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55. ラインハルトとステファンの出会い

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 私がステファンを初めて見たのは、まだ彼が9歳か10歳の頃だった。

 その時、公演に来ていた私は、英国にピアノの神童がいると聞いて興味が湧いた。しかもその母親は元ピアニストであったエレノアだと知り、興奮した。

 エレノアとは彼女がウィーン留学時代に知り合った。

 エレノアの弾きだす演奏は透明感に溢れ、美しく繊細でありながら情感豊か。彼女が鍵盤に触れた先から音だけでなく、光が、色が、匂いが溢れ出し、情景を産み出し、聴いたものの心の奥深くにまで入り込む。その奏でに私だけでなく、誰もが強く惹かれたものだった。

 その後彼女は帰国し、私たちの連絡は途絶えたが、お互いピアニストとして活躍していれば必ずまた会えると信じていた。

 ……私は知らなかった。その後彼女がレイモンド・クリステンセンの愛人になり、子供を産み、ピアニストとしての道を諦め、細々とピアノ教室をしていたことを。
 そして、若くして事故で亡くなっていたことを……

 それを英国に来てから知った私は、愕然とした。そして、エレノアの息子が私の滞在中にピアノコンクールに出場すると聞き、多忙なスケジュールの合間を縫って見に行くことにしたのだ。再びエレノアの美しい調べを彼女の息子を通じて聴けるのではないか、と興奮を隠しきれずにいた。

 ステファンは、エレノアの特徴をよく受け継いでいた。
 艶やかな銀髪、滑らかで白い肌、華奢な躰つき、すっと筋の通った鼻、聡明そうな顔立ち……しかし何と言っても彼のライトグレーの瞳。それは、エレノアそのものだった。

 私はピアノ椅子に座るステファンに釘付けとなった。

 だが、私の期待と興奮は彼の指先が鍵盤に掛かった途端、見事に裏切られることとなった。

 確かに、ステファンはその若さで言えばかなりの技術力があった。譜面通りにピアノを弾く、その意味では完璧であり、コンクールではまさにそれが問われる。

 だが……

 彼の目は、死んでいる。

 何をも映さない、深く淀んだ彼の瞳を見た途端、私は彼への興味を急速に失った。いくら技術が優れていても、プロのピアニストになるには人の心を動かすようなものがなければ成功しない。彼には、一番大切な心が欠けている。

 私はそこで彼を見切り、会場を後にした。

 それから私はすっかりステファンのことは忘れ、ウィーンで多忙な生活を送っていた。

 数年経ち、ステファンが16歳でピアニストとしてデビューをしたと聞き、驚いた。

 英国のピアノ界も落ちたものだな。確かにあの少年の容姿は今頃素晴らしくなっていて、きっとアイドルみたいな扱いをされ、年齢を経て人気が落ちてピアノ界から姿を消すことになるだろう。

 実際、そんな輩は他にいくらでもいた。実力を伴わないピアニストは、やがてそれを見破られ、見限られ、忘れ去られていく。そしてまた新たな人間が登場し、人気を攫っていく。
 聴衆とは、世間とはそういうものだ。

 私はステファンのピアノを讃え、CDを渡してきた友人に一応礼を言って受け取った。

 自宅に帰ると、わざわざもらったのだから……という気持ちだけで聴き始めた。

 こ、これは……!!

 以前、ピアノコンクールで聴いた彼の音とはまるで違っていた。それは、技術力の向上としての意味ではなく、彼から迸る感情を感じさせる奏でだった。

 私は興奮で武者震いした。

 何が彼を変えたのかは分からんが、ぜひステファンに直接会ってみたい。直接、彼のピアノを聴いてみたい……

 私は思いに突き動かされるようにスケジュールを調整し、英国へと向かった。

 レイモンド・クリステンセンが亡くなった後、その長男がクリステンセン財閥を引き継ぎ、ステファンは実家を出て一人暮らしをしていた。

 いきなりの訪問にステファンはかなり驚いたものの、私のことは知っていたらしく、自宅へと通してくれた。

 暫く振りに会ったステファンは、私の期待どおり、いや、それ以上の美青年に成長していた。エレノアの面影を残す涼やかさを感じさせる美麗な顔立ち。そしてこの歳ではなかなか身につけられない妖艶さを纏った雰囲気は、私でさえもゾクリとさせる程だった。

 ステファンはドイツ語を話せたため、通訳は必要なかった。挨拶もそこそこに、私は彼にピアノを聴かせて欲しいと頼んだ。

 ステファンは躊躇いながらも、熱心に乞う私の熱情に負け、ピアノを弾くことを承諾した。

 私はピアノのすぐ横に立った。興奮で胸が高鳴るのが分かる。

 スゥーッと大きく息を吸い込んだ後、ステファンの細く長い指先が、鍵盤に触れた。

 これだ!!
 そうだ、これこそ、私がエレノアの息子に求めていたものだ……!!

 まだエレノアの演奏には遠く及ばないものの、彼にはエレノアの影を思わせる繊細さと美しさ、そして人の感情を揺さぶる力があった。彼の触れた鍵盤の先から情景が溢れ出してくるのを感じた。

 その頃はまだ、自分のピアノ道を極めることだけを考えていた私だったが、この時初めて後進を育ててみたいという気持ちが湧き上がった。

『ステファン、ウィーンにぜひ来てくれ。君を私の指導でもっと素晴らしいピアニストとして育てたいんだ』

 私は、ステファンは当然私の申し出を受けるものだと思っていた。

 だが、彼の口から出た言葉は……

『大変嬉しい申し出なのですが……私は、英国を離れることは出来ません』
『な、なぜなのだ!? ここにいても、私以上の優秀な指導者には出会えないんだぞ!
 今以上に素晴らしいピアニストになりたいとは思わんのか!?』

 そう言って迫る私をステファンは押し返した。

『確かにこんな素晴らしい機会、本当にないと思っています。
 ただ……私には、守らなければならない存在がいますので。今は、ここを離れることは考えられないのです』

 ステファンの瞳には揺るぎない決意が現れていた。

 きっと、どれだけ説得しても彼を動かすことは出来ない……

 そう思った私は、無念な思いを抱えながらもウィーンへと帰った。
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