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愛憎の果て

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 暫くして、飛行機が滑走路に向かってゆっくりと進み始める。エンジンの轟音が響き、そこから見える空気が揺らめいていた。真っ直ぐに伸びた滑走路に入った眩い白の金属の巨体が、徐々にスピードを増して滑っていく。

 それを美姫は、ずっと見つめていた。

 秀一さんはウィーンに着いた時、いったいどんな思いになるのだろう......
 私のことを、どう思うだろう......

「ッ...ウゥッ...ッグ......ゥヴッ......」

 美姫は、秀一に絞められた首をさすった。きっとそこは、赤黒い痣がくっきりと残っているだろう。

 愛と憎しみは紙一重---

 秀一の愛情を憎しみに変え、悪魔の行動へと駆り立ててしまったのは自分なのだ。あの時の秀一の狂気に満ちた血走った瞳とギリギリと締め付けられる首の痛みを、美姫は一生忘れることはないだろう。

 だが、殺されそうになりながらも、あの時美姫の心を支配していたのは恐怖ではなく、深い哀しみだった。
 
 もしログハウスから出る以前に秀一に一緒に死のうと言われていたら、美姫は喜んで自らの命を彼に捧げただろう。

 添い遂げられない運命なら、一緒に滅びても構わない。

 本気でそう、思っていた。

 けれど、現実の世界へと引き戻された時に、それがどれほど自分勝手なエゴなのかということを思い知らされた。

 自分たちのせいで、罪もない人たちの生活が犠牲になり、脅かされている。父が倒れてしまった今、来栖財閥の未来を自分が支えていかなければならないのだ。

 滑走路を勢い良く滑っていた飛行機の腹がフワッと浮き上がり、少しぐらつきながらもぐんぐん上空していく。

 秀一は、美姫さえいれば何もいらないと言ってくれた。それは、彼の真実の言葉であると美姫は知っていた。

 だが、彼は自分の気づかぬ間に、ピアノが彼の一部となっていたのだ。 
 無意識で欲する程に、渇望してやまない......彼の魂の一部。

 それを知ってしまった美姫にはもう、彼のピアニストとしての人生を失わせることなど出来なかった。

 ピアニスト、来栖秀一としてだけでなく、ひとりの人間、来栖秀一を殺めることになるから。
 何よりも、世界の聴衆が彼のピアノを求めている。

 彼の場所は、美姫の隣ではない。
 世界、なのだ。

 ごめん、なさい......ごめんなさい、秀一さん。

 私を恨んでもいい。
 憎んでも、いいから。

 もう、私のことを忘れてもいいですから.....
 どうか、一流のピアニストとして世界に羽ばたいて下さい。
 世界中の観衆を魅了してやまない、愛されるピアニストに。

 さようなら。
 さよう、なら......私の、愛しい人。

 私はいつまでも貴方を愛し続けます。
 遠くから、ずっと。


 ---これが、私の秀一さんへの愛なんです。


 愛してるから。
 愛しているからこそ、さようなら......

 美姫は、鞄の中にあった一片の紙切れを取り出した。そこには、力強い文字で走り書きがされていた。

『悠の意識が戻った。あいつは戦った。
 美姫、お前も負けるな。戦え。

 何かあったら俺を頼れ』

 大和の言葉があったからこそ、こうして美姫は秀一を見送ることが出来た。

 大和との婚約会見をし、秀一との恋愛関係を否定したところで、疑惑が完全になくなるとは思わない。失ってしまった来栖財閥の信用を取り戻すのは、並大抵のことではないとも分かっている。

 けれど、秀一がウィーンで再びピアニストとしての道を歩み、来栖財閥を立て直し、両親の側にいて見守るため、美姫は覚悟を決めていた。

 もう、後ろは振り向かない。
 破滅への道は、断つ。

 ---私は、前を向いて......大和と共に、未来への道を歩いて行く。

 美姫は紙片を握る指に力を込め、雲の中に吸い込まれていった飛行機の、見えなくなった空を見上げた。
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