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ひきこもり娘は片翼に遺す
新田束早 ⑥
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東京で新幹線に乗った。
京都まで約二時間。
窓際の席を大吉が譲ってくれる。
「ほれ束早」
「わ、なに、冷たい」
「冷凍みかん。さっき売店で買ったんだ」
一つ受け取る。まだ固いみかんを、大吉は手の中で転がして溶かしている。
「ふふ、大吉、おばあちゃんみたい」
「旅と言えば冷凍みかんだろ?」
アナウンスの後、新幹線が動きはじめた。
あの夜、波旬は祓われた。
闇の中で、春香に呼びかけを聞いた。春香か、破旬か。束早はあの時、選んだのだ。
それまで夜になると頭に響いてきた怨嗟は、もう聞こえない。目を閉じても、波旬の存在は感じられなくなっていた。
「兄妹で京都へ行くって、少し変な感じ。学校、行かなくてよかったの?」
「いいだろ、一日ぐらい」
「帰ったら多分春香がむくれるわ。自分も行きたかったって」
「妹と二人旅がしたかったのさ」
大吉がおちゃらけた調子で言った。
嘘、心配してくれたんでしょう。束早は隣の兄には聞こえないよう唇だけで、ありがとう、と言った。
他の人には普通に言えることも、兄妹だと気恥ずかしいときがある。きっと大吉もそうで、だから素直に心配だなどとは口にできないのだ。
新幹線を降り、バスを乗り継いで目的地に向かう。市街から遠ざかるにつれ、バスの本数は減っていった。
山の麓のバス停で降車する。
「帰りのバスは二時間後にあるな。それを逃すと、さらに二時間後か。一本逃すと、もう一ヶ所の方に行けなくなるな」
日帰りの予定だ。
電車賃は幼少から貯めていたお年玉で工面できたが、宿泊は無理だった。
親戚付き合いがほとんどない新田家では、お年玉は母がくれるものが唯一なのだ。
山中を入っていく。
束早が前を行く。目的地への道は束早しか知らない。
怨嗟と共に流れ込んできた、破旬の生前の記憶。
「ここだわ」
「この崩れかかった岩が、入口を塞いでいたのか。中は覗けそうだが」
近くに断層が見られた。地殻変動による褶曲でできた洞窟のようだ。
「奥は、二畳分もないんじゃないか?」
崩れかけた岩戸を覗き込んでいた大吉が顔を離す。
「波旬はここに閉じ込められたのね」
束早は岩戸に近づいた。目を閉じ、額をくっつける。
「……なにも感じない。わかってはいたけれど」
元々大吉や春香と違い、霊や妖を見る力はなかった。あったとしても、ここに波旬がいた痕跡を感じられたかはわからない。
「もう一ヶ所の方へ行きましょう」
「大丈夫か? 少し顔色が悪くないか」
「へいき。探したいの、波旬がいた痕跡を」
少しだけ市街地の方へ戻った。
そこから宇治方面へ向かった。陽は中天を過ぎ、傾きはじめていた。
バスに揺られる間、束早は破旬と出会った時のことを大吉に話した。
「班ごとに自由行動する時間だったけれど、私は平等院に来たところで一人で残ったの」
自分に気を使う班のクラスメイトから離れたかった。五人組の班で、他の四人はいつも一緒にいる友達グループだったのだ。
学校では基本、一人で過ごしていた。一昨年までは、休み時間になるとしばしば春香が来てくれた。それがなくなっても、一人でいること自体は苦ではなかった。
同級生に距離を置かれていたのは、彼らにとって束早が"普通の子"ではなかったからだ。
父との記憶はなく、母は水商売で稼いでいた。
そのことを悲観したり疎んだりはしなかった。はじめからそういう家族のかたちだったのだ。なにより、兄がいた。
「一人になってスケッチブックで風景を描いてたら、強い風が吹いて。その時に風じゃないなにかが、私の中に入り込んできたの」
「それが波旬だった」
束早は頷いた。
視る力はなくとも、大吉と春香を通じて妖の存在はずっと近くにあった。
それまで二人から聞いてきた話で、自分が憑りつかれたのだとはわかった。
「はじめて波旬の声を聞いたのは、あの事件の日。白河君に封じてもらってからは、声というよりもっと漠然とした、感情みたいなものが伝わってくるようになった」
その感情の大半は、暴風のように吹き荒れる怒りと憎しみだった。
その嵐が熄む、台風の目に入ったみたいな瞬間があった。
そこで聞いたのは、慟哭だった。深い深い、哀しみ。
「もしなにかが少し違えば」
汚名を着ても家族を守ろうとしてくれる兄がいなければ。
どんなことがあっても明るく笑いかけてくれる母がいなければ。
分け隔てなく接してくれる無二の友達がいなければ。
「私も波旬みたいになっていたかもしれない」
平等院からほど近い場所にある、朝日山に登った。
喉がからからに乾いていたけれど、水は飲まず、足を前に出すことにのみ専念する。
「ここだわ。多分、この樹」
憎しみの嵐の途切れ目に聞いた慟哭。同時に垣間見えた記憶の場所。
「ここで波旬は母親と暮らしてた。人里からは身を隠してひっそり。それで夕方になると、この樹に登って宇治川を眺めていた」
束早は樹の幹に触れた。樹皮が枯れて罅割れた古い樹だ。
「記憶ではもっと若い樹だったのに」
「天狗の寿命は人よりずっと長いらしい。数百年とか」
「そうなのね。なら、この樹からの景色も変わってしまっているのかしら」
束早がしんみりと言うと、背中を優しく叩かれた。
「それを確かめに来たんだろ。安心しろ。落ちてきたら受け止めてやる」
くすりと笑った。
「肋骨、まだ治ってないでしょう。平気よ、これでも運動神経はいい方なんだから」
束早は靴と靴下を脱ぎ、低い枝に手をかけた。大吉が下から押し上げてくれて、その上の枝にも手が届く。
樹の中ほどまで登った。時間もちょうど、波旬が宇治川を眺めていた頃だ。
夕陽を背に、市街のある方角を望む。宇治川の流れはほとんど変わらない。しかし。
「やっぱり違うわ。波旬の見た光景は、残っていない」
涙が流れてきた。
どれほど探しても波旬の生きた痕跡は残っていない。
「全部、消えてしまったの?」
波旬が祓われたあの夜以来、束早は身を裂くような喪失感に苛まれていた。
京都まで約二時間。
窓際の席を大吉が譲ってくれる。
「ほれ束早」
「わ、なに、冷たい」
「冷凍みかん。さっき売店で買ったんだ」
一つ受け取る。まだ固いみかんを、大吉は手の中で転がして溶かしている。
「ふふ、大吉、おばあちゃんみたい」
「旅と言えば冷凍みかんだろ?」
アナウンスの後、新幹線が動きはじめた。
あの夜、波旬は祓われた。
闇の中で、春香に呼びかけを聞いた。春香か、破旬か。束早はあの時、選んだのだ。
それまで夜になると頭に響いてきた怨嗟は、もう聞こえない。目を閉じても、波旬の存在は感じられなくなっていた。
「兄妹で京都へ行くって、少し変な感じ。学校、行かなくてよかったの?」
「いいだろ、一日ぐらい」
「帰ったら多分春香がむくれるわ。自分も行きたかったって」
「妹と二人旅がしたかったのさ」
大吉がおちゃらけた調子で言った。
嘘、心配してくれたんでしょう。束早は隣の兄には聞こえないよう唇だけで、ありがとう、と言った。
他の人には普通に言えることも、兄妹だと気恥ずかしいときがある。きっと大吉もそうで、だから素直に心配だなどとは口にできないのだ。
新幹線を降り、バスを乗り継いで目的地に向かう。市街から遠ざかるにつれ、バスの本数は減っていった。
山の麓のバス停で降車する。
「帰りのバスは二時間後にあるな。それを逃すと、さらに二時間後か。一本逃すと、もう一ヶ所の方に行けなくなるな」
日帰りの予定だ。
電車賃は幼少から貯めていたお年玉で工面できたが、宿泊は無理だった。
親戚付き合いがほとんどない新田家では、お年玉は母がくれるものが唯一なのだ。
山中を入っていく。
束早が前を行く。目的地への道は束早しか知らない。
怨嗟と共に流れ込んできた、破旬の生前の記憶。
「ここだわ」
「この崩れかかった岩が、入口を塞いでいたのか。中は覗けそうだが」
近くに断層が見られた。地殻変動による褶曲でできた洞窟のようだ。
「奥は、二畳分もないんじゃないか?」
崩れかけた岩戸を覗き込んでいた大吉が顔を離す。
「波旬はここに閉じ込められたのね」
束早は岩戸に近づいた。目を閉じ、額をくっつける。
「……なにも感じない。わかってはいたけれど」
元々大吉や春香と違い、霊や妖を見る力はなかった。あったとしても、ここに波旬がいた痕跡を感じられたかはわからない。
「もう一ヶ所の方へ行きましょう」
「大丈夫か? 少し顔色が悪くないか」
「へいき。探したいの、波旬がいた痕跡を」
少しだけ市街地の方へ戻った。
そこから宇治方面へ向かった。陽は中天を過ぎ、傾きはじめていた。
バスに揺られる間、束早は破旬と出会った時のことを大吉に話した。
「班ごとに自由行動する時間だったけれど、私は平等院に来たところで一人で残ったの」
自分に気を使う班のクラスメイトから離れたかった。五人組の班で、他の四人はいつも一緒にいる友達グループだったのだ。
学校では基本、一人で過ごしていた。一昨年までは、休み時間になるとしばしば春香が来てくれた。それがなくなっても、一人でいること自体は苦ではなかった。
同級生に距離を置かれていたのは、彼らにとって束早が"普通の子"ではなかったからだ。
父との記憶はなく、母は水商売で稼いでいた。
そのことを悲観したり疎んだりはしなかった。はじめからそういう家族のかたちだったのだ。なにより、兄がいた。
「一人になってスケッチブックで風景を描いてたら、強い風が吹いて。その時に風じゃないなにかが、私の中に入り込んできたの」
「それが波旬だった」
束早は頷いた。
視る力はなくとも、大吉と春香を通じて妖の存在はずっと近くにあった。
それまで二人から聞いてきた話で、自分が憑りつかれたのだとはわかった。
「はじめて波旬の声を聞いたのは、あの事件の日。白河君に封じてもらってからは、声というよりもっと漠然とした、感情みたいなものが伝わってくるようになった」
その感情の大半は、暴風のように吹き荒れる怒りと憎しみだった。
その嵐が熄む、台風の目に入ったみたいな瞬間があった。
そこで聞いたのは、慟哭だった。深い深い、哀しみ。
「もしなにかが少し違えば」
汚名を着ても家族を守ろうとしてくれる兄がいなければ。
どんなことがあっても明るく笑いかけてくれる母がいなければ。
分け隔てなく接してくれる無二の友達がいなければ。
「私も波旬みたいになっていたかもしれない」
平等院からほど近い場所にある、朝日山に登った。
喉がからからに乾いていたけれど、水は飲まず、足を前に出すことにのみ専念する。
「ここだわ。多分、この樹」
憎しみの嵐の途切れ目に聞いた慟哭。同時に垣間見えた記憶の場所。
「ここで波旬は母親と暮らしてた。人里からは身を隠してひっそり。それで夕方になると、この樹に登って宇治川を眺めていた」
束早は樹の幹に触れた。樹皮が枯れて罅割れた古い樹だ。
「記憶ではもっと若い樹だったのに」
「天狗の寿命は人よりずっと長いらしい。数百年とか」
「そうなのね。なら、この樹からの景色も変わってしまっているのかしら」
束早がしんみりと言うと、背中を優しく叩かれた。
「それを確かめに来たんだろ。安心しろ。落ちてきたら受け止めてやる」
くすりと笑った。
「肋骨、まだ治ってないでしょう。平気よ、これでも運動神経はいい方なんだから」
束早は靴と靴下を脱ぎ、低い枝に手をかけた。大吉が下から押し上げてくれて、その上の枝にも手が届く。
樹の中ほどまで登った。時間もちょうど、波旬が宇治川を眺めていた頃だ。
夕陽を背に、市街のある方角を望む。宇治川の流れはほとんど変わらない。しかし。
「やっぱり違うわ。波旬の見た光景は、残っていない」
涙が流れてきた。
どれほど探しても波旬の生きた痕跡は残っていない。
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