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井ノ上

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不沈艦は紫煙に祝う

各務瀬隆子 3

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ギプスが取れた翌日からBar『mix』に出勤した。
夜の十時を回り、客足が途切れた。
キッチン担当の志々堂が表に出てきて、店が一週間休みになると知らされた。内装の工事を入れるらしい。
「ちょうどいいや」
「なにか用事でもあるのか?」
徹平が棚のボトルの整理をしながら言うと、志々堂が尋ねてきた。
「このねーちゃんにいいことを教えてもらってね」
「は~い、おねえさんがイ・イ・コ・ト教えちゃいました~っ」
カウンターで芋焼酎を手酌でやっていた珠木が、勢いよく右手をあげる。緩いタンクトップの横から、乳がこぼれそうになる。
「隆子を探しに、アメリカに行ってくる。ちょうど知り合いで、アメリカの大学に飛び級するってやつがいるから、一緒に連れてってもらうかな」
「各務瀬隆子か。死んだという噂が流れているのは知っているが。なぜアメリカなんだ」
「おやぁ、シッシーも聞きたいかい。いいよぉ、珠木さんが旅先で仕入れた話を聞かせてあげよう」
「お前は先に勘定を用意しておけ」
カウンターに身を乗り出す珠木の頭を、志々堂は見向きもせず押し込める。
志々堂が、盲目の不自由さを感じさせたことはなかった。
キッチン仕事は物の位置を隅々まで記憶しているというが、人の気配にも敏感で、来店前に客に気づいたりするのだ。耳がいいのかと思っていたが、オーラをうまいこと遣っているのかもしれない。
志々堂には大吉と共にオーラの基礎的な鍛錬をつけてもらった。言葉足らずなところもあったが、成果はあった。
それでも、横でくだを巻いている珠木には手もなくひねられたのだが。
珠木の正体が酒吞童子という大妖怪だと聞いても、徹平からするとただの酒にだらしないスケベなねーちゃんにしか見えない。
徹平は先ほど珠木から聞いた話を、志々堂に話した。
萬丈穣ばんじょうみのるが、アメリカにね。やつと正面切って闘ったのだとすると、不沈艦といえど死亡説もでたらめとは言い切れないな」
「死んじゃいないさ。簡単にくたばるタマじゃねえ」
「だといいがな。俺は断定的なことが言えるほど、あの女を知らんのでな」
志々堂は冷淡に言い、キッチンに戻っていった。
「シッシーは相変わらずひねくれてるなあ。徹平くんに関わってほしくないって、素直に言えばいいのに」
腕を枕代わりにしてカウンターに頭を乗せた珠木が言う。今にも寝そうな目をしている。
志々堂は最近賄い飯を振舞ってくれるようになっていた。仕事ぶりを認められたのだと、徹平は考えていた。
「萬丈ってのは、そんなにやばいやつなのか?」
「武神と呼ばれているよ。若い頃でいえば、藤刀ふじわきの軍を単独で壊滅させた話が有名だね」
「藤刀ってのは、確か桑乃と一緒に御三家とか呼ばれてる家だよな」
「そ。財の桑乃にまつりごと成樟なるくす、そんでもって軍の藤刀。裏で日本を牛耳っている連中だ」
「軍といっても、自衛隊とは違うんだろうな」
「だね。私兵とも違う。国の虎の子として鍛え上げられた、精兵揃いの二個師団規模の軍だったって話よん」
「それを、一人で壊滅させた男、か」
想像できる範疇を越えていた。成樟の私兵中隊となら闘った経験はあるが、その何倍になるのか、計算するのもばからしい。兵の質も、比べ物にならないのだろう。
珠木の話では、萬丈はアメリカで、隆子との戦闘で負った傷を癒しているとのことだった。
「アメリカは、広いよな」
「詳細な場所まではわからないんだ。よしんば会えても、隆子さんのことをすんなり話してくれるかどうか」
「それでも」
隆子の不在が、施設に淀んだ空気をもたらしていた。
子どもの間で揉め事が増えたり、体調を崩したりする子がでていた。隆子の外での仕事も認知しているベティはともかく、他の一般の施設職員も、態度に出さないまでも不安を抱いているに違いなかった。
「弟、妹らが隆子の帰りを待ってるんでな。連れて帰ってやるのは、兄貴の務めだ」
「ふふ、大吉くんの友達だね~」
「なんだよそりゃ」
珠木は日向の猫のように目を細め、含み笑いを洩らす。
徹平は棚の奥で眠っていたボトルの埃を拭い、棚に戻した。

        ◆


春香と陽衣菜の主催で瑞希の壮行会が開かれた。
桑乃邸の大広間がバルーンや色紙に飾られている。重厚な樫の長机の上に、豪勢な料理や数種類の飲み物が並んでいる。
徹平は膝を寄せ、瑞希にアメリカ行きに随行したい旨を持ちかけた。
春香や陽衣菜、フェンガーリンがいる席を中心に話が弾んでいた。ほとんど夏祭りのときと同じ面子だが、尚継という瑞希の同級生や瑞希の兄、それに珀も参加していた。
瑞希は徹平の申し出に最初こそ嫌そうな顔をしたが、事情を話すとしぶしぶ承諾してくれた。
「航空券が今からだと間に合わねえかな?」
「自家用機で行くに決まってるでしょ。海外に行くのにいちいち座席の予約なんてしてられないわよ」
「まじかよ。忘れそうになるけど、すげえ金持ちのお嬢様なんだよな」
「それより、アメリカでどうやってその萬丈とかいう男を探すつもり?」
「ま、行けばなんとかなるだろ」
「あんた、まさか歩き回って探すつもりじゃないでしょうね」
「なんだよ、駄目か?」
瑞希はこめかみを押さえて首を振った。
「珀、あんたからもこの馬鹿にひとこと言ってやりなさいよ」
斜向かいに座っている珀が飯を食う手を止める。
「萬丈からなにか聞きだすのは苦労するぜ。あいつは感心のない相手には一秒だって時間を割こうとしないからな」
二ヶ月前まで萬丈が団長を務める傭兵団に所属していた珀が、他人事のように言う。実際珀にしてみれば他人事なので、そこは仕方なかった。
珀とは桑乃家の騒動では敵対したが、瑞希がそのことを気にする様子はない。
拍はすでに傭兵稼業からは身を引き、新しい名を得て、今は瓦湯という風呂屋で住み込みで働いているのだという。
徹平も何度か行ったことのある風呂屋で、そこの倅の秋久は見知った相手でもある。退学になる前は、廊下で会えば言葉を交わす程度の仲だった。
「ま、なんとかするさ」
徹平はフライドチキンを齧り、骨を空き皿に吹きだした。
「こいつ、かなりの馬鹿か?」
「ええ、残念なことにね」
珀が言うのに頷きながら、瑞希は席を立った。広間の奥に手作りされたステージで、陽衣菜が呼んでいる。
なにかレクリエーションの準備があるのか、春香がいそいそと隣の部屋から小道具を運び入れている。
アメリカ行きのことは一旦忘れ、徹平はこの壮行会を楽しむことにした。
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