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井ノ上

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闇医者は入梅に焦がる

于静 ②

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「申し遅れました。于静|《うせい》の世話役を務めます、董娜|《とうな》といいます」
「新田大吉です」
「森宮春香です」
「フェンガーリンや」
「日本から来られたお客様ですね。話は聞いています。こちらへどうぞ」
大吉が腕をつけ直すのを手伝ったキョンシー、董娜は折り目正しく挨拶すると、三人をエレベーターへ促し、各階のボタンの前に立った。
「日本語、お上手ですね」
エレベーターが上昇していく。春香が話かける。
「全世界の言語を習得していますから」
「えっ、すごい! キョンシーってみんな頭いいんですか?」
「他のキョンシーに会ったことはないのでわかりかねます」
ここまで一貫して、董娜の声には抑揚がない。
まるでロボットと話してるみたいな感じだった。
「フェンガーリン、キョンシーってのは亜人なのか?」
「さぁな」
「さぁな、て」
「ウチかて見るのはじめてやし。でも要は死体なんやろ? 生き物ちゃうんなら、ちゃうんとちゃう?」
「え、でも董娜さんはお話できるし、生きてるんじゃないの?」
春香が小首を傾げる。
「知らんがな。本人に聞いたらええやろ」
フェンガーリンは顎で董娜の背中を指す。
そこでエレベーターは最上階に到着した。
董娜は自分について話されていたにもかかわらず無反応で、エレベーターを降りた廊下の先にある扉を示した。
両開きの扉には中国らしい格子模様の障子窓がはめ込まれている。
「こちらが于静の居室です。どうぞお入りください」
扉が開けられ、中へ入った。
「やぁ待っていたよ、大吉クン。どれどれ、まずは採血といこう。お、そちらが太陽を克服したっていう吸血鬼かい。へえ普通の吸血鬼より肌色が濃いね、興味深い」
すごいぐいぐい来る。
見たところ三十代だろうが、距離の詰め方が幼児のそれだ。舐めるように顔を近づけられ、大吉は思わず一歩後退った。
「なんやねんおのれ、急に近いわ、キッショ!」
「ちょ、フェン、駄目でしょ。そんなこと言っちゃ」
「せやかて春香、いまこいつの鼻息がウチの肌撫でたんやで。初対面ぞ。いや初対面やなかったとしても嫌やろ」
「でもキショイは駄目!」
董娜は言い合っている二人を無視して横を通り過ぎる。于静の傍に立つと、その頬にぺちりと手を当てた。
「于静、また悪い癖が出ているわ」
「おっと、つい興奮してしまった。すまないね、君たち。太陽を克服した吸血鬼とその血を飲んだ人間なんてまずお目にかかれないから、つい知的好奇心が暴走してしまった」
于静は大股で三歩下がってから咳払いをし、佇まいを正した。
「どうもはじめまして。僕は于静。自分で言うのもなんだけど、この通り名前に反して落ち着きのない男だよ」
ぼりぼりと頭を掻くと、ふけがぱらぱらと舞う。白のパナマシャツはいつから着ているのか、皺だらけで襟元が変色している。
「于静」
「ん、なんだい董娜。おや、左腕の角度がおかしいね。ああ、昨日機材を運び込んでもらったときに壊れてしまったところか。これはちゃんと処置しないといけないね」
「それよりまずシャワーを浴びてきなさい。お客様がお見えになる前に済ませておくよう言ってあったでしょう」
「あっはっは、そうだそうだ、机の上の物が気になって整理しだしたら忘れてた。いってくるよ!」
于静はぱたぱたとスリッパを鳴らし部屋の奥へ姿を消す。
「申し訳ございません。そちらにおかけになってお待ちください」
董娜は大吉たちに部屋の一角にあるソファセットを勧め于静の後について行った。
革張の三人掛けソファが二対と、その間にガラスのローテーブルがあった。
北東の壁は上海の夜景を見渡せる全面ガラス張りになっていて、その手前に于静のワークデスクが置いてある。
整理していたという割に、その上は書類や本、小物が散乱している。
中でも一番目を引くのは、ソファセット側の壁に飾られた水彩の肖像画だ。
「大吉、このひと董娜さんだよね。なんだかすごく、幸せそう」
二十号サイズの額の中で、董娜は優しく微笑んでいる。その表情はたんぽぽのように温かい。
「顔は同じなのに、別人みたいだ」
大吉も小声で応えた。
「うん。でもさっき、于静さんに対してはちょっと違くなかった? なんだか素っ気ないけど優しい、みたいな感じで」
「そう、その通り! そこに一目で気づくとはなかなか鋭い観察眼をしているね! ええと君はどちら様だったっけ」
シャワーから飛び出てきた于静が、小声で話していた大吉と春香の会話に加わってくる。そう、本当に飛び出てきたのだ。
「え、きゃっ、なに大吉」
大吉は咄嗟に春香の目を手で覆う。
「なっんでまっぱやねんおどれー!」
ブチギレたフェンガーリンが放ったローキックが于静の尻に炸裂し、パァアアンといい音が鳴り響いた。

数分後。
董娜に浴室へ引きずり戻された于静は、身体を拭いて黒いスポーティなジャージに着替えて戻ってきた。
「はぁ、僕はどうにもシャワーが苦手でね。ろくに浴びないでよく董娜に叱られるんだ」
于静は窓際のデスクから銀製の長細いペンケースのようなものを持ち出し、大吉の斜向かいにある一人掛けのソファに腰かけた。
その箱から、注射器を取りだす。
「さて、それじゃあ大吉クンの治療を行おうと思う」
「おお、急に本題で来たな。さっきの董娜さんがどうとかって話はいいのか」
「君たち一泊二日なんだろ? あまり無駄話もしてられないし、まずやることやっちゃわないと」
どの口が、と思うも大吉は黙って同意した。
なにはともあれ、やっと治療を受けられるのだ。
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