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奪われた幸せ ー久美sideー
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まずは斎主、巫女のあとに新郎新婦が続き、その後ろを両家の親、兄妹、親戚がぞろぞろと列をなして進む。新郎は右手、新婦は左手になるため、西神門を曲がる時には美姫が間近を通ることになる。
巫女から少し離れた後ろから、美姫と大和は一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと歩いている。ふたりのすぐ後ろには神職の男性がついているが、真っ赤な大きな番傘を美姫の上に翳しているため、何かあったとしても咄嗟に反応することは出来ない。
久美は東神門から自分の立っている西神門に向かって歩いてくる美姫の様子を、つぶさに観察していた。
絶妙のタイミングで飛び出さなければ、すぐに警備員に止められてしまう。バッグの口金に添えている久美の指先は、真夏の暑さにも関わらず凍りつきそうに冷たく、小刻みに震えている。背中にはねっとりとした重たい汗が、まるで蝸牛が粘液を出しながら移動するようにじわじわと伝っていく。
何度も何度も頭の中でシミュレーションしてきた。
絶対に、失敗は許されない。
遠目に見える美姫の朱塗りの紅が、周りの白を弾くように鮮やかに浮き立っていた。
ゆっくり、ゆっくりとこちらに向かって一歩ずつ近づいてくる行列。一歩近づくごとに、久美の心臓もドクンと脈打ちながら高まっていく。
口金を外し、バッグの中に手を差し入れたままナイフの柄を掴んだ。掴んだ掌から汗が滲み、力が籠もる。
---人を殺してはいけない。
そんなことは、当然だと思っていた。
でも、なんで人を殺してはいけないの?
生き物の世界では、「弱肉強食」が基本で、弱いものは強いものに殺され、食べられる。それが自然の摂理であり、それがなければ食物連鎖は成り立たず、自然界は崩壊する。
じゃあ、人間界にはそれがないかといえば、そんなことはない。
人食い人種は飢餓などの特別な理由なく人を殺して食していたし、長い歴史において人間は多くの時間を戦いに費やし、数多くの同じ人間を殺してきた。それもまた、弱肉強食の世界だといえるだろう。
人を殺す理由は、食料を手にいれる為であったり、女や子供や奴隷を手にいれる為であったり、植民地を拡大する為であったり、自国を守る為であったりと様々だ。
『汝、人を殺すことなかれ』と説いた神の教えを信じ、自分たちの宗教を守るべく、別の宗教、もしくは同じ宗教の異なる宗派の人間を殺すことだってある。
今この瞬間だって、世界の至る所で人が人によって殺されているんだ。それは、直接であるとは限らない。間接的に人を殺しめていることもある。
それでも多くの人々は、この国に住む人たちは、人を殺してはいけないという。
それは、『悪』なのだと。
日本で生まれ、育ってきた私は、それが本能的にしてはいけないことなのだと体感している。
『小さな虫にも五分の魂』というように、生けるものを無闇に殺してはいけないと諭され、お天道様が見ているよと諌められ、人を殺したら必ずその報いが訪れると脅され、自分や相手の家族や友人が悲しむのだと教えられ、人を殺せば法律によって裁かれると知り、自分が築いてきた全てのものを失うことになるのだと考えさせられ、その時その時の成長段階に従って倫理観や道徳観念を植え付けられてきた。
それが何重もの箍となって、『人を殺してはいけない』という概念を強固に守っている。
通常の社会生活を送っている変態的趣向のない成人を過ぎた人間に対し、脅されることも、必要性に迫られることもない状況で、トイレ以外の場所でいきなり放尿させようとしてもなかなか実行出来ないそうだ。たとえ誰に見られていなくても、脳から必死に命令を送っても、躰はすぐには反応してくれない。その行為をしても大丈夫なのだと、悪いことではないと、安全なのだと、何度も何度も脳に教えこむことにより、ようやく躰はその信号を受け取り、実行に移す。
誰かを殺したい、と思ったことのある人間は多くいるだろう。それが実行されなかったのは、倫理観や道徳概念のおかげだけではない。
本能が、そうさせないからだ。
脳が必死に命令したところで、躰が実行に移してくれない。
じゃあ、それをどうやったら乗り越えられるのだろうか。
倫理観や道徳概念という何重もの箍を、それを超える程の激しい憎悪によってひとつひとつ断ち切っていく。
脳に『来栖美姫を殺せ』という命令をインプットし、それを実行する姿を何度も頭の中でシミュレーションしながら言い聞かせる。
来栖美姫は、私から礼音を奪った憎むべき人間だ。
彼女を殺すことは、悪くない。
彼女は殺されて、当然だ。
彼女は殺されるべき、人間なのだ。
私は、正しいことをしている。
それは、実行されるべきことだ。
そうして私は、『人を殺してはいけない』という概念を破壊した。
躰は、万全体制だ。
---もう躊躇う気持ちなど、ない。
巫女から少し離れた後ろから、美姫と大和は一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと歩いている。ふたりのすぐ後ろには神職の男性がついているが、真っ赤な大きな番傘を美姫の上に翳しているため、何かあったとしても咄嗟に反応することは出来ない。
久美は東神門から自分の立っている西神門に向かって歩いてくる美姫の様子を、つぶさに観察していた。
絶妙のタイミングで飛び出さなければ、すぐに警備員に止められてしまう。バッグの口金に添えている久美の指先は、真夏の暑さにも関わらず凍りつきそうに冷たく、小刻みに震えている。背中にはねっとりとした重たい汗が、まるで蝸牛が粘液を出しながら移動するようにじわじわと伝っていく。
何度も何度も頭の中でシミュレーションしてきた。
絶対に、失敗は許されない。
遠目に見える美姫の朱塗りの紅が、周りの白を弾くように鮮やかに浮き立っていた。
ゆっくり、ゆっくりとこちらに向かって一歩ずつ近づいてくる行列。一歩近づくごとに、久美の心臓もドクンと脈打ちながら高まっていく。
口金を外し、バッグの中に手を差し入れたままナイフの柄を掴んだ。掴んだ掌から汗が滲み、力が籠もる。
---人を殺してはいけない。
そんなことは、当然だと思っていた。
でも、なんで人を殺してはいけないの?
生き物の世界では、「弱肉強食」が基本で、弱いものは強いものに殺され、食べられる。それが自然の摂理であり、それがなければ食物連鎖は成り立たず、自然界は崩壊する。
じゃあ、人間界にはそれがないかといえば、そんなことはない。
人食い人種は飢餓などの特別な理由なく人を殺して食していたし、長い歴史において人間は多くの時間を戦いに費やし、数多くの同じ人間を殺してきた。それもまた、弱肉強食の世界だといえるだろう。
人を殺す理由は、食料を手にいれる為であったり、女や子供や奴隷を手にいれる為であったり、植民地を拡大する為であったり、自国を守る為であったりと様々だ。
『汝、人を殺すことなかれ』と説いた神の教えを信じ、自分たちの宗教を守るべく、別の宗教、もしくは同じ宗教の異なる宗派の人間を殺すことだってある。
今この瞬間だって、世界の至る所で人が人によって殺されているんだ。それは、直接であるとは限らない。間接的に人を殺しめていることもある。
それでも多くの人々は、この国に住む人たちは、人を殺してはいけないという。
それは、『悪』なのだと。
日本で生まれ、育ってきた私は、それが本能的にしてはいけないことなのだと体感している。
『小さな虫にも五分の魂』というように、生けるものを無闇に殺してはいけないと諭され、お天道様が見ているよと諌められ、人を殺したら必ずその報いが訪れると脅され、自分や相手の家族や友人が悲しむのだと教えられ、人を殺せば法律によって裁かれると知り、自分が築いてきた全てのものを失うことになるのだと考えさせられ、その時その時の成長段階に従って倫理観や道徳観念を植え付けられてきた。
それが何重もの箍となって、『人を殺してはいけない』という概念を強固に守っている。
通常の社会生活を送っている変態的趣向のない成人を過ぎた人間に対し、脅されることも、必要性に迫られることもない状況で、トイレ以外の場所でいきなり放尿させようとしてもなかなか実行出来ないそうだ。たとえ誰に見られていなくても、脳から必死に命令を送っても、躰はすぐには反応してくれない。その行為をしても大丈夫なのだと、悪いことではないと、安全なのだと、何度も何度も脳に教えこむことにより、ようやく躰はその信号を受け取り、実行に移す。
誰かを殺したい、と思ったことのある人間は多くいるだろう。それが実行されなかったのは、倫理観や道徳概念のおかげだけではない。
本能が、そうさせないからだ。
脳が必死に命令したところで、躰が実行に移してくれない。
じゃあ、それをどうやったら乗り越えられるのだろうか。
倫理観や道徳概念という何重もの箍を、それを超える程の激しい憎悪によってひとつひとつ断ち切っていく。
脳に『来栖美姫を殺せ』という命令をインプットし、それを実行する姿を何度も頭の中でシミュレーションしながら言い聞かせる。
来栖美姫は、私から礼音を奪った憎むべき人間だ。
彼女を殺すことは、悪くない。
彼女は殺されて、当然だ。
彼女は殺されるべき、人間なのだ。
私は、正しいことをしている。
それは、実行されるべきことだ。
そうして私は、『人を殺してはいけない』という概念を破壊した。
躰は、万全体制だ。
---もう躊躇う気持ちなど、ない。
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