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9.愛の夢

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 肌触りの良い上質なリネンの感触と微かに匂うラベンダーの香りに包まれて、ゆっくりと意識が浮上する。微睡みながら、瞼を開いていく。

 ここ、は……?

 一瞬、自分がどこにいるのか戸惑ったが、目に映る景色と過去の記憶の景色が次第に重なっていくのを感じた。

 ここ、ステファン叔父様の家のゲストルームですわ。以前、何度かここで寝かせてもらったことがありましたもの。

 ブラウンを基調にした部屋にはツインベッドが置かれ、真っ白なシーツに落ち着いたチャコールブラウンのベッドスカートが掛けられていた。クローゼットはアンティークっぽい年季のはいった深みのある木目で、猫脚が優雅な雰囲気を醸し出している。

 家具やリネンはあの頃と変わっていたが、部屋に漂う匂いや雰囲気は変わっていなかった。

 部屋には、ステファンの姿が見えない。

 サラは寂しさと不安を胸にベッドを下りようとすると、ズキズキと下半身の中心に痛みが走った。昨夜の交わりを思い出し、サラはひとり顔を赤らめた。

 クローゼットの脇のアンティークの椅子に掛けてあった深緑色のドレスと下着をなんとか時間をかけて着ると、壁伝いに歩き、ゲストルームの扉を開けた。

 ぁ......

 美しく穏やかなピアノの旋律が聴こえてくる。

 この部屋、防音だから扉を開くまで全然聴こえなかったのですね。

「愛の夢 第3番......」

 愛の夢 第3番。ハンガリーのピアニスト、リストによる3曲から成るピアノ曲。
 特に第3番は有名で、ドイツの詩人フェルディナント・フライリヒートの詩集「Zwischen den Garden」の「O lieb, so lang du lieben kannst!」(おお、愛しうる限り愛せ)に曲をつけたものとなっている。


 おお、愛しうる限り愛せ!
 その時は来る その時は来るのだ
 汝が墓の前で嘆き悲しむその時が

 心を尽くすのだ 汝の心が燃え上がり
 愛を育み 愛を携えるように
 愛によってもう一つの心が
 温かい鼓動を続ける限り

 汝に心開く者あらば
 愛の為に尽くせ
 どんな時も彼の者を喜ばせよ
 どんな時も悲しませてはならない

 言葉には気をつけよ
 悪い言葉はすぐに口をすべる
「ああ神よ、誤解です!」と嘆いても
 彼の者は悲しみ立ち去りゆく


 サラは、ステファンがピアノを弾く後ろ姿を離れた場所からそっと見つめていた。

 ピアノを弾くステファン叔父様の姿って、本当に美しい……

 鍵盤を滑らかに滑る美しい指先から紡がれる『愛の夢』に、まるで恋に目覚めた少女のような胸の高鳴りを覚える。

 旋律に合わせ、優美に撓る背中の曲線。後ろに纏められた煌めく銀色の髪が華麗に舞い、透き通るようなきめの細かい肌を窓から射し込む陽光が照らし出す。眼鏡の奥の透明感をもったライトグレーの瞳は、うっとりするような愛に満ちた眼差しをしていた。

 美しく気高くありながらも人を魅了してやまないオーラがステファンを包んでいるのを感じ、サラはその完璧な映像の前に息を呑み、佇んでいた。

「フフッ、覗き見、ですか?」

 ステファンが、曲を弾き終わってサラを振り返った。

 あ、気付いていらっしゃったのですね……

「い、いえ邪魔しては悪いかと思いまして……」

 しどろもどろになりながら話すサラを、ステファンが柔らかい笑みで返す。

「サラを邪魔に思うことなど、ありえませんよ。いつでも傍に置いておきたいと思っているのですから。
 それに……この曲は、貴女を想いながら弾いていたのですよ。さぁ、こちらに来て私にその可愛い顔を見せて下さい」

 ステファンの言葉に、急速に顔が熱くなるのを感じる。

 おずおずと近付くと、先程まで美しい旋律を奏でていた彼の指が、優美にサラの指を絡め取る。それだけで、サラの心が切なく震えた。

 好き......

 ステファン叔父様がどうしようもないくらいに好き。
 指を絡めているだけで、感じます。私はこの人のことが、愛おしくて堪らないのだと。

 溢れ出す感情に、サラの瞳が潤み出す。人を愛する感情が昂ると涙が出るのだと、この時サラは初めて知った。

「まったく、貴女は……」

 言葉とは裏腹に、ステファンの優しい瞳が美姫を映し出す。

「ステファン叔父様……好き。好き、です。どうしたらいいのか、分からないくらいに……」

 指を絡めていた手をステファンがぐっと引き寄せ、サラの躰はバランスを崩して彼の胸に抱かれた。

「ステファン、でしょう?」
「ぁ……」

 そう、でしたわ。

 昨夜のステファンの言葉を思い出し、胸が高鳴る。

「ステファン……」

 ステファンの逞しい胸から、鼓動が聞こえる。

 ステファンの鼓動、速い……

 ステファンはサラを横抱きにして膝の上に乗せ、腕を腰に絡めた。

「私だって、同じなのですよ。
 サラ、貴女がどうしようもなく愛しくて仕方がないのです。貴女以外のことは全てどうでもよくなってしまうくらい……」

 ステファンは絡めていた指を離し、その指でサラの唇の輪郭をゆっくりとなぞった。

「こんなにも愛おしく思うのは、貴女だけです」

 サラの胸の奥から熱いものが込み上げてくる。愛しさに突き上げられるように、自ら唇を重ねた。

 心を尽くし、愛を尽くす。
 心が、温かい鼓動を続ける限り……
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