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井ノ上

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キメラ娘は深緑に悼む

珀 6

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はぐれたら帰り道もわからない。
山中で必死だった。
なのに突然、羽子を見失った。
「あれ、あれっ」
秋久は慌て、右往左往する。
「動くな」
背後から首筋に、刃物が突きつけられた。身体が、硬直する。
「なにが目的だ。なぜトクサを追ってきた」
喉が干乾び、声が出なかった。
「死にたくなければ、答えろ」
男の低い声におどされる。切っ先が肌を浅く傷つけ、血が首筋を伝う。
「知らない。なにも知らない」
沈黙。心臓の鼓動が早鐘を打つ。
「どうする」
「里へ連行しよう。例の連中の仲間ではなさそうだが、入口を知られたかもしれん。トクサはどうした」
「叩きのめして、縛り上げてあります。あいつ、人間の女なんかと」
「そう言うな。数十年前まで、我らとてアイヌと親交はあった」
「山や川と生きていた彼らと、やつらとでは、同じ人間でも違う」
男の溜息。
「トクサの処遇も、里に戻ってからだ。行くぞ」
手首を縛られた。背が押される。
首筋から刃物が引かれた。刃物だと思っていたものは、鋭く尖った爪だった。
男達の目は、闇の中で夜行性の獣のごとく光っていた。着物の尻の切れ込みから、尾が生えている。
「待ってくれ」
わけもわからず、抵抗の仕様もなく男達に連れ去られようとしたとき、樹の陰から羽子が現れた。
「羽子、駄目だ、君だけでも逃げるんだ」
羽子は、にやりと笑った。
「オレも連れていけ」
警戒し殺気立つ男達に、羽子は縛りやすいよう自ら手首を差し出す。
秋久は、さらにわけがわからなくなった。

         ◆

羽子はともかく、秋久まで姿を消した。
大吉は念のため、牧場に残ることにした。
先輩たちには稽古に行ってもらった。春香も行くよう促したが、自分も残ると言って聞かなかった。
「どうしよう、警察に連絡した方がいいかな」
不安げな琴子に、「昼までは様子を見よう」と言った。
「ヒグマが出たのかも」
琴子が、ぶるりと身を震わせた。
「だとしたら、なにか痕跡があったはずだ。でも、周辺を探してもそれらしいものはなかった」
「それは、そうだけど」
ヒグマではないだろう。
羽子は、蕭狼族の隠れ里に行こうとしていて、秋久は、そんな羽子を気にしていた。
民宿のホールで、秋久からの連絡を待った。
テラスの方で、物音がした。
「いまの、なんの音?」
春香が立ち上がる。
大吉は二人を部屋に留め、テラスに出た。
男が、俯せに倒れていた。尻から尾を生やしている。それも、作り物ではない。
棒打ちでも受けたのか、背中にひどい怪我を負っている。毛量の多い髪が、顔を覆い隠していた。
幾何学模様の入った男の着物は、アイヌの切伏きりぶせにも見える。
「おい、あんた」
「トクサ!」
大吉の脇を、琴子が飛び出していった。
「琴子、すまない。君の友人が、里の者達に捕まってしまった」
苦しそうに言う男の足首に、踝とは違う瘤があった。ふさふさな髪の中に埋もれて、獣の耳が生えていた。
「あんた、簫狼族か」
だとすると、里というのは、簫狼族の集落のことか。
昨晩なにが起きたのか、漠然とだがわかってきた。
「ひどい怪我。琴子ちゃん、病院に―」
「それは駄目。トクサは、普通の人じゃないの」
琴子に止められ、春香もトクサの耳や尾に気づいたようだ。
「中に運ぼう。ここで手当てをする」
「私、消毒液持ってくる」
「まずは水で洗った方がいい。それから消毒して、あとはさらしだ」
琴子は頷き、隣接した家へ駆けて行った。
大吉は春香とトクサを担ぎ、中のソファに運んだ。
手当てを終えた。
上皮が裂け肉が露出している傷もあり、きつくさらしを巻いた。外傷だけで、内臓は平気そうだ。水を飲ませると、トクサの状態は落ちついた。
「昨晩なにがあったのか、教えてくれ」
大吉が言うと、トクサに膝を貸している琴子が身動ぎをする。
「私たちは、」
「いいよ、琴子。私が話そう」
トクサは琴子の手を借りて身体を起こすと、昨晩起こったことを話しはじめた。

         ◆

山を二つ、越えなければならない。
それに誰かが牧場に残り、先輩や糸里家の人間をごまかす必要もあった。
春香は同行を断念した。
「大吉、羽子ちゃんと瓦君をお願い」
「ああ」
「琴子ちゃんも、気をつけてね」
「うん」
琴子はトクサが背負った。蕭狼族は吸血鬼のような回復力こそないが、かなりタフなようだ。
森へ入った。
トクサは負傷を感じさせず、ひと一人を背負っているとは思えぬほどずんずん前へ進んでいく。
対して大吉は、地面から張り出した樹の根にしばしばつまづき、梢に身体のあちこちを打たれた。小さなショルダーバッグさえ邪魔だった。
「トクサさん、羽子や秋久はやばいのか」
「里には、人間を毛嫌いする者も少なくない。しかし私たち簫狼族に、罪人や外敵を進んで殺める文化はない。大人しくしていれば、命の心配はないはずだ」
「羽子の身体には、あなたの一族の腕と脚が移植されてる。あいつが望んだことではないが、長くその力を使って裏の仕事をしてきた」
「彼女はなぜ、私たちの里へ来ようとしていたのか」
「わからない。裏の仕事からは、最近足を洗ったんだ。なにか心境の変化があったのは、確かだと思う」
秋久は、羽子を追っていたのだろう。
そして、山中で簫狼族に出くわし、真っ先に掴まった。
一つ目の頂を越えたあたりで、呼吸は楽になった。身体が山に順応してきたのだ。
傾斜がきつく草木が生い茂った山だ。ただ、大きくはなかった。
木々の合間から、陽が中天にさしかかろうとしているのが見えた。
「正直、琴子を連れて行きたくない」
トクサが歩速を緩めず言った。
下りの斜面は、登り以上に気をつけないと滑落しそうになる。
「無理言ってごめん。でも、いつか誰にもはばからず、一緒に居られるようになりたいって話し合っていたでしょう。いまが、その機会だと思うの」
簫狼族は、人間に一線を引いて生きてきた。種族の違う二人が結ばれるには、障害がある。
それはトクサと琴子の問題だった。
全員で無事に帰られれば、大吉はそれでいい。
樹の幹に彫られた、眼のような模様を見かけた。
透明な膜みたいなものを、通った感じがした。
「今のは」
「私たちは土地の力を借りて里を隠してきた。今、その結界の内に入った」
ひらけた岩場に出た。近くに、滝の音がする。
トクサが立ち止まり、膝をついて琴子を降ろす。ここが里の入口らしい。
「何者だ」
誰何すいかされた。姿は見えない。
「私だ、トクサだ。この者達と一緒に、里長と話がしたい。昨晩捕らえられた人間たちと、私たち一族の今後についてだ」
「貴様、仲間を打ち倒して逃げたくせに、よくも抜け抜けと」
初耳だった。
「あんた、仲間を倒して来てたのかよ」
「あのまま捕まってしまったら、二度と琴子と会えなくなっていた。そうなるぐらいなら、琴子を連れて逃げるつもりでいた」
「クールなのは、見かけだけみたいだな」
平然と言ってのけるトクサに、大吉は苦笑した。
「なにをごちゃごちゃと」
簫狼族の若者が、姿を現した。トクサと似た着物を着ている。
「頼む。里長と話しをさせてくれ」
若者は、空に向かって遠吠えをした。それから、こちらを睨みつける。
「ふざけるなよ。里を混乱させておいて。お前たちも昨夜のやつら同様、獄《ごく》にぶちこんでやる」
あっという間に大吉たちは増援に囲まれた。
話し合うのも、一筋縄ではいかなそうだった。
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