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2)西日、射す
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雲一つない、暑い日だった。
「あ、春日! 相模しらねーか?」
「知らん」
一学期の期末テストも終わり、夏休みも間近という時期。
日直と委員の仕事で少しだけ居残りをした春日は、帰るために教室を出ようとしたところで、同じクラスの陸上部員に捕まった。
「なぁなぁ、春日からも相模に頼んでくれよぉ、陸上部来ないかって!」
「俺じゃなく、本人に言ってくれ」
陸上部員の懇願に、春日はため息をつくように返す。
相模はここのところ、放課後になると女子に加えて一部の運動部からも追い回されるようになっていた。見た目の通りに体力はなく、発作で頻繁に倒れる相模だったが、陸上部も舌を巻くほど足が速いということが分かったからだ。
転校当初はそんな様子を微塵も見せずにいたが、生来の負けず嫌いが出たらしく、体育の授業で百メートル走をした際、陸上部を置き去りにする走りを見せた。これを皮切りに開き直ったのか、授業では球技を中心に抜群の運動センスを披露し、六月頭に行われた体育祭ではリレーなどの各競技で大活躍。
その結果、各運動部がこぞって勧誘に訪れるという、相模本人にとっては頭の痛い状況となっていた。
──まぁ、自業自得に近いな。
陸上部を追い払い、春日は自分の隣にある、相模の席を見つめる。
自分と『一緒にいろ』と提案して以降、学校にいる間、相模とはよく行動を共にするようになった。だからと言って、一緒にいてもたまに読んだ本の話をするくらいで、特別に親しく話すわけでもない。
ただ周囲からは『よく一緒にいる』という印象を持たれるようになり、それを理由に相模の居場所を春日に聞きにくる者も多くなった。しかし、学校が終わるとすぐに教室を出ていき姿を眩ませるので、放課後は春日も相模の居場所は知らない。
さすがにそこまでは、保健委員として手を出す問題ではないし、さっさと家に帰って、大人しくしてもらっていたほうがいい。
春日は一人、北階段を一階まで降り、昇降口を出た。
夕方の五時を過ぎたというのに、空はまだ鮮やかに青く、蒸せるような暑さも落ち着かない。着ている制服は、グレーの薄手のスラックスに半袖シャツという夏服になったものの、少し歩いただけで額に汗が滲むような気温ではあまり意味がないように思える。
さっさと帰ろうと足早に正門へと向かったが、ロータリーを過ぎた辺りで、教室に辞書を置きっぱなしだったことを思い出した。
──持って帰ろうと思ってたのに、忘れてたな。
教室を出ようとしたタイミングで陸上部員に話しかけられたこともあり、ロッカーのものを確認し忘れたらしい。別に、辞書などあってもなくても大きく困るわけではないが、念のため持って帰ろうと思い直し、踵を返した。
通り過ぎたロータリーの横を再び通り、職員棟の出入り口前を通る。すぐ近くの武道館を脇目に、その奥にある教室棟の昇降口へ足を向けた。
柔道部と剣道部がそれぞれ部活に励む武道館からは、威勢のいい掛け声が小さく漏れ聞こえる。
春日は小学生の時、日野と一緒に地元のスポーツクラブで柔道を習っていた。だが、中学に上がる時に、勉強を優先して欲しいという母親の強い希望で塾へ通うこととなり、結局柔道は辞めてしまった。辞めてまだ一年も経たないが、少しだけ懐かしく感じる。
昇降口で上履きに履き替え、教室のある三階までゆっくりあがった。
教室棟に人の気配はなく、誰もいない。
特別教室棟にある音楽室からだろうか、吹奏楽部が練習する管楽器の音が小さく聞こえてくる。
空が焼ける前の、白に近づき始めた青の時間。
教室棟の静かな廊下を一人歩いて、一年三組の教室の引き戸を開けた。
誰もいないと思っていた教室内に、人がいた。
出入り口から一番遠い、教室の隅の方。整列していたはずの机が一部、狭い隙間をこじ開けたようにズレていて、その先の少し開けた辺りに、床に手をついたような体勢をしている背中が見えた。
生徒の着ている制服とは違う、その深い青色のシャツには見覚えがある。
今日の三時間目に授業をしてくれた、女性の英語教師が着ていたシャツの色だ。
その人が、教室の床の上で誰かを組み敷いていた。
引き戸の開く音に驚いた様子でこちらを向いた英語教師の胸元は、白いボタンが全て外れている。
「……なに、を?」
状況が理解できない。驚きつつ逸らすように床の方へ視線を向けると、そこに横たわっていたのは、相模だった。
相模の制服のシャツも胸元が開かれていて、薄暗い教室内でも分かる白い肌が露わになっている。
「え、あ、春日くん?」
予想外に現れた生徒に、若い女教師は我に返ったように口を開いた。
「あ、あのね、これは、違う。違うの、相模くんが、悪いの」
歯切れ悪く言いながら、女教師は後退りするように相模から離れる。それから焦ったように胸元の白い下着を隠そうと、開いたシャツを必死で閉じていた。
床に横たわったままの相模は、まるで死んだように無表情のまま、洞のように真っ黒な瞳でこちらに視線をチラリと向ける。
どちらが悪いのかは、明白だった。
「……軽蔑します」
春日は眉をひそめてそう告げると、相模の元へ駆け寄る。
近づいてきた春日に、女教師は「ヒィ……」と小さく悲鳴を上げて、教室の壁に背中を押し付けるように縮こまる。
相模が悪いと言ったわりに、自分が悪いことをした自覚があるような様子だ。
しかし、そんな様子に春日は目もくれず、和都をいつものように抱え上げると、逃げるように教室から飛び出した。
「ま、待って! 違うの! 相模くんが悪いのよ!」
絶叫のような弁明を背中に聞きながら、春日はそのまま廊下を駆ける。
西日がまだ柔らかく差し込む、明るい時間。
職員棟に繋がる校舎中央の渡り廊下まで走ると、その途中にある男子トイレへ相模を運び込む。人目につかなそうな場所が、その時はそこしか思いつかなかった。
「……ごめん」
「気にするな」
教室で見た時は虚ろだった目が、どこか悔しそうで、申し訳なさそうに細められていた。
トイレの出入り口にある仕切りの影に座り込み、乱された相模の衣服を整える。下はスラックスのベルトを外されていただけなので問題なかったが、シャツは無理矢理開かれたのかボタンが殆ど取れていて、薄く痩せた白い胸元を隠せなかった。
いくら男子だからとはいえ、流石にこのままの状態で帰すわけにいかない。春日は少し考えたが、置きっぱなしにしていたジャージの存在を思い出した。
「ここで待っててくれ」
そう相模に告げると、もう一度、教室へ向かう。
あの、見苦しい言い訳を喚いていた女教師はすでにいなくなっており、教室はもぬけの殻だった。しかし、妙な空間を作るように乱雑に移動した机はそのままで、自分の見た出来事が嘘ではないと確信させられる。
春日はため息をつくと、ロッカーに置きっぱなしだったジャージを取り出す。それから教室を見回し、隅の方に乱暴に放り出されていた相模のリュックを持って、男子トイレへと戻った。
その後は、トイレで大人しく待っていた相模にジャージを着せて職員室へ向かい、ちょうど残っていた学年主任の教師に起きたことをこっそり伝えると「こちらで対応する」と渋い顔で言われた。
そのまま相模を学年主任に任せたが、やはりどうしても心配になり、職員棟の出入り口で相模が戻ってくるのを待った。相模は保健室横にあるカウンセラー室に教師と一緒に入った後、しばらくするとすぐに出てきたので、春日は相模を家まで送り届けることにした。
空は端のほうに黄色を帯び、白々しい色になっている。
家に向かう途中、学校を出てからずっと押し黙っていた相模が、ようやく口を開いた。
「……嫌な役させて、悪かったな」
「俺は大丈夫だ。気にするな」
大人が子どもを押し倒し、馬乗りになっているような光景に、動揺しなかったわけではない。けれど、一番ショックを受けているのは相模のはずで、それを思うと自分がへこんでいるわけにいかなかった。
もし自分があの時、辞書を取りに教室へ戻らなかったら、どうなっていたのか。
もし発作で倒れて動けない時に、あの女教師と同じようなことを考える人間が近くにいたら、どうなるのか。
弱い彼を助けるべき『大人』への信用が、自分の中でグラつくのを感じる。
彼には、助けが必要だ。
春日はしかめた顔のまま、相模に言う。
「助けが必要な時は俺を呼べ。ちゃんと、助けるから」
「……わかった」
相模は春日の言葉に驚きつつ、困ったように笑いながらもそう答えた。
結局、例の英語教師は、翌日から病気を理由に学校へは来なくなった。
「あ、春日! 相模しらねーか?」
「知らん」
一学期の期末テストも終わり、夏休みも間近という時期。
日直と委員の仕事で少しだけ居残りをした春日は、帰るために教室を出ようとしたところで、同じクラスの陸上部員に捕まった。
「なぁなぁ、春日からも相模に頼んでくれよぉ、陸上部来ないかって!」
「俺じゃなく、本人に言ってくれ」
陸上部員の懇願に、春日はため息をつくように返す。
相模はここのところ、放課後になると女子に加えて一部の運動部からも追い回されるようになっていた。見た目の通りに体力はなく、発作で頻繁に倒れる相模だったが、陸上部も舌を巻くほど足が速いということが分かったからだ。
転校当初はそんな様子を微塵も見せずにいたが、生来の負けず嫌いが出たらしく、体育の授業で百メートル走をした際、陸上部を置き去りにする走りを見せた。これを皮切りに開き直ったのか、授業では球技を中心に抜群の運動センスを披露し、六月頭に行われた体育祭ではリレーなどの各競技で大活躍。
その結果、各運動部がこぞって勧誘に訪れるという、相模本人にとっては頭の痛い状況となっていた。
──まぁ、自業自得に近いな。
陸上部を追い払い、春日は自分の隣にある、相模の席を見つめる。
自分と『一緒にいろ』と提案して以降、学校にいる間、相模とはよく行動を共にするようになった。だからと言って、一緒にいてもたまに読んだ本の話をするくらいで、特別に親しく話すわけでもない。
ただ周囲からは『よく一緒にいる』という印象を持たれるようになり、それを理由に相模の居場所を春日に聞きにくる者も多くなった。しかし、学校が終わるとすぐに教室を出ていき姿を眩ませるので、放課後は春日も相模の居場所は知らない。
さすがにそこまでは、保健委員として手を出す問題ではないし、さっさと家に帰って、大人しくしてもらっていたほうがいい。
春日は一人、北階段を一階まで降り、昇降口を出た。
夕方の五時を過ぎたというのに、空はまだ鮮やかに青く、蒸せるような暑さも落ち着かない。着ている制服は、グレーの薄手のスラックスに半袖シャツという夏服になったものの、少し歩いただけで額に汗が滲むような気温ではあまり意味がないように思える。
さっさと帰ろうと足早に正門へと向かったが、ロータリーを過ぎた辺りで、教室に辞書を置きっぱなしだったことを思い出した。
──持って帰ろうと思ってたのに、忘れてたな。
教室を出ようとしたタイミングで陸上部員に話しかけられたこともあり、ロッカーのものを確認し忘れたらしい。別に、辞書などあってもなくても大きく困るわけではないが、念のため持って帰ろうと思い直し、踵を返した。
通り過ぎたロータリーの横を再び通り、職員棟の出入り口前を通る。すぐ近くの武道館を脇目に、その奥にある教室棟の昇降口へ足を向けた。
柔道部と剣道部がそれぞれ部活に励む武道館からは、威勢のいい掛け声が小さく漏れ聞こえる。
春日は小学生の時、日野と一緒に地元のスポーツクラブで柔道を習っていた。だが、中学に上がる時に、勉強を優先して欲しいという母親の強い希望で塾へ通うこととなり、結局柔道は辞めてしまった。辞めてまだ一年も経たないが、少しだけ懐かしく感じる。
昇降口で上履きに履き替え、教室のある三階までゆっくりあがった。
教室棟に人の気配はなく、誰もいない。
特別教室棟にある音楽室からだろうか、吹奏楽部が練習する管楽器の音が小さく聞こえてくる。
空が焼ける前の、白に近づき始めた青の時間。
教室棟の静かな廊下を一人歩いて、一年三組の教室の引き戸を開けた。
誰もいないと思っていた教室内に、人がいた。
出入り口から一番遠い、教室の隅の方。整列していたはずの机が一部、狭い隙間をこじ開けたようにズレていて、その先の少し開けた辺りに、床に手をついたような体勢をしている背中が見えた。
生徒の着ている制服とは違う、その深い青色のシャツには見覚えがある。
今日の三時間目に授業をしてくれた、女性の英語教師が着ていたシャツの色だ。
その人が、教室の床の上で誰かを組み敷いていた。
引き戸の開く音に驚いた様子でこちらを向いた英語教師の胸元は、白いボタンが全て外れている。
「……なに、を?」
状況が理解できない。驚きつつ逸らすように床の方へ視線を向けると、そこに横たわっていたのは、相模だった。
相模の制服のシャツも胸元が開かれていて、薄暗い教室内でも分かる白い肌が露わになっている。
「え、あ、春日くん?」
予想外に現れた生徒に、若い女教師は我に返ったように口を開いた。
「あ、あのね、これは、違う。違うの、相模くんが、悪いの」
歯切れ悪く言いながら、女教師は後退りするように相模から離れる。それから焦ったように胸元の白い下着を隠そうと、開いたシャツを必死で閉じていた。
床に横たわったままの相模は、まるで死んだように無表情のまま、洞のように真っ黒な瞳でこちらに視線をチラリと向ける。
どちらが悪いのかは、明白だった。
「……軽蔑します」
春日は眉をひそめてそう告げると、相模の元へ駆け寄る。
近づいてきた春日に、女教師は「ヒィ……」と小さく悲鳴を上げて、教室の壁に背中を押し付けるように縮こまる。
相模が悪いと言ったわりに、自分が悪いことをした自覚があるような様子だ。
しかし、そんな様子に春日は目もくれず、和都をいつものように抱え上げると、逃げるように教室から飛び出した。
「ま、待って! 違うの! 相模くんが悪いのよ!」
絶叫のような弁明を背中に聞きながら、春日はそのまま廊下を駆ける。
西日がまだ柔らかく差し込む、明るい時間。
職員棟に繋がる校舎中央の渡り廊下まで走ると、その途中にある男子トイレへ相模を運び込む。人目につかなそうな場所が、その時はそこしか思いつかなかった。
「……ごめん」
「気にするな」
教室で見た時は虚ろだった目が、どこか悔しそうで、申し訳なさそうに細められていた。
トイレの出入り口にある仕切りの影に座り込み、乱された相模の衣服を整える。下はスラックスのベルトを外されていただけなので問題なかったが、シャツは無理矢理開かれたのかボタンが殆ど取れていて、薄く痩せた白い胸元を隠せなかった。
いくら男子だからとはいえ、流石にこのままの状態で帰すわけにいかない。春日は少し考えたが、置きっぱなしにしていたジャージの存在を思い出した。
「ここで待っててくれ」
そう相模に告げると、もう一度、教室へ向かう。
あの、見苦しい言い訳を喚いていた女教師はすでにいなくなっており、教室はもぬけの殻だった。しかし、妙な空間を作るように乱雑に移動した机はそのままで、自分の見た出来事が嘘ではないと確信させられる。
春日はため息をつくと、ロッカーに置きっぱなしだったジャージを取り出す。それから教室を見回し、隅の方に乱暴に放り出されていた相模のリュックを持って、男子トイレへと戻った。
その後は、トイレで大人しく待っていた相模にジャージを着せて職員室へ向かい、ちょうど残っていた学年主任の教師に起きたことをこっそり伝えると「こちらで対応する」と渋い顔で言われた。
そのまま相模を学年主任に任せたが、やはりどうしても心配になり、職員棟の出入り口で相模が戻ってくるのを待った。相模は保健室横にあるカウンセラー室に教師と一緒に入った後、しばらくするとすぐに出てきたので、春日は相模を家まで送り届けることにした。
空は端のほうに黄色を帯び、白々しい色になっている。
家に向かう途中、学校を出てからずっと押し黙っていた相模が、ようやく口を開いた。
「……嫌な役させて、悪かったな」
「俺は大丈夫だ。気にするな」
大人が子どもを押し倒し、馬乗りになっているような光景に、動揺しなかったわけではない。けれど、一番ショックを受けているのは相模のはずで、それを思うと自分がへこんでいるわけにいかなかった。
もし自分があの時、辞書を取りに教室へ戻らなかったら、どうなっていたのか。
もし発作で倒れて動けない時に、あの女教師と同じようなことを考える人間が近くにいたら、どうなるのか。
弱い彼を助けるべき『大人』への信用が、自分の中でグラつくのを感じる。
彼には、助けが必要だ。
春日はしかめた顔のまま、相模に言う。
「助けが必要な時は俺を呼べ。ちゃんと、助けるから」
「……わかった」
相模は春日の言葉に驚きつつ、困ったように笑いながらもそう答えた。
結局、例の英語教師は、翌日から病気を理由に学校へは来なくなった。
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