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老天狗は忘却に奏す
畿一 4
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尚継が食事を摂り、眠りにつくのを確認すると、靜も少し休むと別室へ下がっていった。
代々木のレンタルオフィスを、日限の名義で借りた。
キッチンや寝室、リビングなどがあり、オフィスというよりモデルルームのような内装だった。
大吉と束早は、このオフィスの屋上から、尚継らの救出へ向かった。そして大吉を除く三名は、無事異界から帰還している。
「靜さん、平気そうに振舞ってましたけど、すごい疲れてたみたい」
リビングのソファに腰かける春香が言う。
日限はダイニングテーブルでパソコンに向かっていた。
「当然です。ほぼ一昼夜、現世と異界を結ぶ道を保持し続けた。その道だって、本来なら熟練の術士数人がかりでつくるものだ。天才です、彼女は」
タイピングする手を止めず、答えた。
頭の中で完成している文面を、実際の書面に書き起こしていく。
「春香も少し休んだ方がいいわ」
「心配してくれてありがとう、束早。でも、私は大丈夫」
「でも。春香だって疲れているでしょう」
「こっちでは丸一日経ってたみたいだけど、むこうにいたのは二、三時間ぐらいだったし。だから、まだ平気だよ」
春香が大吉を待っているのは、親交のない日限でもわかった。
その春香から、束早は離れようとしない。日限には、明確な警戒心を示していた。
告発文が、完成した。いくつかの証拠になるデータとともに、メールに添付し、送信した。
幹部の畝原の息がかかった者に握りつぶされないため、文章は幽奏会上層部と成樟の本家にも送った。
妖や術士のことは公にはされていないが、幽奏会の実態と活動は国によって擁護されている側面もある。内部告発を受ければ、政界を裏から牛耳る成樟を通じて、行政の手が入る。さしもの畝原も、成樟にまでは食い込んでいないはずだ。
日限の告発は、己が犯した罪と、組織の自浄作用としての役割を負う監査部が機能不全を起こしている実情にも触れた。その上で、畝原の陰謀を白日のもとに晒す内容となっている。
「どこか出かけるんですか?」
「少し散歩してきます」
日限が腕時計と鈴のかたちをしたカフスボタンをつけ直していると、春香が訊いてきた。死んだ同僚の血で汚れたシャツは、昨日のうちに着替えている。
「私もついていっていいですか?」
「見張らなくても、もう君たちに危害を加えるつもりはありませんよ」
「そんな気ないです。私も、すこし歩きたい気分だから」
「好きにしたらいい」
「はい。ちょっと行ってくるね。束早は、尚継君たちの側にいて」
一人で出かけることに、束早は反対した。春香がなだめる。そんな二人のやり取りを背後に聞きながら、日限はレンタルオフィスを出た。
明治通りを背にし、代々木公園がある方角へ足を向ける。
ケヤキの並木道を歩いていると、春香が追いついてきた。
陽はまだ高くない。樹々の枝葉が、風にそよぎ微かな音を立てていた。
「なにを訊きたいのですか」
黙って歩く春香に、日限の方から切り出した。
「お見通しですね」
「私に答えられることなら、お答えします」
「知っても、私にはどうしようもないんですけど」
そう前置いて、春香は尋ねてきた。
「天逆毎っていう、あの異界に封印されていた妖のこと、聞きたくて。すごい強いってこと以外は、なにも知らないんです」
天逆毎の再封印に臨む畿一を援けるため、大吉は異界へ残ったという。畿一は、裏切ったのか。
そもそも勇名を馳せる畿一が、妖の一派に加担していたことから違和感はあった。はじめから一派を瓦解させるのが目的だったと言われた方が、得心はいく。
大吉ひとりが残って、できることがあるとは思えなかった。
「天逆毎は、神代に生まれた妖です。スサノオという名は、ご存知ですか」
「えっと、八岐大蛇を倒した、英雄みたいな人、ですよね」
「まぁ、そうです。『古事記』などでは、イザナギとイザナミという二人の神の間に生まれた男神とも言われています。途方もない昔のことで、事実は知りようがありません。ただ、のちにスサノオと呼ばれる人物は実在した。その人物から、天逆毎は生まれたとされています」
「スサノオから、生まれた妖」
「束早さんに憑りついていた、波旬。あれは、天狗の怨念から生まれるものです。天逆毎は、スサノオが自ら切り捨てた感情が、かたちを成したといわれています」
天逆毎の成り立ちは、ざっとそんなものだと日限は記憶していた。
仕事柄、名のある妖についての知識は頭に入っている。なかでも天逆毎は、玉藻前などと並ぶ大妖だ。
「感情を切り捨てる。なんでそんなことしたんだろう」
「そこが、気になりますか。ほんとうに、君は人が好きなのですね」
日限は、思わずくすりと笑ってしまう。春香が、面映ゆげな表情を向けてくる。
「ヘンなこと言いましたか」
「失礼。なぜでしょうね。スサノオは、武神のように語られることもあります。武を極めるため己の心を排そうとした、とか。想像でしかありませんが」
歴史に思いを馳せるのは、嫌いではなかった。幼少の頃は、そういう妄想をノートに書き綴ったりもした。
「強くなるために、自分を捨てるなんて、なんだか哀しいですね」
「そうですね。天逆毎、いや、妖というもの自体が、哀しい存在なのかもしれない」
話しているうちに、公園に着いた。
平日だが、家族連れの姿がちらほらあった。
夏休みの時期だからなのか。それとも、ここではありふれた光景なのか。
これまで自分は仕事にしか目を向けてこなかったのだと、日限はしみじみと思った。
今度の一件がすべて片付き、それでもこうして自由に外を歩ける機会に恵まれたなら、日本をあちこち歩きまわってみるのもいい。
今までも仕事で様々な土地に行ったが、また違ったものが見えてくるかもしれない。
「無事、帰ってくるといいですね」
隣の春香は頷いた。
二人とも、公園で日光を浴びながら過ごす家族に目を向けていた。
日限は、大吉の無鉄砲さが嫌いではなかったのだ。
代々木のレンタルオフィスを、日限の名義で借りた。
キッチンや寝室、リビングなどがあり、オフィスというよりモデルルームのような内装だった。
大吉と束早は、このオフィスの屋上から、尚継らの救出へ向かった。そして大吉を除く三名は、無事異界から帰還している。
「靜さん、平気そうに振舞ってましたけど、すごい疲れてたみたい」
リビングのソファに腰かける春香が言う。
日限はダイニングテーブルでパソコンに向かっていた。
「当然です。ほぼ一昼夜、現世と異界を結ぶ道を保持し続けた。その道だって、本来なら熟練の術士数人がかりでつくるものだ。天才です、彼女は」
タイピングする手を止めず、答えた。
頭の中で完成している文面を、実際の書面に書き起こしていく。
「春香も少し休んだ方がいいわ」
「心配してくれてありがとう、束早。でも、私は大丈夫」
「でも。春香だって疲れているでしょう」
「こっちでは丸一日経ってたみたいだけど、むこうにいたのは二、三時間ぐらいだったし。だから、まだ平気だよ」
春香が大吉を待っているのは、親交のない日限でもわかった。
その春香から、束早は離れようとしない。日限には、明確な警戒心を示していた。
告発文が、完成した。いくつかの証拠になるデータとともに、メールに添付し、送信した。
幹部の畝原の息がかかった者に握りつぶされないため、文章は幽奏会上層部と成樟の本家にも送った。
妖や術士のことは公にはされていないが、幽奏会の実態と活動は国によって擁護されている側面もある。内部告発を受ければ、政界を裏から牛耳る成樟を通じて、行政の手が入る。さしもの畝原も、成樟にまでは食い込んでいないはずだ。
日限の告発は、己が犯した罪と、組織の自浄作用としての役割を負う監査部が機能不全を起こしている実情にも触れた。その上で、畝原の陰謀を白日のもとに晒す内容となっている。
「どこか出かけるんですか?」
「少し散歩してきます」
日限が腕時計と鈴のかたちをしたカフスボタンをつけ直していると、春香が訊いてきた。死んだ同僚の血で汚れたシャツは、昨日のうちに着替えている。
「私もついていっていいですか?」
「見張らなくても、もう君たちに危害を加えるつもりはありませんよ」
「そんな気ないです。私も、すこし歩きたい気分だから」
「好きにしたらいい」
「はい。ちょっと行ってくるね。束早は、尚継君たちの側にいて」
一人で出かけることに、束早は反対した。春香がなだめる。そんな二人のやり取りを背後に聞きながら、日限はレンタルオフィスを出た。
明治通りを背にし、代々木公園がある方角へ足を向ける。
ケヤキの並木道を歩いていると、春香が追いついてきた。
陽はまだ高くない。樹々の枝葉が、風にそよぎ微かな音を立てていた。
「なにを訊きたいのですか」
黙って歩く春香に、日限の方から切り出した。
「お見通しですね」
「私に答えられることなら、お答えします」
「知っても、私にはどうしようもないんですけど」
そう前置いて、春香は尋ねてきた。
「天逆毎っていう、あの異界に封印されていた妖のこと、聞きたくて。すごい強いってこと以外は、なにも知らないんです」
天逆毎の再封印に臨む畿一を援けるため、大吉は異界へ残ったという。畿一は、裏切ったのか。
そもそも勇名を馳せる畿一が、妖の一派に加担していたことから違和感はあった。はじめから一派を瓦解させるのが目的だったと言われた方が、得心はいく。
大吉ひとりが残って、できることがあるとは思えなかった。
「天逆毎は、神代に生まれた妖です。スサノオという名は、ご存知ですか」
「えっと、八岐大蛇を倒した、英雄みたいな人、ですよね」
「まぁ、そうです。『古事記』などでは、イザナギとイザナミという二人の神の間に生まれた男神とも言われています。途方もない昔のことで、事実は知りようがありません。ただ、のちにスサノオと呼ばれる人物は実在した。その人物から、天逆毎は生まれたとされています」
「スサノオから、生まれた妖」
「束早さんに憑りついていた、波旬。あれは、天狗の怨念から生まれるものです。天逆毎は、スサノオが自ら切り捨てた感情が、かたちを成したといわれています」
天逆毎の成り立ちは、ざっとそんなものだと日限は記憶していた。
仕事柄、名のある妖についての知識は頭に入っている。なかでも天逆毎は、玉藻前などと並ぶ大妖だ。
「感情を切り捨てる。なんでそんなことしたんだろう」
「そこが、気になりますか。ほんとうに、君は人が好きなのですね」
日限は、思わずくすりと笑ってしまう。春香が、面映ゆげな表情を向けてくる。
「ヘンなこと言いましたか」
「失礼。なぜでしょうね。スサノオは、武神のように語られることもあります。武を極めるため己の心を排そうとした、とか。想像でしかありませんが」
歴史に思いを馳せるのは、嫌いではなかった。幼少の頃は、そういう妄想をノートに書き綴ったりもした。
「強くなるために、自分を捨てるなんて、なんだか哀しいですね」
「そうですね。天逆毎、いや、妖というもの自体が、哀しい存在なのかもしれない」
話しているうちに、公園に着いた。
平日だが、家族連れの姿がちらほらあった。
夏休みの時期だからなのか。それとも、ここではありふれた光景なのか。
これまで自分は仕事にしか目を向けてこなかったのだと、日限はしみじみと思った。
今度の一件がすべて片付き、それでもこうして自由に外を歩ける機会に恵まれたなら、日本をあちこち歩きまわってみるのもいい。
今までも仕事で様々な土地に行ったが、また違ったものが見えてくるかもしれない。
「無事、帰ってくるといいですね」
隣の春香は頷いた。
二人とも、公園で日光を浴びながら過ごす家族に目を向けていた。
日限は、大吉の無鉄砲さが嫌いではなかったのだ。
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