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井ノ上

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少年陰陽士は追憶に秘する

白河尚継 2

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営業前のBar『mix』の演奏ブースで、大吉はひたすらトランペットを吹く練習をしていた。
曲を演奏する段階ではない。ロングブレスで限界まで一つの音を響かせる。息が切れたら、音階を変えて同じことをやる。その繰り返しだった。
「随分上達したな。三日前まではマウスピースで音を出すのも苦戦してたのに」
ドラムセットの前でスティックを振るっていた徹平が、指でシンバルの残響を止める。
「力んでも駄目だって気づいた。音を出すのも変えるのも、全部唇だ」
「どおりで。唇、腫れてるぜ」
「お前も手、見せてみろよ」
徹平が掌を開く。ひたすらエイトビートを刻んでいた徹平の指には、肉刺まめができている。
「しかし、ホントにこんなことやって、オーラを自在につかえるようになるのか?」
「お前が言うのかよ、大吉」
「そっちは仕事仲間だろう」
「お前がオーラの修行をさせてくれって来るまで、俺ぁ志々堂サンがオーラ遣いだなんて知らなかったんだぜ?」
徹平はスネアドラムをダダン、と鳴らす。
「ま、やってみるしかないな」
「熱心だな。そんなにひどい負け方をしたのか? 北海道でやりあったっていう例の妖に」
「まぁな」
羽子が割り込まなければ危うかった。
「奴ら、強い力を持つ土地を狙っていた。ここも、標的にならないとは限らない」
「それで修行、か」
大吉は頷いた。
トランペットを構え直そうとすると、重い扉が押し開けられた。
「サボってるのか」
入ってきたのは、黒いサングラスをした中年の男、志々堂ししどうだった。
「真面目にやってましたよ」
「ほう。ならやってみろ」
志々堂は白杖を操り、客席の一つに座る。
「目の代わりになるもんなんですね、その杖」
「キッチンだと杖もいらないんだぜ。物の場所が全部決まってあって、それを完璧に記憶してんだ。一緒に働き始めたばっかの頃は目が見えないなんて信じられなかったぜ。並の料理人より美味いもんつくれるしよ」
「おい、無駄話してないでさっさとやれ」
志々堂は白杖で床を打つ。
大吉はマウスピースを唇に当てる。徹平がキックドラムを三つ打ったタイミングで、吹きはじめた。
曲はやれない。が、トランペットとドラムのビートが重なると、素人の大吉にはなにかを演奏している気分になってくる。
「もういい」
志々堂が止めた。
「なにも進歩していない」
「結構、思い通りに音階を変えられるまでにはなったんすけど」
「俺もはしらなくなったろ、志々堂サンよ」
「お前ら、なにを習いに来たんだ」
「そりゃ、オーラです」
「なら、オーラを遣うイメージをしなきゃ話しにならんだろう」
地声が二枚目な志々堂が、億劫そうに言う。
「俺は盲目だから、このやり方しか知らん。楽器は、いわばお前ら自身だ。音を出す。音域や拍子を操る。演奏とオーラ操作を結びつけて、イメージし易くするんだ」
「んなこと、今まで一言も言われなかった」
「忘れてたぜ。志々堂サンはこういう人なんだ」
オーラの指南役に志々堂を紹介され早十日。トランペットを押しつけられ、これを吹けるようになれ、とだけ言われた。
音の出し方もなにも教えられなかった。その時点で、手取り足取り教えてくれるタイプではないのはわかっていた。
それにしても、である。
「言葉が足りないにもほどがあるでしょう」
「文句があるなら珠木たまきに言え。俺とお前を引き合わせたのはあいつだ」
志々堂は立ち上がる。
「音を出す感覚は身体に叩き込んだようだし、あとはそれにオーラのイメージを擦り合わせろ。そんなことは、自分でやれ。俺から教えられることは以上だ」
「以上って、そんな」
これでは埃を被ったトランペットの掃除をしただけに等しい。
「ランチ営業の準備だ。徹平、お前も仕事にかかれ」
志々堂はカウンター奥のキッチンに入っていってしまった。
「ま、ああいう人なんだ」
徹平に肩を叩かれて励まされたことで、大吉も諦めがついた。

        ◆

「おっかえり~、大吉おにいちゃん!」
「あんたの兄になった覚えはないですよ」
アパートに帰り部屋に入るなり、タンクトップ姿の珠木が飛びついてきた。
肩ひもが片方外れ、豊満な胸が零れそうになっている。だが、色気よりも全身に漂う酒気の方が濃厚だった。
「また昼間から飲んでたんですか」
「ぶっぶー! 昼からじゃなくて朝からでした~」
「なお悪いわ。というか、酔ってうちに来るのはやめろって、前にも言ったでしょうが」
「だって淋しいんだも~ん。束早ちゃん慰めて~」
珠木は身を翻し、居間のちゃぶ台で勉強をする束早にしなだれかかる。
束早の参考書の横に、空になった日本酒の一升瓶が置いてあった。
「大吉、おかえりなさい」
「おう。束早、図書館の方が集中できるんじゃないか?」
「珠木さんが放してくれなくて。居るだけでいいって言うし。お酒飲んでる間は静かだから大丈夫」
仕事から酔って帰る日も多い母親の扱いに慣れているだけある。束早はこの状況でもしっかり勉強を進めていた。
大吉はほろりと泣けてくる。
「そーいえば大吉きゅん、修行の方はジュンチョーですかぁ?」
珠木は束早の膝を枕にし、足をぶらぶらさせている。
出かけた涙が枯れ果てた。
「今日で終わりました。おかげさまで、トランペットは少し吹けるようになりましたよ」
「あははは、シッシーが人にものを教えるのは無理だったかぁ」
「わかってたんすか。やっぱ珠木さんが教えてくださいよ。替わりに荷解き手伝います。どうせまだ引っ越したままでしょ」
大吉は束早の斜向かいの座布団に座る。
「アッタリー。でも前に頼まれたときも言ったけど、私じゃ無理なのよぅ。だからシッシーを紹介したんだけど、人選ミスっちゃったかな」
服がはだけて露わになった珠木の臍が喋る。
「上海で舟をぶん投げて羽子から助けてくれたじゃないですか。あれ、オーラじゃないんですか」
「あれはオーラじゃありませーん。羽子ちゃんと一緒よぉ。あの子もオーラ遣えないけど、色々すっごい動きしてたでしょ~」
「え、羽子のやつ、オーラ遣えないんですか」
大吉や徹平が偶然発現したオーラは、焔のように揺らぎ、身に纏うタイプだった。
しかし他にも、アレッシオやストライカーのように、魔術というかたちでオーラを遣う者もいた。
てっきり、羽子は後者なのだと思っていた。
「羽子と一緒ってことは、珠木さんもその、身体が」
一升瓶に映る歪んだ顔の自分を見ながら、立ち入りすぎなことを聞こうとしていないか、と思った。
いびきが、聞こえてきた。
「珠木さん、寝ちゃってるよ」
「ああ。束早、膝痺れるだろ。この枕、替わりに挟んどけ」
北海道合宿に行く前、アパートに引っ越してきた酔いどれ住人、珠木葵。
徹平とBar『mix』で働く盲目の料理人、志々堂馨。
この二人は、二か月前に上海で羽子の襲撃から助けてくれた二人だった。あれは于静の手伝いをしていた折の出来事だった。
「奇妙な縁だよな」
珠木のだらしのない寝顔を見ていると、そう思えた。
今月越してきた珠木はまだしも、志々堂にいたっては『mix』がランチ営業をはじめた頃、つまり五月末からこの町に居たというのだ。
「奇妙な縁って、なんのこと?」
珠木の枕から解放された束早は脚を摩っている。
「じつはさ」
大吉は束早に上海での出来事を話して聞かせた。
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