはどちらも同じ意味だな」

 そうかもしれないが、違う。「誰にもらった? それは対になるように作られている。側面の窪みはもうう一対と合わせて円形になるように彫られたものだ。ご丁寧に名前まで刻んである」

 その言葉にようやくモモセはウルドの苛立ちの一端を掴んだわけで、すっと脳の一部が冷静になるのが分かった。それはこの貴い身の上の男の現状を不可触民らしからぬ傲慢さでつい憐れんでしまうほどだった。

 たしかに自分の買った奴隷が、すでに誰かの手垢がついていたなら憤りもするだろう。しかもこんなに高価な首輪まで贈られて。しかしそんな価値も、そもそも心配すら無用な最下層の生き物だというのに、つくづく可哀想なことだった。そんな物好きはいないと言ったはずなのに、まだしつこく気にしていたらしい。

 モモセはつきたくなった溜息を押し込めて、呟いた。

「俺を、育ててくれた、女の人がいて、」「女?」

 なぜそこに疑問を感ずるのだろう、とモモセは思った。「男だろう、シグマと言う」「誰ですか、それ」

 ついにモモセは半眼になった。もしや自分はあらぬことで責められていたのではあるまいか。「ハミダは女ですよ。シグマなんて知り合いは男にも女にもいません」

「ではここに書かれている名前をなんと説明する?」

 ウルドは組み伏せていたモモセの上から退き、引き起こす。手渡された半円の銀には、確かに何かが描かれているが、文字の読めないモモセにはただの綺麗な模様と同じだ。ついでに言えば、十余年の間についた傷との区別すらつかない。

「シグマ、と書かれているんですか? ハミダはそんなこと、一言も言わなかった」

 祝福を意味する言葉でもない、当たり障りない男性名である。

「何か、聞いていないのか」

 ウルドの声に、もう怒りは含まれていなかった。モモセは首を振る。

「おれを探していたのなら、あなたの方がおれには詳しいんじゃないですか? もしかして、……父さんとか。……ああでも、あなたはおれの名前も知らなかったんだった……」

「お前の名は知らなかったが父親が誰かは知っている」

 モモセは瞠目してウルドを見た。あからさまな反応をする二尾と耳を見て、ウルドは苦笑した。

「知っているが、教えない。知らない方がいい。知ってもいいことなどないからな」

 まあ、それもそうである。不可触民の息子など、歓迎されるはずもないのだ。そうでなければモモセはスラムに捨てられることなどなかっただろうから。

 そんな捨て子の赤子だったモモセを、拾って一時期傍に置いてくれた女がいた。それがハミダだ。彼女はこの首飾りを、モモセの唯一の持ち物だったといった。

「彼女は、これはおれのものだって、それで」「それで?」ウルドは続きを促した。

「……それで、お守りだから、絶対に手放すなって言ったんです。それだけ」
「その割には、どこへやったのか聞きもしなかったな」

 それは、とモモセは口ごもる。無意識に尻尾が絨毯の上を振れている。告げてもいいものかどうか、モモセは迷った。確実に、この男は不機嫌になるだろう。存外に面倒くさい男なのだ、とモモセは悟る。

 しかしそれももう今更な気がして、モモセは思い切って口を開いた。「……もう、効果がないと思ったから」

 彼女は幼いモモセの首に首飾りを掛けながら、繰り返し、繰り返し、言ったのだ。その言葉こそが、呪いのように。だからどんなに生活に困っても、これを手放すことだけはしなかった。


 ――――これはお前を守るもの。絶対に、なくしてはいけないよ。怖い人たちに見つかってしまうからね。


 それ以外には何も、彼女は何もモモセに告げず、与えなかった。一片の情すらも。徹底して不可触民の仔どもとして扱った。そしてある日、忽然とモモセの前から姿を消したのだ。

「なぜ?」
「……あなたに見つかった」


 ――――怖い人たちに見つからないように。


 モモセを見つけたのはたった一人の貴族の男だったけれど、ハミダはおそらくモモセは誰にも見つかるべきではないと考えていた。

「……高度の目暗ましのベゼルが掛けられていたが、十年以上かかったのはそれのせいか」

 疲れたように、ウルドは目頭を押さえて息をついた。

「それは、知らないですけど……」

 一応は効果があったのだろうか。

 ウルドがハミダの言う『怖い人』であるかどうかは永遠にわからないかもしれないが、少なくともモモセにとって、ウルドはひどく恐ろしい存在だ。

 ウルドは庇を作った手の下から、覗き込むように対面に座すモモセを見た。「……見つからない方が、よかったか」

 正直に振る舞うならば、頷くところだった。そう思っていると分かっているくせに、訊くのは卑怯だとモモセは思う。

「……あなたは、おれが知るには大きすぎる」
「手放さんぞ」

 ――ほら、卑怯だ。モモセは憫笑した。

「……さっきは、悪かったな」

 手が伸びてくる。その意図をもう知っているから逃げを打とうと反射的に身体を浮かすが、まっすぐに向けられた眼差しが絨毯に脚を縫い付けて、ほんの少ししか動けない。ウルドの威風に充てられて簡単に屈服してしまう。
 硬い掌が頬に添えられ、指先が先ほど散々に甚振った唇を撫ぜる。頬がこわばるのくらいは、許してほしい。こんな風に触れられていい人ではないのだ。

「……上手にお前を可愛がりたい、愛したい、幸せにしたい。そのために探していたのに……なのにお前を見ていると、壊したくてたまらない気持ちになる。俺たちは皆こうだ」

 懺悔のような響きだった。モモセはその長く淡いまつげを伏せた。

「……あなたのものだから、好きにしたらいいですけど……。聞きたいことがあるなら、命じてください。答えよと言われれば、仰る通りにしますから。さっきのは、とても怖かったです」

「……ああ、善処する」

 善処、善処か、とモモセは内心で呟いた。

 嘘でもそうする、と言えないところが、多分この飼い主の愛おしいところなのだろう、と思う。それほどまでに執着されている。

 盲目で、一途で、愚かしくも不可触民などに入れ込んで、地位も金も名誉もあるはずの麗しい男が身を持ち崩そうとしている。そしてその愚かしいまでの様々な誤りに男自身が気づくまで止まらないのだ。


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