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110.サラの愛

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 その時突然、背後から重い足音が響いた。

 ステファンが後ろを振り向く前に腕を拘束され、白い布が口を覆った。

「ッ……」

 同時に胸を突かれ、息苦しくなったステファンは大きく息を吸い込み、クロロフィルムを嗅がされた。意識が朦朧とする中、ステファンの視界に映るのは涙を浮かべたサラの姿だった。

「ステファン……ごめんな、さい……」

 ステファンはサラに手を伸ばそうとするものの、それは彼女に触れることなく、力なくだらりと床に落ちた。

「サラ、大丈夫ですか?」

 黒ずくめの大男の後ろから、か細い声が聞こえた。そこから顔を出したのは、ステファンのマネージャー、レイチェルだった。

 男がステファンを席に下ろし、シートベルトを掛ける。意識を失い、手足をだらんと下げているステファンの様子を見て、サラの胸はズキズキと痛んだ。

「本当に……いいんですか」

 レイチェルが、サラを心配そうに見つめる。

「はい。お願いします」

 サラは青ざめた顔のまま、しかし、はっきりと言った。

「私がもいでしまったステファンの羽を……どうか、取り戻させて下さい。彼が世界に羽ばたくピアニストとなれるよう、支えてあげて下さい」

 レイチェルは、意識を失っているステファンに目を向けた。

「クリステンセンさんは……私を恨むでしょうね。
 それでも私は……マネージャーとして、世界に誇るピアニストであるステファン・クリステンセンを支えていくつもりです」
「ありがとう、ございます……」

 サラは、深々と智子にお辞儀をした。

 サラはタラップを下りる途中、眩暈を起こし、階段を踏み外した。下で待っていた客室乗務員が、慌ててタラップを駆け上がる。

「大丈夫ですか!?」

 支えられて立ち上がると、サラは小さく頷いた。

「えぇ……」

 だが、その顔色は青ざめたままだった。一歩一歩慎重に下り、ようやく下まで下りきったところで、支えてくれていた乗務員に声をかける。

「離陸、して下さい」
「え、お乗りにならないのですか!?」

 驚いたように見つめる彼女に、サラは力なく微笑んだ。

「えぇ……見送りに、来ただけですから」

 ゆっくりと飛行機の扉が閉まり、タラップが外された。

 暫くして、飛行機が滑走路に向かってゆっくりと進み始める。エンジンの轟音が響き、そこから見える空気が揺らめいていた。

 真っ直ぐに伸びた滑走路に入った眩い白の金属の巨体が、徐々にスピードを増して滑っていく。それをサラは、ずっと見つめていた。

 ステファンはウィーンに着いた時、いったいどんな思いになるのでしょう。
 私のことを、どう思うのでしょうか……

「ッ……ウゥッ……ッグ……ゥヴッ……」

 サラは、ステファンに絞められた首をさすった。きっとそこは、赤黒い痣がくっきりと残っているだろう。

 ーー愛と憎しみは紙一重。

 ステファンの愛情を憎しみに変え、悪魔の行動へと駆り立ててしまったのは自分なのだ。あの時のステファンの狂気に満ちた血走った瞳とギリギリと締め付けられる首の痛みを、サラは一生忘れることはないだろう。

 だが、殺されそうになりながらも、あの時サラの心を支配していたのは恐怖ではなく、それ程までに自分を深く愛してくれているステファンへの愛情と彼と添い遂げることが出来なかった悲しみだった。

 滑走路を勢い良く滑っていた飛行機の腹がフワッと浮き上がり、少しぐらつきながらもぐんぐん上昇していく。
 
 ステファンは、サラさえいれば何もいらないと言ってくれた。それは、彼の真実の言葉であるとサラは知っていた。

 だが、彼は自分の気づかぬ間に、ピアノが彼の一部となっていたのだ。無意識で欲する程に、渇望してやまない、彼の魂の一部に。

 それを知ってしまったサラにはもう、彼のピアニストとしての人生を失わせることなど出来なかった。ピアニスト、ステファン・クリステンセンとしてだけでなく、ひとりの人間、ステファン・クリステンセンを殺めることになるから。

 何よりも、世界の聴衆が彼のピアノを求めている。

 彼の場所は、サラの隣ではない。
 この広い世界、なのだ。

 ごめん、なさい……ごめんなさい、ステファン。

 私を恨んでもいい。憎んでも、いい。
 もう、私のことを忘れてもいいですから……

 どうか、一流のピアニストとして世界に羽ばたいて下さい。
 世界中の観衆を魅了してやまない、愛されるピアニストに。

 さようなら。
 さよう、なら……私の、愛しい人。

 私は、いつまでも貴方を愛し続けます。
 遠くから、ずっと……



 ーーこれが、私の貴方への愛なんです。



 愛してるから。
 愛しているからこそ、さようなら……
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