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諦めきれない思い
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翌日は土曜日というだけでなく正月休みに入っていたが、家にいる気にはなれず美姫は朝早くに家を出た。
事務所に行って仕事でもしようかと思ったが、集中出来る気がしない。店を覗けばスタッフの女の子たちに捕まって、昨夜の『仲良し夫婦アワード』のことをあれこれ聞かれるのは分かっているので、そこにも行けない。
美姫が辿り着いたのは、秀一の所有するメモリアルホールだった。秀一への思いを封印するためにずっとここに来ることはなかったのに、彼への思いを再認識した途端、思い出溢れるこの場所に足が向いていた。
ほんと、自分勝手だな......
美姫は、そんな自分の気持ちを自嘲した。
来栖財閥の株主総会の為に訪れた時には苦しい気持ちでいっぱいだったが、今は苦しみの中に懐かしく甘い想いが胸を掠めていた。
オペラハウスのような外観のコンサートホールを眺め、入口に入る。ロビーはがらんとしていたが、扉の奥からは楽器の音が僅かに漏れ聞こえていた。
こちらに向けられる視線を感じて振り向くと、そこには馴染みの警備員が立っていた。
「お久し振りです」
挨拶し、警備員の元へと歩み寄った。声を掛けられた警備員は、嬉しそうに人のいい笑顔を見せた。
「今、ジルベスターコンサートのリハーサル中なんですよ」
ジルベスターコンサートは、大晦日に行われる主にクラシック音楽のコンサートだ。美姫がウィーンで参加した晩餐会でもそこに『Silvester』と書かれていたが、それはドイツ語で大晦日を意味する。
もうそんな時期なのかと、懐かしさが込み上げた。あの頃は時間がゆったりと流れているように感じていたのに、今は一日、一週間、一ヶ月がとてつもなく速く感じる。美姫は急に、自分がすごく年をとった気がした。
ホールの中に入ろうとは考えていなかったが、リハーサル中なら尚更邪魔は出来ない。踵を返そうとした美姫に、警備員が声をかける。
「ほんとは関係者以外立ち入り禁止なんですけど、覗いていきますか。二階席の後ろからそっと覗くぐらいなら邪魔になりませんし、文句を言われることもありませんから」
「え、いいんですか!?」
警備員にほんの僅か扉を開けてもらい、その隙間を縫うようにして中に入る。頭を下げてお礼すると、扉が閉まった。
美姫は席には座らず、立ったまま舞台を眺めていた。舞台では、ちょうど演奏が始まるところだった。
指揮者を囲むようにして配置されたオーケストラで、一人の女性ヴァイオリニストが指揮者の側に立っている。どうやらヴァイオリン協奏曲のようだ。
指揮者の手が上がり、演奏が始まる。ヴォイオリン協奏曲については詳しくないが、美姫でも知っている有名な曲だった。
フェリックス・メンデルスゾーンがヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲として作曲した「ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64」。ベートーヴェンの作品61、ブラームスの作品77と並んで、3大ヴァイオリン協奏曲と称される。
流麗優美でありながらも哀愁を帯びた、感傷的な旋律がヴァイオリンから奏でられる。独奏しているヴァイオリニストは表情は大人びているものの、おそらく10代後半だ。彼女の技巧的なパッセージもそうだが、その繊細な表現力の素晴らしさにも感嘆した。
華やかさに溢れる演奏に何もかも忘れ、引き込まれ、呑まれていく。現実世界から、曲の世界観へと誘われる。細胞の隅々にまで、音符が流れ込んでくるような感覚が気持ち良かった。
それは、今の美姫にとって何よりの救いだった。
ファンファーレが鳴り響き、管楽器とティンパニーが静寂を破る。躍動的なヴァイオリンの旋律がオケと一体になって響き渡る。
最後に華々しいコーダ(終結部)が流れ、幕を閉じた。
美姫は余韻と共に息を吐き出した。少し覗くつもりが演奏に引き込まれ、結局最後まで聴いてしまった。
ずっと眺めていたいが、長居して邪魔になってはいけないのでホールを後にすることにした。
ホールに背を向けようとした美姫は、自分に向かって階段を駆け上がってくる音を聞いて振り返った。その姿を見て、扉の取っ手に触れていた手が下ろされる。
あれ、は......
事務所に行って仕事でもしようかと思ったが、集中出来る気がしない。店を覗けばスタッフの女の子たちに捕まって、昨夜の『仲良し夫婦アワード』のことをあれこれ聞かれるのは分かっているので、そこにも行けない。
美姫が辿り着いたのは、秀一の所有するメモリアルホールだった。秀一への思いを封印するためにずっとここに来ることはなかったのに、彼への思いを再認識した途端、思い出溢れるこの場所に足が向いていた。
ほんと、自分勝手だな......
美姫は、そんな自分の気持ちを自嘲した。
来栖財閥の株主総会の為に訪れた時には苦しい気持ちでいっぱいだったが、今は苦しみの中に懐かしく甘い想いが胸を掠めていた。
オペラハウスのような外観のコンサートホールを眺め、入口に入る。ロビーはがらんとしていたが、扉の奥からは楽器の音が僅かに漏れ聞こえていた。
こちらに向けられる視線を感じて振り向くと、そこには馴染みの警備員が立っていた。
「お久し振りです」
挨拶し、警備員の元へと歩み寄った。声を掛けられた警備員は、嬉しそうに人のいい笑顔を見せた。
「今、ジルベスターコンサートのリハーサル中なんですよ」
ジルベスターコンサートは、大晦日に行われる主にクラシック音楽のコンサートだ。美姫がウィーンで参加した晩餐会でもそこに『Silvester』と書かれていたが、それはドイツ語で大晦日を意味する。
もうそんな時期なのかと、懐かしさが込み上げた。あの頃は時間がゆったりと流れているように感じていたのに、今は一日、一週間、一ヶ月がとてつもなく速く感じる。美姫は急に、自分がすごく年をとった気がした。
ホールの中に入ろうとは考えていなかったが、リハーサル中なら尚更邪魔は出来ない。踵を返そうとした美姫に、警備員が声をかける。
「ほんとは関係者以外立ち入り禁止なんですけど、覗いていきますか。二階席の後ろからそっと覗くぐらいなら邪魔になりませんし、文句を言われることもありませんから」
「え、いいんですか!?」
警備員にほんの僅か扉を開けてもらい、その隙間を縫うようにして中に入る。頭を下げてお礼すると、扉が閉まった。
美姫は席には座らず、立ったまま舞台を眺めていた。舞台では、ちょうど演奏が始まるところだった。
指揮者を囲むようにして配置されたオーケストラで、一人の女性ヴァイオリニストが指揮者の側に立っている。どうやらヴァイオリン協奏曲のようだ。
指揮者の手が上がり、演奏が始まる。ヴォイオリン協奏曲については詳しくないが、美姫でも知っている有名な曲だった。
フェリックス・メンデルスゾーンがヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲として作曲した「ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64」。ベートーヴェンの作品61、ブラームスの作品77と並んで、3大ヴァイオリン協奏曲と称される。
流麗優美でありながらも哀愁を帯びた、感傷的な旋律がヴァイオリンから奏でられる。独奏しているヴァイオリニストは表情は大人びているものの、おそらく10代後半だ。彼女の技巧的なパッセージもそうだが、その繊細な表現力の素晴らしさにも感嘆した。
華やかさに溢れる演奏に何もかも忘れ、引き込まれ、呑まれていく。現実世界から、曲の世界観へと誘われる。細胞の隅々にまで、音符が流れ込んでくるような感覚が気持ち良かった。
それは、今の美姫にとって何よりの救いだった。
ファンファーレが鳴り響き、管楽器とティンパニーが静寂を破る。躍動的なヴァイオリンの旋律がオケと一体になって響き渡る。
最後に華々しいコーダ(終結部)が流れ、幕を閉じた。
美姫は余韻と共に息を吐き出した。少し覗くつもりが演奏に引き込まれ、結局最後まで聴いてしまった。
ずっと眺めていたいが、長居して邪魔になってはいけないのでホールを後にすることにした。
ホールに背を向けようとした美姫は、自分に向かって階段を駆け上がってくる音を聞いて振り返った。その姿を見て、扉の取っ手に触れていた手が下ろされる。
あれ、は......
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