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turning point
桑乃瑞希 17
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-7月19日 PM 9:50-
動きが、明らかに変わった。
大吉は死にかけていた。それが息を吹き返し、躍動をはじめた。凌ぐので精一杯だったはずが、羽子を上回る反射速度で反応してくる。
「死門に入ったな」
羽子にも一度だけ、経験がある。
三年前、竜驤傭兵団に買われて間もない頃だ。
仕事でしくじり、五十人近い手練れに追われた。三日三晩、逃走と闘争を繰り返し、二十人は斃した。そこで体力は尽きた。精神は極限まで擦り減っていた。
三十人ちかい追手に囲まれた。
それからの記憶は、あまりない。鮮明なのは
、その後の高揚感だけだ。
限界だったはずの躰が軛から解き放たれたように軽くなった。痛みも疲労も感じなくなり、すべての動きがよく見えた。
傭兵団にいる後処理を専門とする掃除屋が、羽子を回収した。夥しい死体とともに、血溜まりに倒れていたらしい。
死門という言葉は、そののちに傭兵団長の萬丈から教えられた。
死門へは、入ろうと思って入れるものではない。事実、羽子も経験したのはその一度きりだ。
「大吉、がんばれ!」
煙幕が完全に晴れた。
部屋の入口に立っている女が煩わしい。だがもはや、外野に構っている余裕は羽子にもない。
「この死にぞこない」
羽子は部屋を縦横無尽に駆けまわり、フェイントをかける。大吉はつられない。集中力も上がっている。
「どうした羽子、へばってきたか」
「調子に乗るなよ」
狼のように四足で、地面から喉を掻き切ってやる。大吉が踵落としを合わせてくる。飛びかかる。と見せかけて垂直に跳んだ。
大吉の視界には、自分が急に消えたように見えたはずだ。羽子は、天井を蹴って身を翻し、大吉の頭上に裂爪を放つ。
殺った。
勝ちを確信した。が、爪の先が頭頂に達する寸前、大吉が上体を反らした。爪が大吉の頬を裂く。その程度の傷は、吸血鬼の力ですぐに治癒する。
「くそ」
頭に血が昇った。雑な追撃に転じてしまった。
マホガニーの小樽。顔面にぶつかった。大吉が右手の影から物を出すのを知りながら、失念していた。
「ここだ!」
大吉の攻撃が来る。羽子は視界の確保より先に腕でガードを固めて、後ろへ跳んだ。
掌底。
ベッドの天蓋にまで吹っ飛んだ。布が絡み、天蓋の支柱が音を立てて倒れる。
「なんだ、これは」
大吉の身体から赤色のオーラが立ち昇っていた。
自らの肉体を包む、薄い焔のような揺らめきに、大吉は戸惑っている。
「オーラも知らないのか。それもそうか。素人だったな」
忘れていた。
簡単に背後をとって羽交い絞めにしたあの日が、妙に昔のことに思える。
「戦闘の最中に死門に入り、オーラを発現させた男が、素人か」
「死門とか、オーラとか、なにを言ってるんだ」
「オレを倒せたら、教えてやる」
なんの訓練も受けていない一般人が、死門に入りオーラが覚醒した。にわかには信じがたいが、目にした事実は認めるしかない。
「そろそろ、決着を―」
天蓋の布を払い、ベッドを降りて、気づく。
「瑞希がいねえ」
大吉が、とぼけるように口笛を吹く。
「煙幕は、そのためだったのか」
今になって気づくなど、ひどく間抜けだ。
「まぁ、もうどうでもいいか」
「いいのか」
「素人相手に互角の勝負をしている。羽子の一党や傭兵団の連中を呆れさせるには、十分すぎる失態さ」
羽子はポンチョを脱いだ。靴と、靴下も脱ぐ。邪魔なものは、それでなくなった。
「脚も、獣人か」
「まあな」
踝の上あたりに狼爪が生えている。羽子の身のこなしから予想していたのか、大吉は驚いていない。
床の感触を足の裏で確かめる。余計な力は抜く。脚を肩幅に開き、重心を落とす。
「次で終わらせる」
羽子が言うと、大吉も構えを取った。手は掌底のかたちだ。思えば、この戦闘で一度も拳を握っていない。
女は殴らないとでもいうつもりか。この男、大吉ならば、言いかねない。
羽子は不思議な心地になっていた。嵐のあとの凪ぎに似た心境だ。
真正面から、突進した。
今更、見え透いたフェイントにはかかるまい。
爪を槍の穂先のようにした。
吸血鬼の回復能力がある。下手な場所を攻撃しても無意味だ。殺すのは難しい。一撃で行動不能にし、復活してくるまえに縛り上げてしまえばいい。吸血鬼と同様に朝日で死ぬかはわからないが、無力化するだけなら方法はある。
脳か、心臓。
狙うなら、そのどちらかだ。
そこを潰せば、一時的に行動不能にはできる。
大吉の間合いを冒す。
それは同時に、こちらも冒されることを意味する。
大吉は、動かない。
なんのつもりだ。なんでもいい。大吉がなにかする前に、勝負を決めてしまえばいいのだ。
心臓。選んだ。貫手を放つ。
「ちっ」
羽子は舌打ちした。
「オレの攻撃を、読んでいたのかよ」
羽子の爪が突き立った大吉の掌から、血が滴っている。貫手は、心臓には届いていない。
「死なない相手に勝とうと思ったら、行動不能にするしかないからな。心臓か頭を狙ってくると思った」
「心臓だと、なぜわかった」
「わかるわけねーよ。ニブイチで賭けた」
大吉はへらへらと笑った。溜息が出た。
「敗けだ」
羽子は腕と脚の獣体を解いて言った。
動きが、明らかに変わった。
大吉は死にかけていた。それが息を吹き返し、躍動をはじめた。凌ぐので精一杯だったはずが、羽子を上回る反射速度で反応してくる。
「死門に入ったな」
羽子にも一度だけ、経験がある。
三年前、竜驤傭兵団に買われて間もない頃だ。
仕事でしくじり、五十人近い手練れに追われた。三日三晩、逃走と闘争を繰り返し、二十人は斃した。そこで体力は尽きた。精神は極限まで擦り減っていた。
三十人ちかい追手に囲まれた。
それからの記憶は、あまりない。鮮明なのは
、その後の高揚感だけだ。
限界だったはずの躰が軛から解き放たれたように軽くなった。痛みも疲労も感じなくなり、すべての動きがよく見えた。
傭兵団にいる後処理を専門とする掃除屋が、羽子を回収した。夥しい死体とともに、血溜まりに倒れていたらしい。
死門という言葉は、そののちに傭兵団長の萬丈から教えられた。
死門へは、入ろうと思って入れるものではない。事実、羽子も経験したのはその一度きりだ。
「大吉、がんばれ!」
煙幕が完全に晴れた。
部屋の入口に立っている女が煩わしい。だがもはや、外野に構っている余裕は羽子にもない。
「この死にぞこない」
羽子は部屋を縦横無尽に駆けまわり、フェイントをかける。大吉はつられない。集中力も上がっている。
「どうした羽子、へばってきたか」
「調子に乗るなよ」
狼のように四足で、地面から喉を掻き切ってやる。大吉が踵落としを合わせてくる。飛びかかる。と見せかけて垂直に跳んだ。
大吉の視界には、自分が急に消えたように見えたはずだ。羽子は、天井を蹴って身を翻し、大吉の頭上に裂爪を放つ。
殺った。
勝ちを確信した。が、爪の先が頭頂に達する寸前、大吉が上体を反らした。爪が大吉の頬を裂く。その程度の傷は、吸血鬼の力ですぐに治癒する。
「くそ」
頭に血が昇った。雑な追撃に転じてしまった。
マホガニーの小樽。顔面にぶつかった。大吉が右手の影から物を出すのを知りながら、失念していた。
「ここだ!」
大吉の攻撃が来る。羽子は視界の確保より先に腕でガードを固めて、後ろへ跳んだ。
掌底。
ベッドの天蓋にまで吹っ飛んだ。布が絡み、天蓋の支柱が音を立てて倒れる。
「なんだ、これは」
大吉の身体から赤色のオーラが立ち昇っていた。
自らの肉体を包む、薄い焔のような揺らめきに、大吉は戸惑っている。
「オーラも知らないのか。それもそうか。素人だったな」
忘れていた。
簡単に背後をとって羽交い絞めにしたあの日が、妙に昔のことに思える。
「戦闘の最中に死門に入り、オーラを発現させた男が、素人か」
「死門とか、オーラとか、なにを言ってるんだ」
「オレを倒せたら、教えてやる」
なんの訓練も受けていない一般人が、死門に入りオーラが覚醒した。にわかには信じがたいが、目にした事実は認めるしかない。
「そろそろ、決着を―」
天蓋の布を払い、ベッドを降りて、気づく。
「瑞希がいねえ」
大吉が、とぼけるように口笛を吹く。
「煙幕は、そのためだったのか」
今になって気づくなど、ひどく間抜けだ。
「まぁ、もうどうでもいいか」
「いいのか」
「素人相手に互角の勝負をしている。羽子の一党や傭兵団の連中を呆れさせるには、十分すぎる失態さ」
羽子はポンチョを脱いだ。靴と、靴下も脱ぐ。邪魔なものは、それでなくなった。
「脚も、獣人か」
「まあな」
踝の上あたりに狼爪が生えている。羽子の身のこなしから予想していたのか、大吉は驚いていない。
床の感触を足の裏で確かめる。余計な力は抜く。脚を肩幅に開き、重心を落とす。
「次で終わらせる」
羽子が言うと、大吉も構えを取った。手は掌底のかたちだ。思えば、この戦闘で一度も拳を握っていない。
女は殴らないとでもいうつもりか。この男、大吉ならば、言いかねない。
羽子は不思議な心地になっていた。嵐のあとの凪ぎに似た心境だ。
真正面から、突進した。
今更、見え透いたフェイントにはかかるまい。
爪を槍の穂先のようにした。
吸血鬼の回復能力がある。下手な場所を攻撃しても無意味だ。殺すのは難しい。一撃で行動不能にし、復活してくるまえに縛り上げてしまえばいい。吸血鬼と同様に朝日で死ぬかはわからないが、無力化するだけなら方法はある。
脳か、心臓。
狙うなら、そのどちらかだ。
そこを潰せば、一時的に行動不能にはできる。
大吉の間合いを冒す。
それは同時に、こちらも冒されることを意味する。
大吉は、動かない。
なんのつもりだ。なんでもいい。大吉がなにかする前に、勝負を決めてしまえばいいのだ。
心臓。選んだ。貫手を放つ。
「ちっ」
羽子は舌打ちした。
「オレの攻撃を、読んでいたのかよ」
羽子の爪が突き立った大吉の掌から、血が滴っている。貫手は、心臓には届いていない。
「死なない相手に勝とうと思ったら、行動不能にするしかないからな。心臓か頭を狙ってくると思った」
「心臓だと、なぜわかった」
「わかるわけねーよ。ニブイチで賭けた」
大吉はへらへらと笑った。溜息が出た。
「敗けだ」
羽子は腕と脚の獣体を解いて言った。
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