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闇医者は入梅に焦がる

于静 ⑦

　上海の煌びやかな夜景。
　特別綺麗だとも思わなかった。
「董娜、こっちへおいで」
　于静が座ったままチェアを引き、身体を開く。緋色の漢服で着飾った董娜が、脚を揃えて片膝に座る。
「昨日はありがとう。すまなかったね、小間使いのような仕事をさせてしまって」
「構わないわ。春香さんたちと商城を冷やかして歩くの、楽しかったわ」
「楽しかった、か。それはよかった」
　于静は董娜の緑青の髪を掬い上げる。
　まだここに心はない。
　あるのは『董娜』との記憶や性格パターンをインプットした人工知能だ。
　けれど、いつか。
　于静は董娜の髪に口づけをした。
　中身は作り物だとしても、この髪は、身体は、『董娜』のものに違いないのだ。
　于静はデスクの上にある透明な気密カプセルに手を伸ばした。
　水素とメタンを充満させたその中に、冥王星の石を収めていた。
　ほんとうの価値も知らず、この石を狙う好事家がいた。
　その好事家が雇った刺客を足止めするため、用心棒を雇った。そして自ら石の受け渡しに赴いた。
　それらはすべて、陽動だった。
　本物の石は人知れず豫園商城に運び込まれ、董娜の手を経て、この部屋に持ち込まれた。
「んっ」
　髪から首筋へ唇を運ぶと、董娜がくすぐったそうに腰を捩る。
　この反応も含め、董娜の言動はすべて自律プログラムに基づいていた。
　于静とそうでない人間で、態度が微妙に変化するのも、プログラムの一つでしかない。
「お取込み中のとこ悪いな」
　影になった部屋の一角から、声と共に男が姿を現した。
「わぉ、いつのまに部屋に入ったんだい。まったく気づかなかったよ。叢から出てきた虎に会った気分だよ。今日もウェットスーツを着ているんだね。そんなに着心地がいいのかい？」
　于静が捲し立てると、男が前髪を掻き上げ、口元に冷笑を浮かべた。
「于静、俺と喋る時はその芝居はなしだと、前に言ったぜ？」
「そうだったね」
「もう一つ。俺が常にウェットスーツを着ているのは、いつ返り血を浴びても簡単に洗い落とせるからだ」
「実に合理的な考えだね」
　身体に密着したウェットスーツは、その下にある男の筋肉で隆起している。
「それで、萬丈ばんじょう、何の用かな？」
　萬丈は、窓際に立ち街を見下ろす。
「うちの稼ぎ頭が回収を失敗したっていう、その石を拝みに来たのさ」
「稼ぎ頭というと、あぁ、やっぱりそうか。『羽子はご』の子だったんだね、あの赤いポンチョの彼女は。通りで見覚えがあると思った」
「てめえで切り刻んだ相手すら忘れるとは、やはりイカれた男だな」
「人聞きが悪い。仕事で手術を手伝っただけさ。羽子は僕のお得意様だ」
「亜人の身体を切り刻み、有用な機能だけを人間に移植する。それで強くなった気でいるのだから、羽子の一党は好かねぇ」
「鍛錬を積みに積んだその身一つで地位を築いた君からすると、そうだろうね」
　萬丈が率いる傭兵団は、いまや世界各地の戦場で暗躍している。
「その石か。ただの石ころに見えるな」
「おや、君もこれがなんなのか知っている口ぶりだね」
「うちの情報部は有能でな」
「まだ眠ってる。目覚めるのは、当分先さ」
「『常夜街バロム・シティ』の連中を用心棒の使う価値はある、か。そういえば、その場にいたっつうもう一人の若い男ってのは誰だ」
「ふふ、それが気になって来たのかい？」
　無限に等しい可能性が眠る石だろうと、萬丈にとって石は石でしかない。
「彼なら、君も気に入るだろうね。吸血鬼の血を飲んでアレッシオを倒した、例の彼だよ」
「噂は聞いたがな。あの美食家がそう容易く敗れるとは思えねえ。どんなやつなんだ、そいつは」
「ここの監視カメラの映像でよかったら、姿を映したものがあるよ」
　于静は董娜に頼み、壁に内蔵してあるスクリーンを展開し、大吉が訪れた時のロビーの映像を映す。
「こいつは」
「彼は新田大吉。とっても面白い子だった」
「くくく、なるほどなぁ。もうこんなにデカくなったのか」
　萬丈が片腹を押さえ、もう一方の手で口元を覆う。それでも漏れてくる嬉々とした笑い声。
「于静、風を浴びに出ようか」
「ふむ、構わないよ」
　于静は立ち上がり、扉に向かおうとする。
　肩を掴まれ引き留められた。
「こっちの方が早い」
　萬丈が窓に向かって手刀で大きな円を描く。強化ガラスが、丸く斬り取られた。その穴から萬丈は于静を抱えて躍り出た。
　街中にある、朱塗りの城塔の尖端に降り立つ。
　于静はそろりと瓦の屋根に足を降ろした。
「あいつは俺の息子だよ、于静」
　全身で湿った夜気を吸い込み、萬丈が言った。
「息子って、確か一緒に傭兵稼業をしてたんじゃ?」
「それとは別のだ。昔日本で産ませて、数年一緒に暮らしていた。しかし、そうか、あのちびが、もうあれほど」
　萬丈は目を閉じ、瞼の裏に焼き付けた大吉の姿を見ているふうだ。
　名字が違うのは、大吉が母親の姓を名乗っているからだろう。萬丈の子だと聞いて、于静は合点がいった。
『羽子』の者に水路で奇襲を受けたあの時。于静は気配さえも感じなかった。
　医者の身とはいえ、仮にも裏の世界を渡り歩いてきた。その自分が感じ取れなかった殺気に、大吉は先んじて察知した。
　吸血鬼の血にそんな力はない。一介の高校生ができる芸当だろうか、と疑問だった。
「君の息子だったのか。なるほど、英才教育を受けて育ったわけだ」
「俺が子育てできるように見えるのか？　ちびの頃に、何度か遊んでやっただけだ。相撲や鬼ごっこ、かくれんぼなんかしてな」
　その身に世界屈指の戦力を宿す男、萬丈。その遊びの中には、本人も無自覚のうちに、闘う様々なノウハウが混じっていたに違いない。
「久しぶりに、日本に帰ってみるか」
「好きにしたらいい。でも帰るなら気をつけるんだね。日本には、君と同じような猛獣がもう一匹いる。下手にうろつくと、その尾を踏むよ」
「カネにならん面倒はごめんだな」
「そうは言っても行くくせに」
　いま萬丈が抱いているであろう気持ちは想像できた。
　董娜と出会った瞬間の、あの気持ち。退屈で色を失っていた世界がぱっと華やぐ、あの感覚。
「わかるよ。焦れるよね」
　死んだ人間は生き返らない。そんな不偏の法則さえどうでもよくなるほど、身を焦がす衝動。
　董娜。丸く切り取られた自室の窓際に立って、こちらを見ていた。
　于静は城塔の屋根から彼女に向けて大きく手を振った。