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井ノ上

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turning point

桑乃瑞希 ③

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-7月16日 PM1:45-

BAR『mix』のランチ営業は、あいかわらず流行っていなかった。
演奏スペースの近くにある四人掛けのテーブルに座る。
陽衣菜の前にオムライスが運ばれてきた。
陽衣菜は荷物が詰まったリュックサックを降ろそうとしない。
「まずは食べよう。昨日から何も食べてないんだろ?」
大吉と尚継が注文したカレーからはスパイスの香りが漂う。見た目はごくシンプルだ。
陽衣菜は遠慮がちにスプーンを取る。一口食べると、完食までスプーンを動かす手を止めなかった。
大吉と尚継も、もくもくとカレーを平らげる。
「瑞希ちゃんが大変なのに、私」
空になった皿にスプーンを置き、陽衣菜が自分を責めるように言った。
「腹が減っているから飯を食う。普通のことだ」
陽衣菜は弱々しく頷く。
「それで、なにがあったんだ?」
高齢の桑乃当主が倒れ、昏睡状態になったこと。
長女が桑乃の当主代行の任に就き、瑞希の縁談を勝手に決めてしまったこと。
自分を含む使用人の半数が、今朝になって解雇されたこと。
陽衣菜は訥々と話した。
陽衣菜の背中の荷物は、屋敷での暮らしで使っていた私物だろう。
大きな荷だと思ったが、中学生が私物の一切をまとめたにしては、リュックサック一つ分は少ない。
「行く当てはあるのか?」
「桑乃の遠縁にあたる家に行くよう言われました。養子なんかの手続きも追々するって。でもいまこの町を離れたら、二度と瑞希ちゃんと会えなくなっちゃう」
陽衣菜が声を震わせる。
「それならうちに来るか? 宿坊なら空いてるし」
大吉と陽衣菜のやり取りを聞いていた尚継が、横から提案する。
「いいの?」
「困ってんだろ。クラスメートのよしみだ。親父も駄目とは言わないだろうし」
尚継の持ち前の明るさが、いまの陽衣菜には必要かもしれない。
銭豆せんず神社の神主でもある尚継の父は優しく温和な人柄で、困っている子どもを見過ごしはしない人物だ。
「瑞希の話はわかった。俺になにができるかわからないけど、なんとかする。だから陽衣菜、今日はもう休め」
食べて多少ましになったものの、陽衣菜の顔色は悪い。
解雇されたのは今朝でも、瑞希の姉が動き出した数日前からずっと気を張り詰めていたのだ。
尚継に頼み、陽衣菜を銭豆神社へと送らせた。
大吉が一人になると、二つのグラスをぶら下げて徹平がやってきた。
斜向かいに座る。ほかに客はいない。差し出された片方のグラスを受け取る。
ミントが香るレモン水だ。
「なんとかする、か」
「無責任って言いたいんだろ。わかってるよ、他所の家のことだ」
大吉は溜息をつく。
「それでも、放っておけない。普段周りをよく見てる陽衣菜が、あんなふうに取り乱していたんだ。よほど瑞希の立場が悪いってことだ」
「あんだけデカい家じゃな。瑞希の姉ちゃんはこの機に自分が家督を継ぐのに邪魔なもんは排除しちまおうって肚なのかね」
徹平は仕事をしながらも、大吉たちの話を耳に入れていたようだ。
日本では誰もがその名を知るほどに、桑乃の存在は大きい。
「それだけでもない気もする。恨みっつうか、なんかそんな感じもする」
父親が昏睡している間に、当主代行の権限で弟を婿に出してしまう。反発する家内の人間は放逐する。瑞希の姉の行動はかなり強引だ。
「そもそも瑞希には家督を継ぐ意思なんかなかったはずだ。陽衣菜と普通の学校に通ってたぐらいなんだから」
その瑞希を、こうまで性急に排除しようとするのには、きわめて個人的な感情が入り混じっている気がする。
「肉親だからこそ、複雑に絡んじまった糸があるのかもな」
「ああ」
想像でしかない。ここであれこれ考えても、なににもならない。
大吉は勘定を徹平の前に出し、立ち上がった。
「どうするんだ?」
「まずは瑞希に会う。全部そこからだ」
「ちょっと意外だったよ」
「なにが」
「そういうお節介なところもあるんだな。熱を秘めた奴なのは、知っちゃいたが」
大吉は黙った。
君子危うきに近寄らずをモットーに、平凡な日々を望んでいた。忘れてはいない。
今年の春先から、春香のお節介に付き合い過ぎたせいだ。陽衣菜や瑞希と知り合ったのも、元をたどれば春香がきっかけだ。
徹平や束早の件は、身内が巻き込まれた出来事だった。今回は、それとは少し違う。
「友達に、会いに行くだけさ」
我ながら言い訳じみたことを言った。
階段を上がり地上に出た。
瑞希の家へ向かった。
徒歩だと一時間以上はかかる。一度春香の家に寄り、自転車を借りた。自転車を持っていない大吉は、春香の家の自転車をしばしば借りる。
桑乃邸は、町のやや小高い丘の上に聳えている。
塀に囲まれた敷地面積は、かなり広い。外からでは屋敷の全容も臨めない。瓦造りの屋根の端が、木々の奥に見えるくらいだ。
「お引き取りください」
門柱の横についたインターホンに訪問を告げたものの、その一点張りだった。
予想はしていた。
陽衣菜たちが解雇され、いまこの屋敷に残っているのは全員桑乃長女の息がかかった人間なのだ。
「しかたねえ」
大吉は門から離れ、距離を取る。助走をつけ、塀を駆けのぼった。塀の上にぎりぎり手がかかる。蹴る反動と腕の力で乗り越え、敷地に降り立つ。
侵入者を報せる警報が鳴り響く覚悟もしていたが、静かなものだった。
「そりゃ桑乃の本家に忍び込もうなんて馬鹿はいないもんな。これで瑞希に会えなかったら、不法侵入しただけのやつになっちまう」
門からは真っ直ぐに屋敷の入口へ繋がる道がある。
その道に背を向け、屋敷の西側へ回り込むように庭を迂回する。植え込みや蔵などがあり、身を隠す物陰には困らない。
使用人が利用するらしき戸口を見つけた。草むらから身を出そうとした。
「驚いた」
声が降ってきた。大吉は動きを止めた。
「桑乃の屋敷に忍び込む馬鹿がいたのにも驚いたが、それが見知った顔とはな」
声がどこからしているのか、潜んでいる草むらからでは掴めない。
しかしその主は明らかに大吉を見つけている。もう隠れていても無駄か。大吉は身を起こし、木陰から出た。
「まさか団長は、知っててオレをこの仕事に回したのかね」
声は、屋敷の上からしていた。大吉が見上げるのと、赤いレザーポンチョで身を包んだ女子が、屋根から飛び降りて来た。
「お前、上海での」
「前回のしくじりをここで取り返せってか?」
野性味のある切れ長な瞳が唖然とする大吉を捉え、すっと細くなった。

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