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2)平 穏〈1〉

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 目が覚めると、見たことのない天井が視界に入ってきた。
 一年ちょっと住んだ安アパートとも、付き合っていた蘇芳のマンションのものとも違う。急遽泊まることになったビジネスホテルはこんな天井だっただろうか、と働かない頭で考えてからようやく思い出した。
 ──そうだ、清詞さんの家に……!
 秋良は勢いよく身体を起こし、改めてぐるりと部屋を見回す。
 ふかふかのダブルベッドと、部屋の隅には作業のできそうなデスクと椅子。出入り口付近にクローゼットがあって、他はベッドの両サイドに照明を置いたサイドテーブルがあるくらい。
 控えめながらもどこか暖かい雰囲気がするのは、家主の人柄のせいだろうか。
 室内を眺めながら、秋良は昨晩のことをぼんやりと思い返していた。


 しばらくお世話になると決めた後、清詞は二階へ案内してくれた。
「二階は僕の部屋と梨英さんの部屋。それからほぼ物置になってるウォークインクローゼットと、ゲストルームがあるくらいだね」
 階段を上がってまっすぐ伸びる廊下の右手にトイレと、ウォークインクローゼットになっている引き戸。クローゼットの隣に並ぶ扉は清詞の部屋で、廊下を挟んで向かいにある部屋がゲストルームになっている。
「秋良くんはゲストルームのほうを使って」
「はい」
 案内されたゲストルームは、ダブルベッドと机と椅子がある程度で、こざっぱりとした印象がある。大きな窓にかけられた優しい緑色のカーテンを清詞が開けると、ベランダに出られるようになっていた。
「ああ、そういえば荷物は?」
 問われて秋良は小さく肩をすくめる。
「殆ど燃えちゃったので、大学の駐輪場に置いてる自転車と、泊まってるホテルに置かせてもらってる着替えが少し、くらいです」
「そっか、そうだよね……」
 家に置いていた荷物は全部綺麗さっぱり燃えてしまって、数日を過ごすために買った着替えくらいしか本当に持っているものはない。
「とりあえず、直近で必要なのはパソコンですね……書きかけのレポートもあるし」
「今時の子はそうなんだっけ? あ、データとかは大丈夫なの?」
「データとかはクラウドに保存してあるんで大丈夫です! でも、資料に買った本とか、紙で買った教科書も買い直さないと……。しばらくは友達に借りたり、図書館でなんとかしようとは思ってます」
 家という基盤ができたら、次は生活を取り戻すための準備が必要だ。しかしすっかり元通りにするには、時間もお金もかかるだろう。
「なるほど。じゃあひとまず、今日の分の着替えとかを買いに行こうか。ついでに夕飯も食べてこよう」
「あ、いや。でもオレ今あんまりお金ないので……」
 清詞ににこやかに言われ、秋良は慌てて手を振った。寝る場所を提供してもらっただけで十分ありがたい。ただバイトのお金もあまり残っていないので、可能な限り節約をしたかった。
 俯く秋良の前で、清詞は腰を落とすとジッと見つめる。
「お金の心配はしなくていいんだよ? ここでの生活で必要なもののお金は、僕が全部出すんだから。秋良くんは何の心配もいらないよ」
 優しい声に言われて、秋良は鼻の奥がツンとするのをグッと堪えた。でも、これ以上甘えるのは申し訳ない。
「で、でも!」
 なかなか頷かない秋良に、清詞はうーんと少し考えてから言った。
「……それなら、僕からのお見舞いと歓迎会だと思ってもらうのはどうかな?」


 結局その後、駅前の商店街で数日分の着替えとパジャマを購入し、夕飯も清詞の行きつけだという和食屋で久しぶりにまともな食事を頂いた。もちろんその時お金を、清詞は秋良に一円も出させてはくれなかった。
 秋良は着ている新品のパジャマを見つめ、真新しい布の匂いに、昨日のことも、今も、現実なのだと噛み締める。
 ずっと好きで、初恋だった人と、まさかの一つ屋根の下にいるのだ。実感が湧かなくても仕方がないのではないだろうか。
「──いい人たちばっかりだったなぁ」
 駅前の商店街は、広くて長い、とても活気のある場所だった。
 清詞はなかなかの人気者なのか、歩いてるだけで気さくに話かけてくれる人も多く、秋良がしばらく一緒に住むのだという話をすると、みんな歓迎してくれた。
 急遽決まった引っ越しではあったが、楽しそうな街である。昨日は荷物が多くなったので回り切れなかったが、これから少しずつ開拓するのも楽しそうだ。
 秋良はベッドから降りると、カーテンを開ける。朝日が差し込む眩しい空は、綺麗に晴れ渡っていた。
「……よしっ」
 うーんと大きく伸びをしてから、今度は部屋の、廊下へと繋がる扉をそっと開ける。
 差し込む朝日を反射し、静まりかえった廊下をそろそろと階段へ向かい、ゆっくり降りた。
 途中、踊り場辺りの壁に掛けられた、小さな二つの絵画が目に留まる。
 山あいを流れる小川の様子を描いたものと、洋梨が二つ寄り添った絵がそれぞれシンプルな額装の中に収められていた。柔らかいタッチの優しい絵が、この家にはすごくピッタリな気がする。
 秋良はそのまま階段を降りると、リビングダイニングへと入った。
 照明をつけると、カウンターキッチンの綺麗なシンクが銀色に反射する。住んでいた安アパートにあった、申し訳程度のキッチンと違い、広々としたコンロやシンクに秋良は感動した。
 昨夜の帰り道、朝ごはんは自分が用意したいと言っておいたので、秋良は早速取り掛かる。
 帰りに買ったのは、朝食用の食パンと卵、そしてベーコンだけ。清詞が冷蔵庫に入れてくれたものを取り出そうと、キッチンの隅にある大きなグレーの冷蔵庫の扉を開けてから、秋良は思わず一度閉めた。
「……え?」
 見たものが信じられず、気を取り直してもう一開ける。
 大きな冷蔵庫の中は、びっくりするほどガランとしていた。昨日買った卵とベーコン、それ以外には水のペットボトルが二本と、缶ビールと缶コーヒーが三本ずつ入っているだけ。ドアポケットの隅に調味料らしきものがいくつかあったが、全部賞味期限が切れていた。
 秋良はもう一度冷蔵庫の扉を閉め、頭を振る。
「……え? え?」
 それからすぐに冷蔵庫の並びにある食器棚を見た。グラス類と棚の上にあるトースター、電子レンジは使っているような形跡があったが、綺麗に重ねられたお皿には全くと言っていいほど使った様子がない。
 調理器具らしきものが一切見当たらないので探してみると、シンクの下の戸棚に包丁を見つけたが、錆びていた。そしてまな板と思われるものもなければ、フライパンも見当たらない。
 ──どういう、こと?
 秋良は恐る恐る、食器棚の隣のパントリーを開けた。そこにはカップ麺やインスタント食品が山のように積み上げられ、お米すらない。
 立派な設備とは真逆の惨状に愕然としていると、清詞が起きてきたようで、リビングダイニングへやってきた。
「おはよー秋良くん。秋良くんは早起きなんだねぇ」
「あ、おはようございます」
 寝癖のついた頭でパジャマ姿のまま欠伸をする清詞に、秋良は我に返る。
 これは、確認しなければならない、重大なことだ。
「あの、清詞さん」
「なぁに?」
「……清詞さん、ふだんのご飯はどうしてるんですか?」
 思い詰めた表情の秋良を不思議そうに見ながら、清詞は言う。
「いやぁ、一人きりだからほとんど外で食べるか、コンビニで買ったものを食べてるよ」
 ──だから飲食店の人と仲がよかったのか……!
 秋良は昨日の商店街での様子を思い出す。気さくに話しかけてきた人たちは、ほとんどが飲食店の従業員。常連客だからあんなに親しくしてきたのだと思えば、合点がいく。
「あの、じゃあ、料理とかは……」
「いやぁ、恥ずかしい話、家事全般が苦手でね。洗濯やゴミだしはなんとかやってるからゴミ屋敷にはなってないんだけど」
 少し照れたように言われて、秋良は思わず心臓がキュンと鳴ったのをグッと堪えた。
 清詞の話によれば、どうやら掃除や洗濯、片付けの類は定期的にハウスキーパーを呼ぶようにしているらしく、秋良が昨日くることになり、数日前に一度お願いしたので今はかなり綺麗な状態なのだという。
 カッコよくて完璧にみえる清詞の、知らなかった意外な一面に秋良はちょっと嬉しくなった。
「そういえば、秋良くんは料理得意って言ってたね」
「はい! 料理以外の家事全般得意ですよ! 実家では母さんの代わりにやってたくらいなんですから」
「それは知らなかった。すごいんだねぇ」
 清詞がそう言って、胸を張る秋良の頭を撫でる。
「だからその……。ここにいる間、オレが料理とかしても、いいですか?」
「秋良くんが?」
「はい。オレに出来ることって、それくらいしかないんで」
 住む場所を提供してくれる清詞のために、出来ることをしたかった。家事なら自分の得意分野である。
「あ、ちゃんと食材とかは自分のお金で買います。オレがやりたくてやるんで、それくらいは……」
 かつて付き合っていた蘇芳の家でご飯を作る時はそうだった。自分の好きなことに付き合わせるのだから、必要なものは自分で用意するべきだと言われたから。
 清詞は驚いて丸くした目を優しく細めると、ゆっくり腰を落として、秋良と同じ目線になった。
「僕のために作ってくれるんだろう? それなら食材の費用は僕が出すよ。君はこれから色んなものの買い直しで、特にお金がかかるんだ。ここにいる間、生活に関する費用の心配はいらないよ」
「……でも」
 しゅんとする秋良の肩に、清詞は優しく手を置く。
「じゃあこうしよう。我が家の家事をやってもらうお礼、報酬として生活費を僕が賄う、というのはどうかな?」
 働いたことに対し、金銭を受け取る代わりに衣食住を保証してもらう。確かにこれなら、住み込みで働くようなものなので悪くない。
「それなら、はい……」
 秋良が頷くと、清詞は目尻に皺を寄せながら、また大きな手のひらで優しく頭を撫でる。
「じゃあ早速、秋良くんに朝ごはんを用意してもらおうかな?」
 ニコニコと楽しそうな清詞に、秋良は申し訳なさそうな顔をして言った。
「あの、それなんですが……」
「ん?」
「調理器具も調味料もないので、何も、作れそうになくて……」
「あー……」
 幸い、トースターはあるので、食パンを焼くくらいならなんとかなりそうだが、ジャムもなければバターもないので、朝食にするには心許ない。
「そう言えば、使わなくなって錆びたりしたのは捨てちゃった気がするなぁ」
「包丁も、錆びてました」
「……そっかぁ」
 清詞は申し訳なさそうに頭を掻いた。しかし秋良には、どこか楽しそうな顔をしているようにも見える。
「とりあえず、朝ごはんは駅前のカフェにでも行こうか。そして、調理に必要なものを色々買ってこなきゃ。秋良くん、選んでくれるかい?」
「い、いいんですか?」
 見たところ調理器具の殆どがないので、丸々一式買い揃えることになる。そうなると金額もかなりの額になるのだが、なんだか申し訳ない。
 しかし、そんな秋良の考えなどお見通しかのように、清詞はただただニッコリ笑う。
「もちろん! 秋良くんの手料理、食べてみたいしね」
「……わかりました!」
 自分の気掛かりをなんてことないと笑う清詞に、秋良もつられて笑顔になって答えた。
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