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井ノ上

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キメラ娘は深緑に悼む

珀 8

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顎に蓄えた白髭を手櫛で梳く。
ふくよかな白眉は、俯くと陰をつくり目元を隠してしまう。
背骨の曲がった蕭狼族の里長は、首だけもたげ、大吉たちを微笑みとともに迎え入れた。
土塀に囲まれた里長の屋敷で、板敷の間だった。茣蓙ござが敷かれている。
屋敷といっても、造りは里の他の家々と同じだ。太い樹の枝を組んで笹の葉が葺いてある。
中から見ると、壁には粘土も使われていた。そこに鹿の角や毛皮が掛けられている。
床が全体的に地面より低くなっていた。浅く掘られた竪穴に、建てられているのだ。
「二人のお話を、聞かせてほしい。どのようにして、出会ったのですか」
首長が温和な声音で訊いてくる。
大吉と横並びに端座する琴子とトクサが、目配せし合う。
「私は二年前に、冬眠時期のヒグマと遭遇しました。飢えていたんだと思います。ヒグマは、静かに立ち去ろうとする私に襲いかかってきました」
琴子は話しながら、膝の上で指を組み合わせる。
「助けてくれたのが、トクサでした。それから私は、トクサを探して森に入るようになって。トクサは最初、姿を見せてはくれませんでした。でも私がしつこかったから、見かねて出てきてくれたんです」
「見かねたんじゃない。私が殺めたヒグマの骸に、君は合掌しただろう。自分が殺されかけたのに。その姿を見て、君に惹かれていたんだ」
琴子は耳をほのかに赤らませ、話を続けた。
「トクサがヒトではないとは、それから知りました。本来なら、ヒトとの接触を禁じられているとも」
大吉は、話しの行方を見守っていた。
見張りに囲まれ、捕えられそうになった。
そこに年嵩の男が現れ、見張りの者達を散らせた。
その男は、大吉たちをここへ通すと姿を消した。
「禁じていたわけではないのですよ。みだりに山の外に出ないように、子どもたちに言っていました。それがいつからか、ヒトとは交わってはいけない、と暗黙の掟のようになってしまった」
「そうだったんですね」
「痛ましい出来事も、何度かあったのです。それでヒトを恐れるようになってしまった」
「悪いヒトがいるのは、確かです。でも、一部です」
「そうですね」
里長が、にこりと笑った。孫を可愛がる、好々爺のようなまなじりになる。
「トクサ」
「はい」
「難しいこともあると思う。傍にいてやりなさい。無理をする必要はない。二人で生きる意味を、考え続けるだけでいい」
「はい」
「さて、茶にでもしましょうか」
姿を消していた年嵩の男が、湯呑を持って入ってきた。
茶が配られた。薬っぽい香りが漂う。
茶を配った男が、里長になにか耳打ちし、部屋を辞した。
「どうかされたんですか?」
悲しげに眉尻を下げた里長に、琴子が尋ねる。
「里の者が、君たちのご友人に無体を働いたようです。ご友人の一人が、羽子の者だとどこからか聞きつけたようです。我が子を羽子の一党に攫われ失ったものでして」
「羽子は、裏の稼業から足を洗って、いまは町の古い風呂屋で暮らしてます」
「子は育つ環境に左右される。けれど、そのあとどう変わるかは、自分自身で選び取っていくしかない」
羽子は、変わろうとしているのか。
そうだと断言できるほど、大吉も羽子を知っているわけではなかった。
「羽子を襲った方はどうなったんでしょう」
「牢番が捕らえようとして、逃げられたそうです。いま、若い者らが行方を探しています」
羽子と秋久を連れ、早々にこの里を出た方がいい、と大吉は思った。
ここでの簫狼族の暮らしは、静謐の中にあった。自分たちの来訪が、その静謐を乱している。里長は受容してくれたが、そうではない者もいる。
「あの、俺たちはそろそろ」
辞去を切り出そうとしかけて、口を噤んだ。
肌が、なにかを感じ取った。里長とトクサの獣耳も、反応する。
「なんだ、いまの」
「里の結界が破られた」
廊下から、どたどたと足音が近づいて来た。
「里長! ツツジが結界印を切り裂き、その場で自害を」
「なんということを」
里長が沈痛な面持ちで湯呑を置いた。
「誰が彼女に羽子の者の話をしたのだ」
「それが、誰もしていないようなのです。なのになぜかツツジは知っていて」
「利用されたか」
「利用、ですか?」
「女子供を滝壺の裏へ避難させなさい。若い男たちで、里の守備を固めるのだ」
「それは」
「早くしなさい」
冷静だが有無を言わせぬ里長の指示に、報告に来た男は直立して行動に移った。
「里長は、これを例の妖どもの仕業だと?」
トクサが里長に膝を寄せた。
「わからぬ。だが、奴らはこの里に付け入る隙を窺っていたはず。儂も出よう。トクサ、お主はお客人についていなさい」
里長は着物の裾を払い立ち上がり、部屋を出て行った。
大吉たち三人は、部屋に取り残された。
「トクサさん、どういうことなんだ」
「数日前から、妙な妖どもが山をうろつきはじめていたんだ。どうも、この土地の力を狙っているようでな」
「霊場には妖が溜まりやすいって話は知ってる。でも、土地の力を奪うなんて話は、初めて聞く」
「不可能ではない。霊場には、神憑かむよりというものが生まれる。山なら樹、川や湖なら石だったりする。神憑はいわば心臓で、それを持ち出されると土地は弱る。土地の力そのものだから」
「それを狙う妖がいるってのか。その神憑は、どこにあるんだ」
「詳しくは教えられないが、里にある。今までは結界で隠していたが、その結界が破られた。里長は、妖の手引きだと考えたはずだ」
「それで、利用された、か」
この里が保ってきた秩序を乱すのに、羽子への怨嗟が利用された。
「トクサが昨晩、私に森へ近づくなって忠告に来たのは」
「ああ。里の者達も、その件でここ数日警戒を強めていた」
秋久を捕らえた蕭狼族は、不穏な動きをみせる妖に備え、哨戒していたのかもしれない。
「トクサ、あれ」
琴子が部屋の蔀戸しとみどから外を指差す。
里の中央の方で、黒煙が上がっている。
「里が」
「トクサ、私たちなら平気だから、行って」
「駄目だ。私は琴子といる」
「でも」
「俺が、行く」
大吉は立ち上がった。
「秋久たちを無事に連れ帰るって、春香と約束してきたからな」
そう言って、ショルダーバッグからバングルを取り出し、手首にはめた。
羽子との一戦の後、フェンガーリンが作ってくれたものだ。バングル自体は市販だが、裏に術式が刻まれている。
これで、フェンガーリンにいちいち術式を腕に書いてもらわなくても、吸血鬼の影の力が使える。
右手の影から、刀を取り出した。
黒石目の鞘に刀匠鍔と平巻の柄。瓦湯で暮らすのに邪魔だと言って、羽子に押し付けられた刀だ。
「行ってくる」
唖然とする琴子をトクサに任せて、大吉は里長の屋敷を出た。
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