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一抹の不安
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シュテファン大聖堂の目の前にあるホテル。立て看板のある建物のドアを入り、エレベーターで6階に上がると目的のバーはあった。
照明が落とされた店内とは対照的に、一面ガラス張りの大きな窓の目の前に迫るように映し出されるシュテファン大聖堂を下から照らすライトアップのオレンジの眩い光は店内にまで射し込んでいた。窓際に設けられた薄いモスグリーンの肘掛けチェアを秀一が引いてくれる。美姫はささやかな笑みを浮かべて腰掛けた。
隣に座る秀一さんはこんなに近くにいて、優しいはずなのに……
なぜ、こんなにも胸が苦しいのだろう……
美姫の心の中に鬱積したもやもやは、もう積もり積もって息の根を止めてしまいそうだった。それでも、そんな濃厚な霧を振り払うかのように、美姫は窓から見える景色に感嘆の声をあげた。
「わぁっ、凄い……!!!本当に近くて、手が届きそう。素敵……」
ここからだとシュテファン大聖堂のモザイク画のような大屋根を間近にみることが出来た。このバー独自のカクテルが豊富にあるらしいが、ドイツ語の読めない美姫は秀一にお任せすることにした。
珍しく秀一もカクテルを頼んだらしく、2人でグラスを傾けて乾杯する。無機質な高音が静かな店内に小さく響いた。
「…今日はとても楽しかったです。ありがとうございました、秀一さん」
「私も美姫とウィーンに来られて、この街を紹介することができて嬉しかったですよ」
秀一はいつもと変わらない調子で微笑むと、泡の立ったシャンパンゴールドのカクテルに長い指を掛け、優雅に口に付けた。美姫は気を取り直し、明日の話題を持ち出すことにした。
「明日、モルテッソーニについに会えるのかと思うと緊張して...今夜は眠れなさそうです」
そう言いながら美姫が既に緊張した顔を見せると、フフッと秀一が笑った。
「ピアノの指導の時は厳しいですが、普段は気のいい老人ですので、美姫が気に病むことはありませんよ」
モルテッソーニのことを『気のいい老人』だなんて言えてしまう秀一に美姫は内心驚きながら、以前コンサートホールで見た彼の顔を思い出した。
あの時は……威厳があって、力強いオーラを感じて、『ピアノ界の巨匠』その名の通りだと思った。
「そう、なんですか?」
「えぇ。今回美姫と一緒にウィーンに行くと話したら、是非とも会いたいと言っていましたよ」
秀一が少し遠い目をした後、美姫に柔らかい笑みを見せた。知らないところで秀一が自分の話をしてくれていたのだと思うと、美姫はなんだか擽ったい気持ちになった。
「ザックはまだモルテッソーニの家に泊まり込みで師事しているんですか」
「えぇ。現在モルテッソーニの元には彼の他に3人が住んでいます」
秀一さんもそこで兄弟弟子の方達と刺激し合いながら、切磋琢磨したのかな……それにしても、一気に4人もの弟子の面倒を見るなんて、凄い。
「モルテッソーニは後継者を育てるのに熱心なんですね」
「……そう、ですね」
ほんの僅か、秀一の表情に影が差し、返事に間があいたのが気になったが、美姫は気付かないふりをして慌てて次の話題を探した。
「兄弟弟子の方達とも会えるのが楽しみです」
「ふふっ、個性的な面々ですよ」
思い出したように笑って見つめた先には、自分の知らない秀一のここでの思い出があり、その笑顔が自分ではない誰かに向けられていたのかと思うと、美姫の胸にチリチリと焼け付くような焦燥と嫉妬が湧いてきた。
「それ以降は仕事が入っているのでずっと忙しくなってしまいます。美姫も現場に連れて行きたいのですが、私の勝手のきかない場所なので……」
秀一が申し訳なさそうに溜息をついた。その憂いを帯びた溜息をつく横顔が大聖堂をライトアップする柔らかいオレンジ色に染まり、ゾクリとするぐらいの色香が匂っていた。
私が秀一さんの仕事場についていくことの方が普通じゃないのに……
美姫は秀一の重荷になっているのが申し訳なくて、なるべく明るい声音で返した。
「私のことなら気にしないで下さい。秀一さんが仕事でオーストリアに行くことは最初から分かっていましたし、その上でついていきたいって言ったのは私ですから。
それに…明後日からはお父様とお母様と過ごせますし……」
そう言った美姫は、日本での両親とのやりとりを思い出していた。
照明が落とされた店内とは対照的に、一面ガラス張りの大きな窓の目の前に迫るように映し出されるシュテファン大聖堂を下から照らすライトアップのオレンジの眩い光は店内にまで射し込んでいた。窓際に設けられた薄いモスグリーンの肘掛けチェアを秀一が引いてくれる。美姫はささやかな笑みを浮かべて腰掛けた。
隣に座る秀一さんはこんなに近くにいて、優しいはずなのに……
なぜ、こんなにも胸が苦しいのだろう……
美姫の心の中に鬱積したもやもやは、もう積もり積もって息の根を止めてしまいそうだった。それでも、そんな濃厚な霧を振り払うかのように、美姫は窓から見える景色に感嘆の声をあげた。
「わぁっ、凄い……!!!本当に近くて、手が届きそう。素敵……」
ここからだとシュテファン大聖堂のモザイク画のような大屋根を間近にみることが出来た。このバー独自のカクテルが豊富にあるらしいが、ドイツ語の読めない美姫は秀一にお任せすることにした。
珍しく秀一もカクテルを頼んだらしく、2人でグラスを傾けて乾杯する。無機質な高音が静かな店内に小さく響いた。
「…今日はとても楽しかったです。ありがとうございました、秀一さん」
「私も美姫とウィーンに来られて、この街を紹介することができて嬉しかったですよ」
秀一はいつもと変わらない調子で微笑むと、泡の立ったシャンパンゴールドのカクテルに長い指を掛け、優雅に口に付けた。美姫は気を取り直し、明日の話題を持ち出すことにした。
「明日、モルテッソーニについに会えるのかと思うと緊張して...今夜は眠れなさそうです」
そう言いながら美姫が既に緊張した顔を見せると、フフッと秀一が笑った。
「ピアノの指導の時は厳しいですが、普段は気のいい老人ですので、美姫が気に病むことはありませんよ」
モルテッソーニのことを『気のいい老人』だなんて言えてしまう秀一に美姫は内心驚きながら、以前コンサートホールで見た彼の顔を思い出した。
あの時は……威厳があって、力強いオーラを感じて、『ピアノ界の巨匠』その名の通りだと思った。
「そう、なんですか?」
「えぇ。今回美姫と一緒にウィーンに行くと話したら、是非とも会いたいと言っていましたよ」
秀一が少し遠い目をした後、美姫に柔らかい笑みを見せた。知らないところで秀一が自分の話をしてくれていたのだと思うと、美姫はなんだか擽ったい気持ちになった。
「ザックはまだモルテッソーニの家に泊まり込みで師事しているんですか」
「えぇ。現在モルテッソーニの元には彼の他に3人が住んでいます」
秀一さんもそこで兄弟弟子の方達と刺激し合いながら、切磋琢磨したのかな……それにしても、一気に4人もの弟子の面倒を見るなんて、凄い。
「モルテッソーニは後継者を育てるのに熱心なんですね」
「……そう、ですね」
ほんの僅か、秀一の表情に影が差し、返事に間があいたのが気になったが、美姫は気付かないふりをして慌てて次の話題を探した。
「兄弟弟子の方達とも会えるのが楽しみです」
「ふふっ、個性的な面々ですよ」
思い出したように笑って見つめた先には、自分の知らない秀一のここでの思い出があり、その笑顔が自分ではない誰かに向けられていたのかと思うと、美姫の胸にチリチリと焼け付くような焦燥と嫉妬が湧いてきた。
「それ以降は仕事が入っているのでずっと忙しくなってしまいます。美姫も現場に連れて行きたいのですが、私の勝手のきかない場所なので……」
秀一が申し訳なさそうに溜息をついた。その憂いを帯びた溜息をつく横顔が大聖堂をライトアップする柔らかいオレンジ色に染まり、ゾクリとするぐらいの色香が匂っていた。
私が秀一さんの仕事場についていくことの方が普通じゃないのに……
美姫は秀一の重荷になっているのが申し訳なくて、なるべく明るい声音で返した。
「私のことなら気にしないで下さい。秀一さんが仕事でオーストリアに行くことは最初から分かっていましたし、その上でついていきたいって言ったのは私ですから。
それに…明後日からはお父様とお母様と過ごせますし……」
そう言った美姫は、日本での両親とのやりとりを思い出していた。
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