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15)月下の獅子
15-03 *
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◇
バクの角はキレイだね。宝石のようにキラキラしてて。
そうでしょう、そうでしょう。
毛色が漆黒だから、夜空に光る三日月みたいだ。
いつも休憩している、大きな木の下。
そう言って、■■■様が頭を撫でてくれて。
「……夢」
涙の溢れる目を開けると、まだ世界は薄暗かった。
時間を見ようと、和都は横になったまま枕元に置いたスマホを探す。スマホの時間は、日付が変わって一時間ほどを示していた。
明日帰ると伝えていたためか、夕飯はとても豪勢なもので。座卓を囲む人数も、初日の夜のようにたくさん集まっていた。仁科は最後の夜だからと、安曇家の大人たちに囲まれていたし、隣の布団に誰もいないところを見ると、まだ飲んでいるのかもしれない。
ひとまずバクの記憶をメモしようと、薄いカーテンと障子をすり抜けて差し込む月明かりの中、和都は身体を起こす。
と、本邸と繋がっている廊下の方から、ギシギシと人の近づいてくる足音。
ちょうど離れに戻ってきた、仁科だった。
「……あれ、どうした?」
「あ、先生」
先に寝ていると言っておいた自分が起きていたので、驚いたらしい。
「……バクの記憶、見ちゃって」
「あぁ、そうか」
座ったまま手の甲で涙を拭っていると、仁科がすぐ隣に腰を下ろし、手を伸ばして止まらない涙を指先でなぞった。包むように触れた大きな手は、少しだけ温かい。
「バクの記憶、そんなに悲しくなくても、毎回涙出てくるんだよね」
さっきの夢も、きっと真之介とのやりとりで、優しい記憶の一部だ。
「大丈夫?」
「うん、平気……」
答えている途中、頬に触れた手に顔を引き寄せられて、唇を塞がれる。
むせるような匂いが、顔面にふわりと煙って、和都は思わず眉を顰めた。
「……お酒くさい。酔ってるでしょ」
「うん」
よく見れば、仁科の目が少し眠そうにぼんやりしている。
当たり前にキスをされたことに文句を言おうにも、今にも寝てしまいそうな状態の人間に言ったところで意味はなさそうだ。
「危ないから眼鏡外すよ?」
放っても置けないので、そっと仁科の顔から眼鏡を抜き取り、自分のスマホと一緒に布団のすぐ上の、枕元に置く。すると、仁科の腕がギュッと身体全体を包むように抱きついてきて、そのまま一緒に布団の上に倒れ込んだ。
「うわ、ちょっと。先生、重い」
「……うん、酔ってる」
薄い布団の上で、覆いかぶさるように抱きしめられたまま。
真横にある表情の見えない顔が、耳元で小さく呟いた。
「酔ってるせいにしていい?」
「……へ?」
ゆっくり身体を起こして正面を向いた顔が、薄闇の中でじっとこちらを見下ろす。
最初、何を言っているのだろうと思ったが、ああ、そうか、と和都は気付いた。
──そういうことが、したいのか。
この状況でどんなことをしたいのか、知らないわけではない。
だって他人から、こんな風に求めるような視線を向けられるのは、初めてではないから。
でも、どこか余裕のなさそうな、そういう表情をするこの人は、初めて見た。
だってずっと優しくて、捉えどころがなくて、何を考えているのか分からない人だったから。でも。
──先生なら、怖くないや。
視線を一度だけ逸らして、もう一度、仁科の目を見た。
ちゃんと好きになった人に、そんな風に言われたのは、初めてだったから。
「……うん、いいよ」
呟くように答えた。
落ちてくるように近づいた唇が、小さく開いた口に噛みついてくる。そのまま目を閉じて、和都は自分から縋りつくように、仁科の首に腕を回した。
自分より大きい舌が口の内側に入り込んで、拙い舌に絡みつく。
これはもう、チカラを分けてもらうための行為なんかじゃなかった。
「……んっ」
口の端から甘く色づいた息が小さく溢れていく。
身体の内側が、一気に急騰したように熱い。
夏の夜の、蒸し暑さとは違う熱。
しばらく貪るように熱を混ぜていた唇が、不意に離れる。
つ、と舌先から、唾液が糸を引いて光ったのが見えた。
そのまま唾液に濡れた舌は、ゆっくり首筋を這っていく。
「せんせ……」
口を開いても酸素が足りなくて、ただただ呼吸ばかりが荒くなった。
背筋をゾワゾワと、燻る何かが撫でていく。
Tシャツの襟ぐりが引っ張られ、鎖骨の下辺りまできた唇に、ギュゥと痛いくらいに吸い付かれた。
「……んぅ」
和都が小さく呻くように息を零すと、仁科の頭が擦り寄るようにして肩まで戻って。そして抱きしめるように背中に回った仁科の手が、Tシャツの内側に入って素肌に触れた。
けれど、自分の肩に顔を埋めるようにしたまま、息をハァァと大きく吐き出して、仁科はそこでピタリと止まってしまう。
「……先生?」
それから動く気配のなくなった仁科に、和都が躊躇いがちに声をかけた。
反応がない。
素肌に触れていた手は、いつの間にかTシャツの外に出ていた。
「……今、理性と戦ってるから、ちょっと黙って」
「う、うん……」
低い声で言われ、和都は頷く。
ただただぎゅっと、抱き合ったままの状態。
ぴったりとくっ付いているせいか、急に心臓の音がうるさく聞こえた。
しばらくの沈黙の後、仁科が再び深く息を吐きながら、離れるように身体を起こす。
「……理性が勝ったから、寝る」
ぶっきらぼうにそう言うと、仁科は和都に背を向けるようにして、隣の布団に移動して横になった。
薄闇に、一瞬にして静寂が降ってくる。
和都はなんだか可笑しくて、小さく吹き出した。
そして喉を小さく震わせながら、こちらに向けられた大きな背中に這うようにして近づき、自分の背中をくっつけるように寄り添って、そのまま寝そべる。
「……勝因は?」
「犯罪者になりたくなーい」
背中の向こうから至極マトモな答えが聞こえてきた。和都は耐えきれず、クスクス笑いながら言う。
「家に連れ込んだり、あちこち連れ回してる時点でアウトじゃない?」
「うるせぇ、お前の調べ物に付き合ってるだけでしょ」
言われたら、その通りでしかない。
自分は鬼に食べられないよう、先生に協力してもらっている立場だ。
だからまさか、こんな風になるなんて、自分でも思っていなくて。
だから少しだけ、残念に思ってしまう。
「……先生となら、別によかったけど」
「俺みたいなのが初めてじゃダメでしょ」
背中をくっつけたまま改めて言うと、呆れたような声の答えが返ってきた。
ああ、そうか。それで立ち止まってくれたのか、と思い至る。
でも、自分はそんなに綺麗なものじゃない。
「……おれ、初めてじゃないよ?」
「はっ?!」
これにはさすがに驚いたらしく、仁科が身体を起こしてこちらを振り返った。
「去年、同じ委員だった三年生に、公園のトイレに連れ込まれて。まぁ、無理やりだったけど、ね……」
そう言うと、仁科には何か思い当たるものがあるようで。
「……去年、変な時期に一週間くらい、風邪で休んでたな。そん時、か?」
「ああ、それ。本当は風邪じゃなくて、学校行きたくなかっただけ」
背中を向けたまま返す和都の言葉に、仁科が後ろからゆっくり、包み込むみたいにギュッと抱きしめた。
思い出したせいで冷えてしまった内側が、暖かくなった気がする。
「本当、アレは失敗だったなぁ。完全におれのミス。でも、久しぶりに学校きたら先輩いなくなっててさ。たぶん、ユースケがなんかしたんじゃないかな」
「……そっか」
「死にたいくらいサイアクだったけど、高校はちゃんと生きて卒業するって、約束したから」
これは春日とその先輩と、自分しか知らない、サイアクの話。
痛くて、怖くて、嫌だった、真っ黒な記憶。
自分から何にもなくなって、空っぽになった日。
春日祐介が自分と親しくなったり、近づいてくる人間を異常に警戒する理由の一つ。
「……ガッカリした?」
「するかボケ」
掠れたように囁く声に、力がこもっていた。
抱きしめる腕の力が強くて、少し痛い。
「女の人は元々怖いのに、本当イヤになるよね。急に近寄ってくる人もやっぱ怖いし、大きい男の人も、正直まだ苦手だし」
生きていくのに、怖いものや苦手なものが多すぎて、きっと生きるのに向いていないのだ。
「……でも、先生は平気だったからさ」
和都はよいしょ、と仁科の腕の中で、背中を向けていた身体をそちらに向けて、顔を上げる。
「先生とキスすんの、イヤじゃなかったから、別にいいかなって思っちゃった」
言われた仁科は、困ったように眉を下げて笑った。
「……理性が勝った後にそんなこと言うのやめてよ。揺らぐじゃん」
「えへへ……」
悪戯っぽく笑う和都の額に、唇が触れる。
それから優しく、いつもみたいに頭を撫でた。
「でも、今日はもう寝るよ」
「……うん」
そのまま二人、抱き合って。
ゆっくりと薄闇に溶けるように、寝落ちていった。
バクの角はキレイだね。宝石のようにキラキラしてて。
そうでしょう、そうでしょう。
毛色が漆黒だから、夜空に光る三日月みたいだ。
いつも休憩している、大きな木の下。
そう言って、■■■様が頭を撫でてくれて。
「……夢」
涙の溢れる目を開けると、まだ世界は薄暗かった。
時間を見ようと、和都は横になったまま枕元に置いたスマホを探す。スマホの時間は、日付が変わって一時間ほどを示していた。
明日帰ると伝えていたためか、夕飯はとても豪勢なもので。座卓を囲む人数も、初日の夜のようにたくさん集まっていた。仁科は最後の夜だからと、安曇家の大人たちに囲まれていたし、隣の布団に誰もいないところを見ると、まだ飲んでいるのかもしれない。
ひとまずバクの記憶をメモしようと、薄いカーテンと障子をすり抜けて差し込む月明かりの中、和都は身体を起こす。
と、本邸と繋がっている廊下の方から、ギシギシと人の近づいてくる足音。
ちょうど離れに戻ってきた、仁科だった。
「……あれ、どうした?」
「あ、先生」
先に寝ていると言っておいた自分が起きていたので、驚いたらしい。
「……バクの記憶、見ちゃって」
「あぁ、そうか」
座ったまま手の甲で涙を拭っていると、仁科がすぐ隣に腰を下ろし、手を伸ばして止まらない涙を指先でなぞった。包むように触れた大きな手は、少しだけ温かい。
「バクの記憶、そんなに悲しくなくても、毎回涙出てくるんだよね」
さっきの夢も、きっと真之介とのやりとりで、優しい記憶の一部だ。
「大丈夫?」
「うん、平気……」
答えている途中、頬に触れた手に顔を引き寄せられて、唇を塞がれる。
むせるような匂いが、顔面にふわりと煙って、和都は思わず眉を顰めた。
「……お酒くさい。酔ってるでしょ」
「うん」
よく見れば、仁科の目が少し眠そうにぼんやりしている。
当たり前にキスをされたことに文句を言おうにも、今にも寝てしまいそうな状態の人間に言ったところで意味はなさそうだ。
「危ないから眼鏡外すよ?」
放っても置けないので、そっと仁科の顔から眼鏡を抜き取り、自分のスマホと一緒に布団のすぐ上の、枕元に置く。すると、仁科の腕がギュッと身体全体を包むように抱きついてきて、そのまま一緒に布団の上に倒れ込んだ。
「うわ、ちょっと。先生、重い」
「……うん、酔ってる」
薄い布団の上で、覆いかぶさるように抱きしめられたまま。
真横にある表情の見えない顔が、耳元で小さく呟いた。
「酔ってるせいにしていい?」
「……へ?」
ゆっくり身体を起こして正面を向いた顔が、薄闇の中でじっとこちらを見下ろす。
最初、何を言っているのだろうと思ったが、ああ、そうか、と和都は気付いた。
──そういうことが、したいのか。
この状況でどんなことをしたいのか、知らないわけではない。
だって他人から、こんな風に求めるような視線を向けられるのは、初めてではないから。
でも、どこか余裕のなさそうな、そういう表情をするこの人は、初めて見た。
だってずっと優しくて、捉えどころがなくて、何を考えているのか分からない人だったから。でも。
──先生なら、怖くないや。
視線を一度だけ逸らして、もう一度、仁科の目を見た。
ちゃんと好きになった人に、そんな風に言われたのは、初めてだったから。
「……うん、いいよ」
呟くように答えた。
落ちてくるように近づいた唇が、小さく開いた口に噛みついてくる。そのまま目を閉じて、和都は自分から縋りつくように、仁科の首に腕を回した。
自分より大きい舌が口の内側に入り込んで、拙い舌に絡みつく。
これはもう、チカラを分けてもらうための行為なんかじゃなかった。
「……んっ」
口の端から甘く色づいた息が小さく溢れていく。
身体の内側が、一気に急騰したように熱い。
夏の夜の、蒸し暑さとは違う熱。
しばらく貪るように熱を混ぜていた唇が、不意に離れる。
つ、と舌先から、唾液が糸を引いて光ったのが見えた。
そのまま唾液に濡れた舌は、ゆっくり首筋を這っていく。
「せんせ……」
口を開いても酸素が足りなくて、ただただ呼吸ばかりが荒くなった。
背筋をゾワゾワと、燻る何かが撫でていく。
Tシャツの襟ぐりが引っ張られ、鎖骨の下辺りまできた唇に、ギュゥと痛いくらいに吸い付かれた。
「……んぅ」
和都が小さく呻くように息を零すと、仁科の頭が擦り寄るようにして肩まで戻って。そして抱きしめるように背中に回った仁科の手が、Tシャツの内側に入って素肌に触れた。
けれど、自分の肩に顔を埋めるようにしたまま、息をハァァと大きく吐き出して、仁科はそこでピタリと止まってしまう。
「……先生?」
それから動く気配のなくなった仁科に、和都が躊躇いがちに声をかけた。
反応がない。
素肌に触れていた手は、いつの間にかTシャツの外に出ていた。
「……今、理性と戦ってるから、ちょっと黙って」
「う、うん……」
低い声で言われ、和都は頷く。
ただただぎゅっと、抱き合ったままの状態。
ぴったりとくっ付いているせいか、急に心臓の音がうるさく聞こえた。
しばらくの沈黙の後、仁科が再び深く息を吐きながら、離れるように身体を起こす。
「……理性が勝ったから、寝る」
ぶっきらぼうにそう言うと、仁科は和都に背を向けるようにして、隣の布団に移動して横になった。
薄闇に、一瞬にして静寂が降ってくる。
和都はなんだか可笑しくて、小さく吹き出した。
そして喉を小さく震わせながら、こちらに向けられた大きな背中に這うようにして近づき、自分の背中をくっつけるように寄り添って、そのまま寝そべる。
「……勝因は?」
「犯罪者になりたくなーい」
背中の向こうから至極マトモな答えが聞こえてきた。和都は耐えきれず、クスクス笑いながら言う。
「家に連れ込んだり、あちこち連れ回してる時点でアウトじゃない?」
「うるせぇ、お前の調べ物に付き合ってるだけでしょ」
言われたら、その通りでしかない。
自分は鬼に食べられないよう、先生に協力してもらっている立場だ。
だからまさか、こんな風になるなんて、自分でも思っていなくて。
だから少しだけ、残念に思ってしまう。
「……先生となら、別によかったけど」
「俺みたいなのが初めてじゃダメでしょ」
背中をくっつけたまま改めて言うと、呆れたような声の答えが返ってきた。
ああ、そうか。それで立ち止まってくれたのか、と思い至る。
でも、自分はそんなに綺麗なものじゃない。
「……おれ、初めてじゃないよ?」
「はっ?!」
これにはさすがに驚いたらしく、仁科が身体を起こしてこちらを振り返った。
「去年、同じ委員だった三年生に、公園のトイレに連れ込まれて。まぁ、無理やりだったけど、ね……」
そう言うと、仁科には何か思い当たるものがあるようで。
「……去年、変な時期に一週間くらい、風邪で休んでたな。そん時、か?」
「ああ、それ。本当は風邪じゃなくて、学校行きたくなかっただけ」
背中を向けたまま返す和都の言葉に、仁科が後ろからゆっくり、包み込むみたいにギュッと抱きしめた。
思い出したせいで冷えてしまった内側が、暖かくなった気がする。
「本当、アレは失敗だったなぁ。完全におれのミス。でも、久しぶりに学校きたら先輩いなくなっててさ。たぶん、ユースケがなんかしたんじゃないかな」
「……そっか」
「死にたいくらいサイアクだったけど、高校はちゃんと生きて卒業するって、約束したから」
これは春日とその先輩と、自分しか知らない、サイアクの話。
痛くて、怖くて、嫌だった、真っ黒な記憶。
自分から何にもなくなって、空っぽになった日。
春日祐介が自分と親しくなったり、近づいてくる人間を異常に警戒する理由の一つ。
「……ガッカリした?」
「するかボケ」
掠れたように囁く声に、力がこもっていた。
抱きしめる腕の力が強くて、少し痛い。
「女の人は元々怖いのに、本当イヤになるよね。急に近寄ってくる人もやっぱ怖いし、大きい男の人も、正直まだ苦手だし」
生きていくのに、怖いものや苦手なものが多すぎて、きっと生きるのに向いていないのだ。
「……でも、先生は平気だったからさ」
和都はよいしょ、と仁科の腕の中で、背中を向けていた身体をそちらに向けて、顔を上げる。
「先生とキスすんの、イヤじゃなかったから、別にいいかなって思っちゃった」
言われた仁科は、困ったように眉を下げて笑った。
「……理性が勝った後にそんなこと言うのやめてよ。揺らぐじゃん」
「えへへ……」
悪戯っぽく笑う和都の額に、唇が触れる。
それから優しく、いつもみたいに頭を撫でた。
「でも、今日はもう寝るよ」
「……うん」
そのまま二人、抱き合って。
ゆっくりと薄闇に溶けるように、寝落ちていった。
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