聖ロマニス帝国物語

さくらぎしょう

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80. こじ開けたくない記憶

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 ジュエリアとシベリウスが戦場に行けば、ジョセフィーヌが言っていた通り、ヴェルタ軍は壊滅状態だった。マーレ族の者達の鎧は比較的綺麗で、戦場の真ん中に立つサイオンとその馬だけが、全身血糊でべっとりとしていた。

「あ……あれが……鬼神」

 ジュエリアは身震いした。遠目でもサイオンの人が変わっている事がわかった。あれが、授業で習ったヴェルタの獰猛な血を表わす姿だろうか。

 すでに決着はついているのに、サイオンはまだ誰かを探している様子だった。振り返った拍子にジュエリアとシベリウスが目に入ったようで、サイオンは陣営に戻って来た。

「アルベールを取り逃がした。あの卑怯者は、開戦してすぐに雲隠れしたかと思えば、やはり脱走したな」
「雲隠れといっても、川に向かうかポーチュラカに向かうかしかないから、そう簡単には逃げれそうもないけど……ねえ、もしかして、死体に紛れていない?」

 ジュエリアの言葉にサイオンとシベリウスはあっと目を開き、急いで馬を走らせようとすると、死体の山からまさにアルベールが出て来て、うろついていた無人の馬を捕まえていた。

「アルベールだ!!」

 シベリウスは声をあげて馬を走らせ、陣営に置かれた槍立てに立て掛けられていたランスに向かって片腕を伸ばして掴み取る。幼い頃は両手でも掴んでいられなかったあのランスを、今では片手でしっかりと握りしめて構えられる。そしてアルベールの逃げる方向に馬を向けると、腹を蹴り、アルベール目指し全速力で走らせ始めた。

 前方を馬で走り逃げるアルベールは、シベリウスが追いかけてきたことに気づき、馬の速度を上げる。そして時折後方のシベリウスを確認しながら顔を歪ませた。

「くそっ!」

 アルベールも馬の腹を蹴っているが、速度を更に速めるためムチも打つ。

「もっと早く走れこのバカ馬っ!!!」

 無我夢中で逃げるアルベールは、その先は国境の川である事をすっかり失念していた。アルベールは川が見え始めると思い出し、馬を止めて舌打ちをする。
 
 そして馬を転回させ、息を整え始めた。
 
 覚悟を決めたのか、鞘から剣を抜くと、シベリウスに向かって馬を走らせ始める。

 二人を追いかけていたジュエリアは、シベリウスとアルベールが互いに向かって走る様子が見えると、その光景が 馬上槍試合ジョストと重なり、動悸が始まり、呼吸も浅くなり始めた。

 ジュエリアの心はこれ以上その光景は見るなと騒いでいるが、もう今までの様に目を逸らして大切な事を見過ごしたくなかった。
 
 ジュエリアは片手で心臓のあたりを掴み、必死に目を開いて、しっかりと二人を見届ける。

 シベリウスとアルベールが交差する時、ジュエリアの頭の中に記憶が次々と浮かび流れ込んでくる。どれも幼かったシベリウスの悲惨な姿ばかりで、それを救う事も出来なかった自分。

「ああ……シヴィ……私……」

 ジュエリアは溢れる涙を手で拭い、視界を確保して二人の戦いを逃しまいと見守り続ける。

 どんどん思い出し始める記憶は、シベリウスへの甘酸っぱい想いや、アルベールへの恐怖心。こじ開けられなかった扉は、薔薇の日のジョストの後だった。
 あの日、シベリウスが血の海の中で意識を失い、ジュエリアも倒れて、その後城のベッドの上で目が覚めると、アルベールがベッドサイドに立っていた。

『お前のせいだ』
『……アルベール……さま?』

 アルベールは冷え切った目でベッドに横たわるジュエリアを見下ろしていた。

『お前のせいで弟は死んだ。申し訳ないと思うなら、シベリウスとの事は全て忘れ、私との結婚だけを考えろ』
『まって、シベリウスさまは死んだの?』

 ジュエリアは飛び起きようとしたが、アルベールに肩を掴まれ動きを封じられた。そればかりか、アルベールはジュエリアに顔を近づけ、悪意に満ちた表情で幼いジュエリアを威圧する。

『全部、お前のせいだ。いいか、シベリウスのことは忘れろ。思い出すな。忘れろ。忘れろっ! 忘れろっ!』

 いつもはにこにこと温和なアルベールからは想像もつかなかい姿だった。そのギャップにジュエリアは恐怖で身動きが取れなかった。

『でも……約束したの……一緒に薔薇の日をやり直そうって。彼は私を迎えにくるって……』

 アルベールはジュエリアの頬を叩く。

『お前は誰の婚約者だっ!!』

 ジュエリアはまだ六歳。十四歳のアルベールは自分よりもはるかに大きく、そんな相手から手を出され、怒鳴られ、威圧されれば、委縮せずにはいられない。瞳孔は縮み、身体は硬直している。

『全部、わ・す・れ・ろ』

 ジュエリアは全てを思い出し、震える肩を両手で押さえながら、食いしばる歯で唇からは血を流す。
 あの日の記憶と戦いながら、青ざめた顔でアルベールを睨みつけ、二人の結末を見届ける。

 空にアルベールの剣が舞い上がると、アルベールはそのままドサッと大きな音を立てて落馬した。

 地面はアルベールの頭と腹から流れ出る血で、薔薇の日の石畳の様に真っ赤に染まっている。

 シベリウスが馬から降りると、まだ少し息があり苦しんでいるアルベールに、最後の温情で槍を突き立てた。

 ジュエリアも馬を降り、よたよたとおぼつかない足取りでシベリウスに近づいていく。

「ジュエル?」

 シベリウスは急いでジュエリアに駆け寄れば、ジュエリアに両手で頬を包まれる。
 だが、彼女の視線はどこか遠くを見ていた。

「ごめんなさい……ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」
「ジュエル? どうした?」
「あなたは……死んでなかった」
「ああ、私は生きてる。ほら落ち着いて。私は生きているよ。体温だってこの通り……」

 そう言ってシベリウスは、自分の頬を包むジュエリアの手をそっと握り下ろし、彼女の唇にキスをした。
 温かくて、柔らかくて、優しくて甘いシベリウスのキスは、ジュエリアに体温以上の温度を伝え、彼女の心をみるみる落ち着かせる。

「シヴィ……あなたは……私との約束を守るために、どんなに大変な努力をしてフロリジアに戻ってきてくれたの?」
「え?」
「思い出したの。あなたと出会った日も、薔薇の日も、あなたに恋した日も、あなたと交わした約束も」

 シベリウスはその言葉を受け、心の中の霧が晴れて行く。えもいえぬ多幸感に満たされ、今までの苦労がすべて流される。
 薔薇の日に、ジュエリアに約束したあの時から、死の淵を何度見ても、どんなに苦しく辛い事があっても、ジュエリアが自分を覚えていなくても、約束を果たし、ジュエリアに愛されるためだけに生きてきた。

 シベリウスはジュエリアを抱きしめ、彼女の肩に顔を埋める。

「満たされすぎて……死んでしまいそうだ」
「え!? だめよ!!」

 慌てるジュエリアに、シベリウスはくすくすと笑って、さらに強く抱きしめる。

「何度だって約束できる。君のためならどんな約束だって守ってみせる」

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