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292.閉ざされた世界

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 美羽の目の前を、白い作務衣を着た女性が横切っていく。先ほどとは違う畳の感触に、ここにはもう両親はいないのだと知っていても、まだ胸のざわめきがフツフツと茹っていた。

 本当はお母さんは類のことを知っていて、私たちをわざと泳がせているんじゃ……

 ううん、そんなはずない。
 もし、類が日本に戻ってきて私と住んでいるなんて知ったら、あのお母さんが落ち着いてなんていられるはずがないもの。

 それに、この教団施設に住む出家信者たちは外部との接触を禁じられている。お母さんたちが外の世界のことを知るのは不可能だし、お母さんと関わりがあるのは教団の人だけだから、彼らも同じ状況のはず。

 きつく寄せられていた眉が、ふっと緩む。

 このところお母さんは類のことを話題にしなくなってたし、私が心配し過ぎてるだけだよね。お母さんの生活は、この隔離された建物の密室が全てだもの。何も心配することなんて、ない。

 だが、母の変化も感じ取っていた。

 今日の母は、いつもとは明らかに違っていた。類と関係がないのであれば、どんなことなのだろうかと美羽は思いを巡らせた。

 お母さんの意識は、別のところにあった。あれほど私と類を引き離すことに固執していたお母さんが、夢中になることってなんなんだろう。
 あんなに嬉しそうに興奮してるお母さん、見たことなかった。

 幹部になって個室を与えられたからなのかなって考えたけど、引っ越す前はそれより大きな家に住んでたし、自分だけの部屋も持ってたから、個室を与えられたぐらいであれほど喜ぶとは考えづらいし。

 先生に認められたって思いが強いから、なのかな?

 華江が高槻に心酔し、幸福阿吽教にのめり込めばのめり込むほど類との対峙を避けられることが出来るのは安心だが、娘としての思いは複雑だった。

 今の華江にとって、高槻は誰よりも、何よりも絶対的な存在であることは間違いない。だが、この関係は、未来永劫続いていくものなのだろうか。



 もし何かのはずみで、お母さんがこの『幸福阿吽教』という桃源郷からの夢に目醒めた時……いったいどうなるんだろう。



 得体の知れない恐怖が背骨を這い上り、美羽はブルッと小さく身を震わせた。

 意見を聞きたくても、さっきまで隣に座っていた寡黙だけれど頼れる義兄は、もういない。外から訪ねてきた信者の家族は、出家信者と引き離された上、男女別に大部屋で過ごすことになっているからだ。

 美羽の視界に、自分もまたそうであろうと思われるような不安の色を目に映した大勢の女性たちが、居心地なさげに座っている姿が入った。

 先ほど浴場で見かけた子供がいた。この場の空気を嗅ぎ取ったのか、ギュッと母親にしがみつき、美羽の胸が再び絞られ、痛くなる。

 無意識に時計を探しかけ、この部屋にはないのだとすぐに思い出して俯いた。

 お母さんたちの部屋には、時計が掛けてあったな。

 糸を手繰るように、あの時の場面が引き出されていく。

 そういえば……私たちといる時、何度も時間を確認して、そわそわ落ち着きない様子だった。

 これから何か、あるのかな。

 これから何か……と考えて、美羽は気持ちが沈んだ。

 突然パッと部屋の電気が消える。いきなり光を奪われた目が対応できず、何も見えない。

 ウィーン……

 不安な気持ちを掻き立てる無機質な機械音が響き、目の前の壁に白いスクリーンが下ろされる。

 スクリーンに照らされた青白い光が周りをボーッと映し出し、目が次第に暗闇に慣れてきた。



 両親と顔を合わすのと同じぐらい、いや……それ以上に憂鬱なイベント。

ーー「大祈祷祭」が始まった。


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