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親のエゴ
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美姫が退院してから5日後、誠一郎も退院の日を迎えた。
この日は凛子がどうしても外せない会議があるからと頼まれ、美姫が代わりに病院に行くことになった。普通なら仕事が多忙な美姫にわざわざ頼むなどありえないが、凛子は父娘の時間を作ってあげたかったのだろうという思いを汲み、美姫もそれに応えたのだった。
「わざわざ済まないな」
「もう! それは言わない約束ですよ、お父様」
少し拗ねたように言った美姫に、誠一郎は嬉しそうに微笑んだ。
まだ自力では歩けない為、看護師が補助して車椅子にのせる。あれから一段と痩せた父の背中を見て、美姫は涙が込み上げてきた。
車椅子を押し、お世話になった医師や看護師に挨拶に回り、病院を後にした。
美姫が退院した時とは打って変わり、秋晴れの空が澄み渡っていた。東京でこれほど綺麗な水色の空が見られるのは珍しい。朝から昼にかけて強さを増しながらも穏やかな日光を肩に受け、頬を撫でる涼しい風に思わず目を細める。
「お父様、気持ちいい風ですね」
「あぁ、そうだな」
こんなにゆったりと穏やかな時間を父娘で過ごすのはいつ以来だろう、と美姫は少し寂しく思った。
病院を出たロータリーには、畑中が車を停車して待っていた。いつものトヨタのセンチュリーではなく、今日は車椅子のまま乗れるスロープ付きの自動車だ。
誠一郎の姿を認めた畑中はメインスイッチをオンにし、バックドアを開けた。
「退院、おめでとうございます」
畑中は、誠一郎に深々と挨拶した。
操作スイッチを押すと、静かにゆっくりとスロープが下りてきた。車内に入ってウィンチベルトを引き出すと車椅子に引っ掛ける。
「では、私が」
美姫に代わって畑中が車椅子のグリップを握りながらスイッチを押し、車椅子を後部座席へと誘導した。
久しぶりに帰ってきた我が家を目の前にし、誠一郎は嬉しそうに目を細めた。
畑中が玄関の門扉を開け、車椅子を押す。以前は門扉から玄関までは石が置かれていたのだが、それは撤去され、フラットな石畳が敷かれていた。
中庭に植えられたコスモスが茎を伸ばし、蕾がふくらみかけている。
「あと少しで咲きそうだな」
コスモスは、誠一郎が最も好きな花だった。
「えぇ、咲いたら一緒に見ましょうね、お父様」
「あぁ」
誠一郎が振り返り、笑顔を見せた。
自宅に戻ると、瀬戸が出迎えてくれた。
瀬戸は福祉大学を卒業した介護士の資格も持っている家政婦で、前回の誠一郎の退院時からずっと勤めているのでもう3年もの付き合いになる。家政婦と言っても20代の男性なので、ハウスキーパーと言った方がいいのかもしれない。少し長めの前髪から覗く少し下がり気味の眉は優しく穏やかな印象で、高身長で細身な見た目からは頼りない感じがするが、実際はテキパキと動き、力仕事も難なくこなした。
瀬戸は、秘書の村田の孫だ。介護施設で働いていたものの施設長の意向と自分のやりたいことの板挟みで悩んでいた瀬戸に村田が声をかけ、来栖家で働かせてもらうことになったという経緯があった。
「瀬戸くん、また世話になるな」
「それが僕の仕事ですから。しゃちょ……会長、美姫さんが迎えに来て下さってよかったですね」
瀬戸は今でも誠一郎のことを『社長』と呼んでいるのだが、現社長の妻である美姫の前では失礼だと思い、『会長』と呼び直した。
「代わります」
瀬戸は車椅子のグリップを握っていた美姫に声を掛け、手慣れた様子で誠一郎の車椅子を玄関からリビングへと進めた。実家はバリアフリーに全面改装され、階段には簡易エレベーターも設置されている。
「ベッドへお運びしますか?」
「いや、ソファにおろしてくれるか」
誠一郎の希望を聞き、瀬戸が車椅子から彼をしっかりと抱えてソファに座らせた。美姫ひとりだったら、父をソファにおろすのは至難の技だろう。
「瀬戸さんがいて下さって助かります。ありがとうございます」
お辞儀をする美姫に、瀬戸は照れたようにはにかんだ笑みを見せた。瀬戸は美姫より5つ上だが、こういう表情を見せる時は、恥ずかしがり屋の少年のようだった。
瀬戸はお茶と茶菓子を用意すると、せっかくの父娘の時間を邪魔しては悪いと思ったのか、
「買い物に出かけてきます」
と言って、出て行った。
この日は凛子がどうしても外せない会議があるからと頼まれ、美姫が代わりに病院に行くことになった。普通なら仕事が多忙な美姫にわざわざ頼むなどありえないが、凛子は父娘の時間を作ってあげたかったのだろうという思いを汲み、美姫もそれに応えたのだった。
「わざわざ済まないな」
「もう! それは言わない約束ですよ、お父様」
少し拗ねたように言った美姫に、誠一郎は嬉しそうに微笑んだ。
まだ自力では歩けない為、看護師が補助して車椅子にのせる。あれから一段と痩せた父の背中を見て、美姫は涙が込み上げてきた。
車椅子を押し、お世話になった医師や看護師に挨拶に回り、病院を後にした。
美姫が退院した時とは打って変わり、秋晴れの空が澄み渡っていた。東京でこれほど綺麗な水色の空が見られるのは珍しい。朝から昼にかけて強さを増しながらも穏やかな日光を肩に受け、頬を撫でる涼しい風に思わず目を細める。
「お父様、気持ちいい風ですね」
「あぁ、そうだな」
こんなにゆったりと穏やかな時間を父娘で過ごすのはいつ以来だろう、と美姫は少し寂しく思った。
病院を出たロータリーには、畑中が車を停車して待っていた。いつものトヨタのセンチュリーではなく、今日は車椅子のまま乗れるスロープ付きの自動車だ。
誠一郎の姿を認めた畑中はメインスイッチをオンにし、バックドアを開けた。
「退院、おめでとうございます」
畑中は、誠一郎に深々と挨拶した。
操作スイッチを押すと、静かにゆっくりとスロープが下りてきた。車内に入ってウィンチベルトを引き出すと車椅子に引っ掛ける。
「では、私が」
美姫に代わって畑中が車椅子のグリップを握りながらスイッチを押し、車椅子を後部座席へと誘導した。
久しぶりに帰ってきた我が家を目の前にし、誠一郎は嬉しそうに目を細めた。
畑中が玄関の門扉を開け、車椅子を押す。以前は門扉から玄関までは石が置かれていたのだが、それは撤去され、フラットな石畳が敷かれていた。
中庭に植えられたコスモスが茎を伸ばし、蕾がふくらみかけている。
「あと少しで咲きそうだな」
コスモスは、誠一郎が最も好きな花だった。
「えぇ、咲いたら一緒に見ましょうね、お父様」
「あぁ」
誠一郎が振り返り、笑顔を見せた。
自宅に戻ると、瀬戸が出迎えてくれた。
瀬戸は福祉大学を卒業した介護士の資格も持っている家政婦で、前回の誠一郎の退院時からずっと勤めているのでもう3年もの付き合いになる。家政婦と言っても20代の男性なので、ハウスキーパーと言った方がいいのかもしれない。少し長めの前髪から覗く少し下がり気味の眉は優しく穏やかな印象で、高身長で細身な見た目からは頼りない感じがするが、実際はテキパキと動き、力仕事も難なくこなした。
瀬戸は、秘書の村田の孫だ。介護施設で働いていたものの施設長の意向と自分のやりたいことの板挟みで悩んでいた瀬戸に村田が声をかけ、来栖家で働かせてもらうことになったという経緯があった。
「瀬戸くん、また世話になるな」
「それが僕の仕事ですから。しゃちょ……会長、美姫さんが迎えに来て下さってよかったですね」
瀬戸は今でも誠一郎のことを『社長』と呼んでいるのだが、現社長の妻である美姫の前では失礼だと思い、『会長』と呼び直した。
「代わります」
瀬戸は車椅子のグリップを握っていた美姫に声を掛け、手慣れた様子で誠一郎の車椅子を玄関からリビングへと進めた。実家はバリアフリーに全面改装され、階段には簡易エレベーターも設置されている。
「ベッドへお運びしますか?」
「いや、ソファにおろしてくれるか」
誠一郎の希望を聞き、瀬戸が車椅子から彼をしっかりと抱えてソファに座らせた。美姫ひとりだったら、父をソファにおろすのは至難の技だろう。
「瀬戸さんがいて下さって助かります。ありがとうございます」
お辞儀をする美姫に、瀬戸は照れたようにはにかんだ笑みを見せた。瀬戸は美姫より5つ上だが、こういう表情を見せる時は、恥ずかしがり屋の少年のようだった。
瀬戸はお茶と茶菓子を用意すると、せっかくの父娘の時間を邪魔しては悪いと思ったのか、
「買い物に出かけてきます」
と言って、出て行った。
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