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狂気に染まる愛
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真夜中、衣擦れの音で美姫は目を覚ました。
ふと横を見上げると、秀一が起き上がり、ベッドから下りるところだった。
「しゅ、いち......さん?」
声をかけるものの、秀一の耳には入っていないのか、まるで夢遊病者のようにふらふらと覚束ない足取りで衣服も纏わないまま裸体で部屋を出て行く。
不安が高まった美姫はベッドの下に落ちている夜着を拾うとスッと首から通し、秀一の後を少し離れて歩いた。
どこへ......行くの?
秀一が棚の上に置いてある鍵を取り、ピアノルームへと向かって歩いて行く。
扉の前に立つと鍵穴に鍵を差し、扉を開けたまま入っていった。ピアノルームには防音設備が施されている為、通常であれば部屋の扉を閉めずに秀一が真夜中にピアノを弾くなど、ありえない。
秀一さん……何をする、つもりなの!?
美姫は不安な思いに襲われながらも、扉に手を掛け、そこから部屋を覗き込んだ。
月明かりを浴びた秀一の表情は、微睡んでいるかのように焦点がはっきりとしていなかった。それを見た美姫は、目に見えない恐怖に呑み込まれそうになり、ぐっと拳を胸の前で握った。
秀一がふらふらとピアノに寄り、ピアノ椅子を引くとゆっくりと腰掛けた。鍵盤蓋を開け、ベルベットの布を外して床へ落とす。
そんな仕草も、いつもの秀一らしくない。
長く細い美しい指先が白く照らされ、白鍵の上に置かれる。
美姫は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1801年に作曲した、3大ピアノソナタのひとつ。ソナタ第14番嬰ハ短調 作品27-2 『幻想曲風ソナタ』("Sonata quasi una Fantasia")
通称、『月光ソナタ』と呼ばれる。
が、これはベートーヴェン自身がつけたものではなく、ドイツの音楽評論家、詩人であるルートヴィヒ・レルシュタープがこの曲の第1楽章がもたらす効果を指して「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と表現したことに由来している。
3つの楽章から構成され、速度の面では緩やかな第1楽章、軽快な第2楽章、急速な第3楽章と楽章が進行するごとにテンポが速くなる序破急的な展開となっている。情動の変遷が、強健な意志の下に揺るぎない帰結を迎える楽曲である。
「月光」という名に最も相応しい、第一楽章。
時折音の外れる調べは、月光の波に揺らぐ小舟というよりは、傾いた小舟がゆっくりとじわじわ深い海の闇に沈み込んでいく様だ。
なんて、物悲しくて、やるせない......
それでいて、不気味な旋律なんだろう。
美姫は、口元を手で覆った。
ピアノを弾きながら彼の躰は緩慢に左右に揺れ、指が重く鍵盤へと沈んでいく。
そう、小舟は秀一自身なのだ。彼は今、船を漕ぐ櫂を失い、船底に穴が空き、ゆっくりと沈もうとしている。テンポを変えることなく、厳かに続いていくリズムが不安を一層掻き立てるかのようだった。
第二楽章に入ると、がらりと様相が変わる。
本来であれば、厳かで緩やかなリズムから軽快な弾むようなリズムへと変化する第二楽章。だが、音の外れたそのメロディーは、美しい旋律に慣れきった美姫の耳には不快な耳障りとなって響いた。
誰よりも美しく完璧な音を求める秀一さんが、なぜ平気で弾いていられるの?
扉に立ち竦んだ美姫の瞳に映るのは、魂を吸い取られたかのようにピアノに向かう秀一の姿だった。
魅惑的なライトグレーの瞳は光を失い、鍵盤を見つめることなく焦点の合わない視線を彷徨わせていた。ただ細く長い指だけが忙しなく、鍵盤の上を舞う。
美姫には弾かれるその音が、悪魔の足音のように聴こえた。
悪魔が漆黒の闇を連れて、近づいてくる......
第三楽章に入り、秀一の指先から奏でられる旋律が次第に狂気を増していく。
怒り、悲しみ、憎しみ、憤り……その全てを激しく鍵盤に叩きつけるかのように、弾き出す。
調律されていないピアノの、狂った音程が美姫の精神を蝕んでいく。感情が、魂が、激しく揺さぶられる。荒々しい秀一の魂の昂りが烈火の如く、美姫を焼き尽くしていく。
「ウウッ…ッグ……」
美姫が嗚咽を漏らし、床に崩れ落ち、肩を戦慄かせる。瞼の奥が熱く焼けつき、脳髄がかっ切れ、胃から這い上がってくる気持ち悪さが彼女を追い詰めていく。
や...めて…や、めて……苦、しい……
いつもなら美姫の気配に気付かぬ事などない秀一が、取り憑かれたかのように一心不乱にピアノに向かっている。
ふと横を見上げると、秀一が起き上がり、ベッドから下りるところだった。
「しゅ、いち......さん?」
声をかけるものの、秀一の耳には入っていないのか、まるで夢遊病者のようにふらふらと覚束ない足取りで衣服も纏わないまま裸体で部屋を出て行く。
不安が高まった美姫はベッドの下に落ちている夜着を拾うとスッと首から通し、秀一の後を少し離れて歩いた。
どこへ......行くの?
秀一が棚の上に置いてある鍵を取り、ピアノルームへと向かって歩いて行く。
扉の前に立つと鍵穴に鍵を差し、扉を開けたまま入っていった。ピアノルームには防音設備が施されている為、通常であれば部屋の扉を閉めずに秀一が真夜中にピアノを弾くなど、ありえない。
秀一さん……何をする、つもりなの!?
美姫は不安な思いに襲われながらも、扉に手を掛け、そこから部屋を覗き込んだ。
月明かりを浴びた秀一の表情は、微睡んでいるかのように焦点がはっきりとしていなかった。それを見た美姫は、目に見えない恐怖に呑み込まれそうになり、ぐっと拳を胸の前で握った。
秀一がふらふらとピアノに寄り、ピアノ椅子を引くとゆっくりと腰掛けた。鍵盤蓋を開け、ベルベットの布を外して床へ落とす。
そんな仕草も、いつもの秀一らしくない。
長く細い美しい指先が白く照らされ、白鍵の上に置かれる。
美姫は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1801年に作曲した、3大ピアノソナタのひとつ。ソナタ第14番嬰ハ短調 作品27-2 『幻想曲風ソナタ』("Sonata quasi una Fantasia")
通称、『月光ソナタ』と呼ばれる。
が、これはベートーヴェン自身がつけたものではなく、ドイツの音楽評論家、詩人であるルートヴィヒ・レルシュタープがこの曲の第1楽章がもたらす効果を指して「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と表現したことに由来している。
3つの楽章から構成され、速度の面では緩やかな第1楽章、軽快な第2楽章、急速な第3楽章と楽章が進行するごとにテンポが速くなる序破急的な展開となっている。情動の変遷が、強健な意志の下に揺るぎない帰結を迎える楽曲である。
「月光」という名に最も相応しい、第一楽章。
時折音の外れる調べは、月光の波に揺らぐ小舟というよりは、傾いた小舟がゆっくりとじわじわ深い海の闇に沈み込んでいく様だ。
なんて、物悲しくて、やるせない......
それでいて、不気味な旋律なんだろう。
美姫は、口元を手で覆った。
ピアノを弾きながら彼の躰は緩慢に左右に揺れ、指が重く鍵盤へと沈んでいく。
そう、小舟は秀一自身なのだ。彼は今、船を漕ぐ櫂を失い、船底に穴が空き、ゆっくりと沈もうとしている。テンポを変えることなく、厳かに続いていくリズムが不安を一層掻き立てるかのようだった。
第二楽章に入ると、がらりと様相が変わる。
本来であれば、厳かで緩やかなリズムから軽快な弾むようなリズムへと変化する第二楽章。だが、音の外れたそのメロディーは、美しい旋律に慣れきった美姫の耳には不快な耳障りとなって響いた。
誰よりも美しく完璧な音を求める秀一さんが、なぜ平気で弾いていられるの?
扉に立ち竦んだ美姫の瞳に映るのは、魂を吸い取られたかのようにピアノに向かう秀一の姿だった。
魅惑的なライトグレーの瞳は光を失い、鍵盤を見つめることなく焦点の合わない視線を彷徨わせていた。ただ細く長い指だけが忙しなく、鍵盤の上を舞う。
美姫には弾かれるその音が、悪魔の足音のように聴こえた。
悪魔が漆黒の闇を連れて、近づいてくる......
第三楽章に入り、秀一の指先から奏でられる旋律が次第に狂気を増していく。
怒り、悲しみ、憎しみ、憤り……その全てを激しく鍵盤に叩きつけるかのように、弾き出す。
調律されていないピアノの、狂った音程が美姫の精神を蝕んでいく。感情が、魂が、激しく揺さぶられる。荒々しい秀一の魂の昂りが烈火の如く、美姫を焼き尽くしていく。
「ウウッ…ッグ……」
美姫が嗚咽を漏らし、床に崩れ落ち、肩を戦慄かせる。瞼の奥が熱く焼けつき、脳髄がかっ切れ、胃から這い上がってくる気持ち悪さが彼女を追い詰めていく。
や...めて…や、めて……苦、しい……
いつもなら美姫の気配に気付かぬ事などない秀一が、取り憑かれたかのように一心不乱にピアノに向かっている。
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