灰色狼は冬の庭にあそぶ

やしろ慧

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 冬の女神の庭には、子供たちが遊ぶ。

 冬の女神、ルーファは数頭の灰色狼を従えながら氷で出来た王宮の回廊を滑りもせずに確かな足取りで歩いていた。

 時の王宮は季節をつかさどる女神ごとにその姿を自由自在に変える。氷と雪の、青と白で装飾された冬の城は、ルーファ自身を模したもの。女神の青銀の不思議な色合いの瞳は混じりけなく澄んで、髪は無造作に腰まで流されており、女神が持つ色と、城の色どりは寸分のずれもなく調和していた――。
 城の主が春の女神、イシュタリであれば、この回廊は緑に溢れた姿に変貌し、女神の一足ごとに花弁が舞い、柔らかな香が薫るだろう。

 冬の王宮に余人はいない。

 神々の眷属も、王宮に仕える人間たちも、ルーファは吹雪と氷を使って脅して――追い払ってしまっていた。
 だから冬を謳歌する王宮で息をするのはルーファと灰色狼の群れだけ。

 そして――――。

 ルーファはきゃらきゃらと笑い声の絶えない広場へと足を向けた。
 氷粒が絶えず撒き散らされる噴水を囲んだ、十数人の子供達の声が幾重にも重なって囀(さえず)りのよう。ルーファは微笑みを僅かに口の端に乗せる。
 明るい幼女の声に、春の女神、イシュタリの事を連想してしまい、慌てて首を振った。

(今はイシュタリの事を思い出しては、ならないわ)

 気を取り直した女神が広場に姿を現すと、子供達はワッと歓声をあげた。

「女神さま!」
「女神さまだ、こんにちは!」
「女神さま、遊ぼうよ!」

 悪戯を思いついた子どもたちは雪合戦にルーファを誘い出す。
 ルーファが笑って応じ、いくつもの雪玉を盛大に浴びて悲鳴をあげると、声を立てて喜んだ。
 負けじと量産した雪玉を子供達全員に律儀に当ててやると、彼らは一様に喜び、笑い――まるで仔犬のように雪の上を跳ね回る。

「アーシュ、足は痛む?」
 人参色の髪の子供に尋ねると、そばかすだらけの顔で少年は笑った。
「ちっとも!足が羽のように軽いや」
「ミーシャ、お腹は苦しいかしら?」
「ぜーんぜん。女神さま、変なことを聞くのね?」
「いいいの、いいのよ――皆が忘れているなら、それでいいの……」

 子どもたちに痛みはないか、苦しみはないかと聞き――彼等は口々にどこも、と答える。
 冬の女神は満足して子供達の群れから離れた。
 雪合戦に加わっていない子供に気づいたからだった。

 灰色の髪と目をした――それは、灰色狼と同じ色味だった――一人の少年が、女神をじっと見つめていた。

「ヨハン、ヨハンは遊ばないの?皆と遊んでいらっしゃい」

 ヨハンはゆるゆると首を振り、傾げた。

「冬の君」

 少年は、悲しそうに言った。「女神さま」――ではなく、女神に近しい者たちがルーファを尊敬と親しみを込めて呼ぶ呼称で。
 ルーファはつとめて明るく気づかぬふりで少年に聞いた。

「どうしたの?痛い所も悲しいことも、もう、ないでしょう?」
「冬の君――」

 悲しむような、責めるような瞳で見上げられ、ルーファは眉を下げた。

「冬の君、冬はもう、終わらねばなりません。春がもう、そこまで来ています。あなたは神々の庭に帰らねば……」

 凡そ子供らしからぬ口調に、冬の女神は美しい顔をしかめた。

 「嫌よ、許さないわ。――この冬は終わらないの。春は来ないし、雪も氷も溶けはしない。永遠にここは私の息吹に閉ざされる」
 「ニルヴァーシュも?」
 少年は悲し気に、聞いた。
 「冬の君が愛したこの国も、氷に閉ざされてよいと?」
 
 冬の女神はたじろいで、それでも是ときっぱり、口にした。
 
 「そうよ、ずっと冬で何がいけないの?ヨハン、あなたは言ったではない。冬が一番綺麗だって」
 「あなたが治める時期が一番美しい季節です、冬の君。けれど、すべての季節を愛するあなたがこのような振る舞いをするのは正しくない。まるで春を憎んでいるような――」
 「そうよ、永遠に春など来なければいいの。そうすれば……」

 女神が怒りと悲しみをないまぜにした瞳で少年を睨みつけた時、ウォゥと女神を守る灰色狼が次々と唸り、吠えだした。
 ルーファは弾かれたように顔をあげる。

 『主、誰カ、ヒト来タ……。主ノ許シナク、ヒト!』
 『噛ミ殺セ』
 『ノドヲ喰ラエ』
 
 「狼たちよ、お行き。不埒な侵入者を捕えておいで――――」
 
 嫋やかな女神は苛立ちを隠さずに尖る牙をもつ眷属(おおかみ)達に鋭く命じた。
 
 「冬の君」

 短く少年が静止したが、女神はさっと踵を返して振り返らない。

 独り残された少年は女神の消えた庭を見渡した。
 瞬く間に、噴水は凍りつき、光の帯は消え失せた。

 仔犬のように駆けまわっていた子供たちはまるで糸が切れた人形のように佇む。
 彼らは忽ちのうちに、その場で固まり爪先からつむじまで青と白に――氷の彫像にその身を変貌させていく。
 笑い声が絶え、ただ木枯らしが吹き荒れる庭で少年は一人曇天を仰ぐ。
 少年もまた、足下から這い上がる不思議な力によって、体温を無理やり奪われていく――。

 「……ぁ」

 口元から吐息のように誰かの名を呼んだ刹那、彼もまた、心の臓を凍てつかせて、物言わぬ氷の彫像と成り果てた――。




 ◆◆◆
 「久しぶりね、ニキ――お前を招いた覚えはないけれど」
 「冬の君、相変わらずお美しい――」
 「おだまり、侵入者め」
 
 小熊ほどはあろうかという非常識な大きさの灰色狼に襟首を噛まれ、獣の息遣いと生温かな液体――うんざりすりことにおそらく涎だ。を生々しく首筋に感じながら王の使者、ニキは軽口を叩いた。
 ルーファの説得を試みるために王宮に忍び込んだニキだが、あっさりと灰色狼達に捕まってしまった。

 ニキは人間のころ、詐欺と盗賊を生業にしていた。それを面白がった全能の父にとりたてられ、今の職位にある。
 同僚二人よりかはよほど簡単に冬の女王を出し抜けると思っていたのだが、やはり、そう、簡単なものではなかったらしい。

 「お喋りなフェルナンの次はお節介なサント。最後は冬嫌いのおまえが来るとは――、私は退かぬと言っているのに。さあ、使者殿をどうしてくれよう」
 「冬嫌いなどと、誤解ですよ冬の君。私は女神たちの忠実なる下部。どの季節も同様に愛していますとも――ただ、その、少しばかり、寒がりなだけで」
 
 軽口はお気に召さなかったのか、ルーファが視線をくれると、ニキの横で待機していた別の灰色狼が一声唸ってニキの右ひざをカプリと甘噛みする。
 叫べば食いちぎられそうな予感がして、チクリと刺さる牙をイテェと思いながら、ニキは体に緊張を走らせるに留めた。
 冬の女神は忌々しげにニキをねめつける。

 「嘘ばかり――誰も彼も冬を愛してなどいない。ニルヴァーシュの民だとて、私がこの王宮を去り、春の女神イシュタリの頭上に花冠が掲げられるのを待ちわびている――そんなことは知っているわ」

 ルーファの癇癪を眺めニキは困ったように息をついた。

 「如何なされたのです、冬の君、まさか愚かしくも、いまさらほかの女神型に嫉妬されたわけではありますまい。たかだか冬が人間たちに人気がないと言うだけで――?」
 「いいえ、そうよ。嫌になったの。愛されない冬が。――嫌われものの季節を冠することが。だから、人々に思い知らせてやるわ。ずっと冬と共にあることがどういう事か――!」

 青銀の瞳が怒りに色を濃くする。ニキは……女神の言葉を嘘だと感じた。ルーファにしては露悪的だ。

 「ご不満があるのなら、こんな狭い場所で癇癪を起すのではなく、神々の庭で全能の神にお話しなさい。あなたの言葉なら、決して王は無碍にはなさりますまい」
 ルーファは鼻を鳴らした。
 「なぜ、私が、行かねばならないの――王が用があるのならば、ここへ出向けばいい!」
 「冬の君――まだ、冬の季節が終わって十日です。今その座を春の女神にお渡しになれば王はお許しになるでしょう。しかし、あなたがそうも頑なでは、王だとてあなたを断罪せねばなりません。王に悲しみを背をわせるおつもりですか?」
 「そうよ、いけないの?」
 きろりと睨まれて、ニキは反論した。
 「……イシュタリは泣いていましたよ」

  ぴくり、と青白い頬が引き攣る。ルーファとイシュタリは姉妹のように仲の良い間柄なのだ。

 「おだまり、ニキ――おまえの言葉は不快です、私の許しなく何も言葉を紡ぐことは許しません」
 開こうとしたニキの唇は凍り付いてまるで石のごとく、動かなくなってしまう。
 「――冬の間、永遠に沈黙を守るがいい!」

 女王は言い捨てて、灰色狼たちに冷たく命じた。

 「その軽薄者を地下牢へ連れてお行き。王が私を罰しに来るまで……」




  ◆◆◆
 石でできた固い石牢に放り投げられ、ニキは呻いた。
 二頭の灰色狼は牢を器用にくぐり抜け、あろうことか前足で器用にガチャリと鍵をかけた。
 中にヒトが入っているのではあるまいな、とニキが緑の瞳に強い疑いの目を向けると、巨大な灰色狼は牙をむき出しにした。警戒でも威嚇でもなく、どうやら笑ったようだった。
 出せ、といわんばかりにニキが鉄格子を掴んで顔を突き出すと、ざらついた巨大な舌でべろりと口元をなめられる。
 
 「っわ、っぷ」

 気色悪いが――女神の拘束を解いてくれたのだろう。灰色狼はただの獣ではない。女神の眷属だ。
 痺れが残るながらも再び動かせるようになった口と舌を指で確かめていると、灰色狼がニキをもの言いたげにじっと見つめている。

 「なあ、狼の長よ。あれだけ真面目に責務をこなしていた方がどうされたのだ。おまえ、理由を知っているだろう?教えてはくれないか」
 灰色狼は首を振った。
 『知ラヌ。我ラハ主ニ従ウダケ……』
 「――このままで拙いのはおまえでも分かるだろう。冬の君は捨て鉢になっておられる――今はまだ我らだからよい。王がお出ましになれば、冬の君も無傷では済まぬのだぞ」
 『主ハドウナル…」
 ニキは脅すように目を細めて見せた。
 「我らが王は雷の槍をお持ちだ。怒りに任せて春の君の身体を貫くかもしれん――」

 灰色狼は低く唸る。
 その音もどうやら、少し笑った風情だった。苦笑するかのように尾を振る。

 『主ガソレヲ望ムナラ……ソレモ良イ』
 呟くように言うとゆっくりとした足取りで、去っていこうとする。ニキが落胆の息をついていると、灰色狼は、立ち止まって、チラリとニキを見た。
 
 『我ノ仲間ガ、コノ冬ノハジメニ死ンダ――森番ノ男ト共ニ――』
 「……」
 『主ハ、嘆イテオラレタ――』



 灰色狼の去った場所を見ながら、ニキはため息をついて石牢に腰を降ろした。
 サントから毛皮を強奪しては来たものの、石の床から伝わる寒気は防ぎようもない。冬が嫌いなのではないが、己は確かに寒さに弱いと苦笑を浮かべた。
 
 手袋を外して、小さな粒を見つめる。
  
 冬の城はルーファの領域。
 春の女神、イシュタリだとて、ルーファの許しなくば、足を踏み入れることは許されない。
 全ての植物が眠りについた城に、イシュタリが干渉することは出来ない――。
 唯一例外が……ルーファの許しなく足を踏み入れる事が出来る者があるとすれば、それは王の使者だけだ。
 フェルナンとサントも『王の使者』だが、彼らはどちらと言えばニキの護衛と言う側面が強い。
 真の意味でルーファの力を破って侵入できる力を王から与えれているのは、ニキだけになる……こうして捉えられてはしまったものの、ルーファの目を逃れて城に忍び込めたのはその為だ。
 
 「追い出されなくて、よかったな……」

 息をつく。
 本当にルーファがニルヴァーシュを冬のまま閉ざしていたいのならニキを叩きだすはずだが、女神はそうしなかった。
 ニキを……正式な王の使者を牢に監禁したとあらば、今まで目こぼしをしていた王だとて、女神を罰するために来ざるを得ないだろう――――。そして女神をそれを望んでいるのだ。

 (女神は、断罪されたがっている)

 フェルナンが指摘したことに、ニキも賛同せざるを得なかった。
 何故だと思いながら、掌の上に置かれた粒を握りしめ、イシュタリの警告を反芻した。

 「一思いに飲め、か」

 『痛いわよ』
 そう、春の女神はニキを脅した。
 『大丈夫ですよ』
 とフェルナンがにやりと笑う。
 『こいつ痛いの好きですからね。しかも美女から受ける痛みが好物と――』
 全てを言い終える前にフェルナンの花の顔(かんばせ)は左右の同輩二人から挟み撃ちで殴られた。

 任務の為だ仕方ない、と意を決し――手中の黒い粒を、飲みこんで嚥下する。小さな小石ほどある種は覚悟する間もなく肚に落とされて――カッと身の内が熱くなった。
 
 「く、ウッ……あああ」

 予想したような灼熱の痛みは、なかった。得体のしれない何かが蠢く異物感と恐怖に耐えていると、まず変化が起きたのは指先、だった。
 爪が形を変え若木の色に染められたと思った瞬間、形を変えて伸びていく――芽吹いたと感じた瞬間、うそり、と指が、腕が、髪が違うものに変化していく。
 
 「あああ、あ」

 指先が伸びていく、枝と枝が絡まって強固な何かに変化していく。指先の熱さに涙を流しながら閉じることが適わぬ瞳で見つめているとチリリと指先に感じたのは痛みだった。指が己ならざる者に変化して、そして裂けていく痛みと恐怖そしてどこか恍惚とする感触に身をゆだねていると――指先は、色に染められた。
 薄い桃色だ――、と朦朧とする意識の中でニキは思った。
 馨(かぐわ)しい香りに包まれて、王の使者は意識を手放した――。
 
 どれだけの時間、そうしていたのだろうか。靴音に目を覚ますと、にやけ顔の男が面白そうにこちらを見下ろしていた。
 
 「こりゃあ、――見事な花が咲いたもんだ。ニキ、どうする、このままその姿でいるのも悪くないんじゃないか?」

 軽口を詰ろうちと開いた口から、声が出ない。背後に控えたサントが抱え上げた少女を優しく石牢に下ろしながら、ニキに駆け寄った。
 春の女神はニキに一粒の種を渡した。ヒトの体を使って育ち、花を咲かせるニルヴァの木の種を。咲くはずのない城に咲いた木の気配をたどって、春の女神は城へ入ることが出来たのだ。
 むろん、護衛二人も伴って。
 
 「意識はあるか、ニキ――」

 自らの肉体を苗床にして、植物の種を急速に成長させたニキは頷く代わりに眼球を動かした。常に冷静を旨とする草原の男は、しかし、目の前の――同僚を苗床に木が育って――むしろニキ自体が木の幹に取り込まれているかのように見えた――戸惑っているらしかった。
 愛用のナイフを取り出して、しかし、どうしてよいものかわからずに戸惑い意味もなく利き手を上げ下げしている。

 「待って、切らないで――」
 イシュタリがニキに近づき、枝となったニキの手にそっと頬を注意深く手繰り寄せた。
 「よく、私を呼んでくれたわ――」
 少女のいたわりの対象は、恐らくニキではなかったろう。
 こんな極寒の地で咲いた、植物への称賛だ。ニルヴァの木は、春の女神の微笑みを受けて、ニキに根付いていた若木がまるで砂のように、さらさらと崩れ去った……。

「春の君――」

 けほ、と、王の使者は喉の違和感をぬぐうように咳を繰り返す。違和感の元、花の種をニキが吐き出すとイシュタリは迷わずにその種を拾い、白い布で包むとニキへ手渡した。

 「よくやりました、ニキ。これはあなたにあげましょう。ニルヴァの種は神聖な物。ヒトを苗床にして育つ木ではあるけれど、その逆もある」
 「逆とは?」
 「瀕死の時にそれを飲むと言い。種の力があなたを生かすでしょうから」
  瀕死の時、がないといいが……、とうんざりしたが、ありがたく頂戴し、懐に種をしまう。
 「――それで、ルーファはなんと?」
 「やはり、神々の庭にお戻りになるのは嫌だと――」 

 そう、と三者三様が意気消沈する。
 ニキは違和感の残る体をもぞもぞと動かしながら、灰色狼の去った方角を見つめた。

 時刻は夜。

 曇天を縫うようにして気まぐれに姿を現す月に向かって灰色狼の群れが吼えている。
 ニキはぽつと、と口にした。
 ――ただ、と。

 「灰色狼の長が、妙な事を言っていました――」

 三人の視線が集まり、彼は少し口を曲げて考え込んだ。

 「冬の初めに、狼と老人が死んだのだ――と」 
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